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この世界で、君だけが死なない【※頭から書き直します】  作者: しげみち みり


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第5話 家族のいない夕食

 夕方のニュースは、もう明るい顔で嘘をつかなくなっていた。陽は高いのに、画面の隅には〈六月六日(十九時間)〉が居座り、キャスターの声は要点だけを読み上げてすぐに黙る。余白がないのだと分かる。ことばのまわりが削られて、必要な線だけが残っている。


 台所で母が鍋の蓋を開ける音がした。炊き込みご飯の湯気が僕の部屋の隙間まで入り込んでくる。匂いは昨日までと同じで、懐かしいほど落ち着くのに、匂いが滑っていく場所に穴が空いているみたいだった。


 「今日は三人分ね」


 母の声がした。僕は返事をしながら廊下に出る。食卓に並んだ茶碗は、二つだった。箸も二膳。テーブルの端に空いたスペースは、動線に組み込まれていない。そこを通るとぶつかるはずの椅子が、最初から設計図にないみたいに消えている。


 「母さん」


 僕が呼ぶと、母は平然として笑った。湯気の向こうで、目尻にしわが寄る。


 「三人分って、言わなかった?」


 「言ったよ」


 「そっか。なら、二人でちょうどいいわね」


 言葉の順番が、器用に入れ替わる。僕は湯気のなかに立って、深く息を吸い込んだ。鼻の奥が温かくなって、胸の真ん中がすうっと冷たくなる。


 夕飯は静かに進んだ。母は最近よくそうするように、テレビの音量を小さくした。ニュースのテロップが黙って口を動かし、アナウンサーの笑顔だけが画面に残る。音がないと、食器の触れ合う高い音が耳に刺さる。


 「学校、どう」


 「クラス替えがあるって」


 「この時期に?」


 「うん。出席、数えないんだって」


 母は箸を止め、ほんの少しだけ眉を上げた。驚いたのではなく、認めたのだと思った。


 「数えてると、間に合わないからね」


 この“間に合わない”は、遅刻とか提出期限の話ではない。世界の速度に、人の手が追いつかないという意味だ。僕は茶碗の米粒をひとつ拾い、口に運んだ。舌に載せると、昔の記憶がふっと立ち上がっては、すぐに薄くなった。薄くなる速度が、日に日に早い。


 食卓の片付けを手伝ってから部屋に戻り、机の上の小さなスピーカーをスマホに繋いだ。再生リストの一番上に、父の声が残っているはずだった。酔っ払って歌って、母に笑われる声。僕が小さい頃に撮ってもらった、誕生日のビデオの音声だけを抜き出したもの。再生ボタンを押す。


 雑音が、低くうなった。ふたつみっつ、波の形がスピーカーの奥でつぶれていく。声の残骸に耳を近づけると、逆再生みたいなひっくり返った音に混じって、紙を裂くような短い音が紛れていた。反応的に録音アプリを起動する癖がついている自分が、すこし嫌になる。それでも録る。残すために。


 窓を少し開けると、外の空気が薄かった。救急車のサイレンが、今日は一度も鳴らない。夜が短すぎて、鳴らす余白がないのだろう。サイレンは目立つ。目立つものは、削られる。そんな直観が体のほうから先に来る。静かな街は、逆にざわついていた。目が騒いで、耳が静かすぎる。


 翌朝のホームルームで、クラス替えが強行された。告知は短い。ホワイトボードに、太いマーカーペンで新しい組み分けが書かれている。出席番号は詰められ、点呼はない。班長や係は、担任の独断で配られ、誰も文句を言わなかった。言葉の余白がないから、反論の弾みも生まれない。


 「今日から、みんなは二組ね」


 森本は笑って言った。笑いが硬いのは、今日に始まったことではない。教卓の上に積まれたプリントの束は薄く、紙の匂いが新しくない。印字の黒が浅い。日付の右に小さく、数字が印字される。〈19h〉。僕はそれを受け取り、手帳にクリップで挟んだ。


