表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この世界で、君だけが死なない【※頭から書き直します】  作者: しげみち みり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/17

第2話 最初の消滅

 朝の昇降口には、まだ湿気を吸いきれていないマットの匂いが残っていた。靴箱にローファーを押し込み、上履きの踵を指で立てる。いつも通り、のつもりで、一歩ずつ階段をのぼる。廊下の蛍光灯は半分が消えていて、天井から落ちる白い光にムラがあった。節電の張り紙が、昨日より一枚増えている。


 教室の引き戸を開けた瞬間、空気が少し軽くなったように感じた。人の気配が薄い。早い時間だからかもしれないと思っていたら、席についた夏目が、顔を上げて僕のほうを手で招いた。彼の笑い方はいつも大げさだけど、今日は控えめだ。


 「なあ、机、増えた?」

 「減った、の間違いじゃなくて?」

 僕は自分の席に鞄を置き、黒板の横の座席表に目をやった。そこに貼られたマグネットのシールは、いつもの整列を保っているはずだった。けれど、三列目の真ん中、出席番号でいえば八番の位置が白く、ぽっかり空いている。名前がない。綺麗に消しゴムをかけたみたいに、枠だけが残っている。


 教室を見渡す。机は列の間隔に沿って並び、誰かが来るのを待っているようにも見える。その一つが、まるごと余っていた。椅子には誰かの座ったあとも、引きずった跡もない。新品を置いたみたいに木目がつやつやしていた。


 「誰の席だっけ」

 夏目がつぶやく。その声に反応して、近くの数人が集まってきた。小さな輪ができて、言葉が交錯する。

 「斎藤?」

 「いや、斎藤はそこ」

 「じゃ、佐伯?」

 「佐伯は今日休みだってLINE来てたよ」

 「ていうか、ここ誰だったんだっけ」

 視線が僕のほうに流れてきた。僕はとっさに笑ってみせた。

 「ど忘れじゃない? 八番って誰だったっけ」

 「八番……八番……」

 思い出そうとするたび、頭のなかの引き出しがからっぽの音を立てた。名前の輪郭が掴めない。顔を思い浮かべようとすると、目の前に透明な膜が張られる。膜の向こうで誰かが笑っているのに、声だけが聞こえない。


 チャイムが鳴った。いつもより、ほんの少し短い気がした。担任の森本が入ってきて、出席簿を胸に抱えたまま、僕らの輪に目を丸くする。

 「どうした、朝から集会?」

 「先生、ここ誰の席でしたっけ」

 僕が指差すと、森本は一瞬だけ眉を寄せ、それから笑って受け流そうとした。

 「誰って……ええと、そこは……」

 彼の視線が空白の座席表にたどり着く。手に持った出席簿をぱらぱらとめくる。ページをめくる速さが、だんだん早くなる。指の腹に紙の音が連続してはねた。

 「……おい」

 森本は出席簿のある一行を見つめたまま、声を落とした。「印刷、ミスったのかな」

 出席番号八番の欄には、名前がなかった。空白。血が引く、とよく言うけれど、本当に皮膚の内側から温度が逃げていく感じがした。森本は無理に笑って「あとで職員室に言っとく」と言い、ホームルームの話題を切り替えた。机の話は、そこで終わったことにされた。


 ホームルームの最後に、小テストが配られた。白い紙の右上、日付の欄には細い字でこう印字されている。

 〈6/2(23h)〉

 隣の夏目が、小声で言った。

 「なあ、これ、だっさ」

 「ださいっていうか、怖い」

 僕はボールペンを握りながら、数字の並びを見た。二十三時間の六月二日。昨日から今日になったみたいに、日付そのものが縮む。日付が痩せる。紙の端を指で撫でると、わずかにさざ波が立つ。印刷の黒が肌に移りそうで、手のひらを引いた。


 休み時間、黒板の前で口論が起きた。座席表の空白を指して、誰かが「ここは加藤だ」と言い、別の誰かが「加藤は後ろだよ」と反論する。黒板消しの粉が空中に舞って、光に溶けて消える。議論はまとまらず、最後に誰かが「まあ、いいじゃん」と肩をすくめた。その「まあ、いいじゃん」に、教室が丸ごと寄りかかった。寄りかかったほうが、立っていられる。そんな空気。


 授業は淡々と進み、昼休みが来て、午後の授業が押し出されるように短縮されていった。帰りのホームルームでは、森本が配布物の説明を噛んだ。

 「先週……じゃなくて昨日のプリントの、続きが——」

 言い直しながら、顔だけは笑っていた。でも笑いは硬く、頬の筋肉がこわばっているのが目に見えた。


 放課後。写真部の部室に行く。扉を開けると、漂白剤と薬品を混ぜたような匂いが鼻を刺した。暗室のカーテンは半分開いていて、誰かが使ったままのトレイに残った現像液が、鈍い灰の膜を張っている。凪はシャッター音の消えた一眼を机に置き、紐を指で弄んでいた。彼女の髪は朝より少し乱れている。表情は落ち着いていたけど、唇の色が薄い。