 凪は写真部の暗室に籠もっていた。クラス替えの後の昼休み、僕がノックすると、一拍の沈黙のあとでカーテンが開いた。光は中に踏み込まず、ドアの前でやさしく折れた。凪の髪がその線のところで柔らかく揺れる。


 「今、焼いてるから、入るならゆっくり」


 凪はトングで印画紙をつまみ、トレイからトレイへと移していく。薬品の匂いが鼻にくっきりと刺さった。彼女は目を細めて笑う。


「化学の匂いって、安心するね。消えない匂い」


 安心、という言葉が暗室の黒に溶けた。匂いは裏切らない。記憶は薄くなるのに、匂いはとどまる。凪がレンズのキャップを外し、ライトをほんの一瞬だけ当てて切る。暗闇にうっすら像が浮かんだ。昨日の掲示板。前のクラスの連絡の紙。赤ペンで囲った「時短」の文字。ふちが滲んでいるのに、紙の皺だけはくっきり見えた。


 「紙はね、いじられても跡が残るよ」


 凪が言う。桐生の口癖だ。言った瞬間、胸の奥が音を立てた。僕は息を整え、手帳を取り出した。ページを開く手に、すこし汗が滲む。暗室の赤い光の下で、見慣れない筆跡が目に飛び込んできた。


 〈順番を逆転できる。代償あり〉


 細い筆圧の均一な字。句点が小さく、線と線の間が狭い。僕の字ではない。凪でもない。桐生の字に、似ていた。似ているけれど、ほんの少しだけ違う。いつもの仕事の字ではなく、急いで書いた人の字。手が震えているときの、でも落ち着こうとしているときの。


 「これ、いつ書いたの」


 凪が僕の肩越しに覗く。僕は首を振った。


 「さっき開くまで、気づかなかった」


 「桐生、かな」


 「たぶん」


 胸の内側がざわついた。暗室の静けさと、外の世界の薄さの間で、音が弾む。それが自分の鼓動だと分かるまでに時間がかかる。


 凪はしばらく黙ってから、トングを置いた。僕の手首にそっと触れる。


 「代償って、何」


 「分からない」


 「聞こう。先生に」


 午後、部室へ向かった僕らは、扉の前で足を止めた。中は空っぽだった。机の上のコップの水に、まだ輪が揺れている。誰かがさっきまでここにいた証拠だけが残っているが、その誰かが誰なのか、言葉が追いつかない。掲示板に目をやると、そこに違和感があった。部活動の顧問一覧。写真部の欄に、桐生の名前がある。あるのに、薄い。印刷が擦れているわけではない。名前だけが、薄い。指でなぞってみる。紙の繊維はすこし盛り上がっている。そこに確かにインクが落ちたはずだ、という手触りの証拠だけがある。


 「“誰もが知っている”のに」


 凪がつぶやく。廊下の向こうでベルが鳴った。今日は昼休みが短く、掃除の時間も短い。何かが軋む音は、僕らの内側から聞こえてくる。桐生は“目立つ”人だ。写真部の扉を開ければ、彼の声がするのが普通だった。いま、普通が消えていく。


 僕は部屋の机に手帳を置き、さっきの一行をもう一度見た。順番を逆転できる。代償あり。代償。世界の参照順を変えるのなら、世界の別の場所が切り落とされるのではないか。端を救えば、別の端が鋭くなるのではないか。頭のなかで仮説が砂のように崩れていく。崩れる前に、線だけ拾う。拾って、紙に落とす。


 〈逆転の条件〉

 写真/呼称/証言/触覚。線を増やす。中心との距離を縮める。

 〈代償の仮説〉

 中心の過負荷。別の誰かの切断。自分の何かを差し出す。


 書いてから、ページの端を握りしめた。凪は僕の肩に額を乗せて、息をひとつ吐いた。


 「ねえ」


 「うん」


「もし、本当に代償がいるなら。……あなたは何を出すの?」


 すぐには、答えられない。答えた瞬間、その通りに世界が組み替わる気がした。言葉は契約書だ。署名のない契約でも、言えば効力が生まれる。


 「分からない。でも、端の人の名前を呼ぶくらいなら、できる」


 「なら、やろう」


 凪の声は小さいのに、強かった。暗室の赤い光で見た彼女の目は、泣いているみたいに見えて、泣いていなかった。


 その日の午後、学校は早く終わった。チャイムが鳴り続けるように鳴り終わり、廊下の影が長く伸びる前に放課になった。帰り道の商店街では、シャッターが半分まで下りた店が「また明日」をやめて「今日まで」と書き換えていた。電柱に貼られた市の掲示に、新しい一行が増える。


 〈市内街灯 一部消灯 参照負荷軽減〉


 言葉は便利だ。削ることも、軽く見せることも、ひとつの語でやってのける。歩道の端で、ベビーカーを押す女性が空を見上げていた。雲が薄い。薄さは綺麗で、怖い。僕は家の方向に小走りになる。家の前で一度立ち止まり、玄関のドアを開けた。


 リビングの照明は半分だけ点いている。母は冷蔵庫の前に立って、何かを書いていた。買い物メモだ。牛乳、卵、乾麺、電池。いつもの列は、あまりに普通で、逆に胸が熱くなる。


 「今日は二人分?」


 僕がたずねると、母は「三人分よ」と答え、冷蔵庫を開けて中をのぞき込んだ。そして笑った。


 「二人分だったわね」


 僕も笑った。笑いながら、胸の奥を手で押さえた。笑うときに、ここが痛むのは、悪い兆候ではない。まだ、痛むのだから。痛みは生きているほうの信号だ。


 部屋に戻り、机の上のボイスメモのファイル名を眺めた。昨日の録音、切断音は四回。今日は、いくつになるのだろう。窓の向こうの空がすでに薄暗い。十九時間の一日は、夕方が午前に近づいてくるように終わる。時間の斜面は滑りやすい。踏ん張る足の裏が汗ばむ。


 歯を磨いて、部屋の灯りを落として、録音アプリを起動した。窓を少しだけ開け、カーテンの隙間を指で広げる。街灯は一本おきにしか点いていない。点いている灯りの下にだけ、影が立つ。立った影は、根っこを失った植物みたいに、ひょろひょろと揺れる。スマホのマイクの感度を上げる。


 “シャリ”


 最初の一度は、遠い。いつも通り、風の稜線の向こう側だ。


 “シャリ”


 二回目は、乾いた。刃物の背で紙を押し切るみたいな、短い音。


 “シャリ”


 三回目は、路地の角からだった。窓の外の空気が、紙袋を裂くみたいに少しだけ顔を歪める。


 “シャリ”


 四回目は、電柱の根元。白い粉が舞い上がった気がした。録音の波形が、等間隔に並ぶ。


 “シャリ”


 五回目は、胸の真ん前で鳴った。息が詰まって、指が凍った。窓ガラスに映る自分の顔が、見慣れない人の顔に見える。録音は動いている。小さな山が五つ、綺麗に並んだ。ファイル名を保存する指が震える。六月六日。十九時間。切断音、五回。


 僕は手帳を開き、震える字で書いた。


 〈夜 切断音 五〉


 書きながら、涙が頬を伝った。最近は泣いていなかった。泣けないのは、忙しいからだ。忙しいのは、世界のほうだ。僕はその外側で、ただ見ている。泣いたのは、音の数よりも、今日の夕飯の“動線”のせいだ。最初から設計図にない席。そこに座った人のために一度も椅子を引かなかった自分の手が、じわじわ熱くなる。遅すぎるのは分かっている。遅すぎても、熱くなる。


 涙は塩辛い。舌で舐めると、塩の味がする。死なない体は、涙の塩分も忘れさせない。忘れられないということが、罰の別名だと知る。泣けるだけましだと、誰かが言いそうだった。言ったとしても、慰めにも脅しにもならない。謎の一行は手帳の真ん中で黒く光り続ける。


 〈順番を逆転できる。代償あり〉


 桐生に会わなければならない。そう思っているのに、掲示板の彼は薄く、クラスのチャットでは既読の数が減っている。既読の数は、人の数ではないのに、人の気配に似ている。気配もまた、削られる。明日、朝一番で職員室に行こう。いなければ、暗室。いなければ、グラウンドの端。撮影のよく似合う場所。写真に写らない先生なんて、苦手だ。


 目を閉じる。まぶたの裏に、今日の暗室が浮かぶ。赤い光。薬品の匂い。凪の指。トングの金属の冷たさ。印画紙に浮かび上がった、輪郭だけの人影。あの影の中に、桐生の声が混じっている気がして、耳を澄ます。聞こえるのは、夜の裂ける音だけだ。


 “シャリ”


 記録は、残せる。残せるものは、少しずつ減る。減るから、残す。僕は枕元の録音を止め、手帳にペン先を置いた。


 〈家〉母は二人分を三人分と言う。テーブルの端の席が動線から消える。父の声の録音は雑音のみ。家族写真は一枚減る。


 〈学校〉クラス替え。出席は数えない。掲示――名前が薄くなる。桐生の名、紙の繊維は残る。


 〈暗室〉消えない匂い。紙に残る跡。焼きつけは間に合う。


 〈手帳〉見知らぬ筆跡。順番逆転。代償。


 書き上げてペンを置く。字が少し滲んでいるのは、涙のせいだ。滲み方で、今日の塩分の濃さがわかるくらい、僕は泣き慣れていない。泣くのは、体にとって新しい仕事だ。仕事を覚えるのに、時間はいらない。時間がないから。


 布団を肩まで引き上げると、体が自分の体温で温まっていく。死なない体は、熱を覚えている。冷たくならないという一点だけが、救いであり、罰だ。目を閉じても、まぶたの裏に数字が浮かぶ。十九。次は十八。次の次は——。先の数を数えるのをやめる。順番を数えると、そっちへ吸い込まれる。代わりに、逆に数える。今日の残り。あと何ページ。あと何行。そこなら、まだ、書ける。


 眠気は、いつもより早くやってきて、いつもより浅く過ぎ去る。夢の手前で切断音が鳴るたびに、体が小さく跳ねる。跳ねるという反応を、眠りは許してくれない。起きても眠っても、世界は薄くなる。薄くなりきらない部分に、僕らはしがみつく。匂い、音、紙、線、名。どれかひとつでも残れば、そこから全部を呼び戻せる気がする。気がするだけでも、眠れる。


 窓の外で風が鳴った。街灯は一本おき。影は、灯りの下にだけ立ち、人の形をしていない。僕は凪の手の温度を思い出そうとした。思い出すのは、驚くほど簡単だった。温度は、まだ削られていない。温度を思い出すだけで、涙はもう一度あふれた。


 そして、眠った。泣きながら。泣きながら眠ると、夢は見ない。夢を見る余白は、もうない。かわりに、音が残る。五つ。きれいに並んだ山のように。明日のページに、きっとそれを写す。写せるうちは、まだ大丈夫だと思う。大丈夫だと思うことまで削られたら、そのときは——そのときの方法で、また書く。


 僕は死なない。今日、あらためて、そう思った。思ってしまった。思うこと自体が、ゆっくりとした罰なら、受けよう。罰の重さは、紙の重さと同じくらいだ。指で支えられる。支えるうちは、まだ、落ちない。


 “シャリ”


 最後の一枚が剥がれて、夜が終わる。その手前で、僕は手帳を胸に押し当てた。ページの角が胸骨に当たり、痛みが小さく残る。痛みは合図。合図があるかぎり、ここにいる。ここにいるから、書ける。書けるから、明日がひとつ、遅れるかもしれない。遅れなかったとしても、記録がひとつ、増える。


 家族のいない夕食を、僕は忘れない。忘れないために、忘れられる前に、書いた。匂いと、音と、紙と、線と、名。誰かが読んでくれるなら、なおいい。誰も読まなくても、なおいい。これは、僕のための記録だ。僕が生きている時間の外側で、僕が生きているという証明だ。


 泣きながら眠った夜の塩は、朝になっても舌に残っていた。死なない体は、それすら忘れさせない。忘れないことに、今日も救われ、今日も罰せられる。そんな均衡の上で、目を開ける。六月七日が、もう目の前まで来ている。窓の外は、夜の続きみたいな朝だった。

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