 「先生は?」

 「さっきまでいた。コピーの紙が足りないからって出ていった」

 顧問の桐生は、元報道カメラマンで、いつも軽口に救われる。今日もそうだといいと思っていたら、扉が開いて、彼が手に紙の束を抱えて入ってきた。相変わらずの無精ひげ。目の下にクマ。

 「お、いるか」

 凪が一歩前に出る。「先生、相談が」

 桐生は紙束を机に置き、僕らに椅子をすすめた。窓の外ではグラウンドの砂が風に撫でられ、細かい線を描いている。桐生は僕らの顔を見比べ、顎をちょっと上げた。

 「時間のことか?」

 「はい。今日、クラスで一人分の席が空いて……座席表から名前が消えてて。出席簿も空白で」

 凪が言葉を選びながら説明すると、桐生は「ふうん」と短く返し、椅子の背にもたれた。笑い皺が、今日は深くない。代わりに、目尻に硬い影がかかっている。

 「震災のあとも、人は暦より生活を優先したんだよ」

 桐生は窓の外に目をやったまま続けた。

 「電気が来ない日も、ガスが止まる日も、学校は時間をちょっといじって回した。誰かの誕生日が、一度分の停電でずれることもあった。人は順応する。今回も同じだ」

 「同じに、できますか」

 僕が問うと、桐生はゆっくりとこちらを見た。笑った。けれど笑いは硬く、口角がわずかに上がるだけだ。

 「べつに、すぐ答えなんて出すな。君たちは写真部だろ。見たものを残せ。見えないものに名前をつけろ。名前がつけば、たとえそれが消えても、君たちのなかでは残る」

 「見えないものに、名前」

 凪が反芻する。桐生は指でトントンと机を叩いた。

 「シャッターは、いつだって間に合わない。だからこそ構えておけ。失敗してもいい、撮っておけ」

 彼の声はいつも通りだった。けれど、その言葉の音色の底に、薄いひび割れが走っているのを僕は聞いた。


 部室を出ると、夕方の廊下は空っぽだった。蛍光灯がじい、とかすかな音を立て、床に落ちる光を薄く揺らす。その下を歩いていると、凪が袖を引いた。昼間と同じ仕草。けれど、引く力が少し強い。

 「見にいきたい場所がある」

 「どこ」

 「商店街の向こうの廃ビル。ポスターが剥がれてる壁があるの。昨日の夕方、風で剥がれた隙間から、何かが見えた気がして」

 彼女の目はまっすぐだった。僕は頷いた。


 商店街のシャッターは、半分が閉まっていた。いつもなら開いているはずのパン屋も、今日に限って「時短営業」の紙をぶら下げている。赤い糸で結ばれた紙は、風に揺れてカランと音を立てた。人通りはまばらで、自転車に乗ったおばさんが、いつもより早い速度で通り過ぎる。空は薄い青から橙に溶けていく途中で、目を細めると輪郭がぼやけた。


 廃ビルの手前で、自販機が沈黙していた。ボタンの光はついているのに、どの缶も冷たくない。金属の面に、僕らの姿が歪んで映る。凪はその前をすり抜け、ビルの壁に近づいた。壁面のポスターは半分ほど剥がれ、下から古い広告が顔を覗かせている。色あせたモデルの笑顔が割れて、薄い紙の断面が重力に耐えていた。


 足元に、写真が落ちていた。土と湿気を吸い、角が少し丸くなった集合写真。僕はしゃがみ、指先で砂を払い落とした。

 「クラス写真だ」

 凪が覗き込む。四月に撮ったはずの、あの写真。校庭の桜は半分散りかけで、みんなが眩しそうに目を細めている。僕は自然と、数を数えた。一人、二人、三人——十七。

 「……十八人じゃなかったっけ」

 数え直す。十七。

 「誰がいない?」

 ふたりで写真の顔を追う。夏目、凪、僕、委員長の宮原、前列の双子の片方、いつも寝不足の森田。次の人、次の人。視線が一周して、戻ってきた。

 「最初から、十七?」

 印刷の粗い粒子は均一で、継ぎ目がない。誰かが切り抜いた跡もない。欠けた一人の輪郭は、存在しなかったことになっているみたいに綺麗だった。現像ミス、と言い切るには、写真全体の均質さが不気味だった。

 「ここ」

 凪が指を止めた。僕が視線を合わせると、二列目の端、僕の右隣の空間に、何もないのに、何かがあったような縁取りだけが残っている気がした。背の高さの線だけが、光の加減で浮かんでは消える。

 「ここにいた人、たぶん、背が高かった。笑い方が苦手で、でも——」

 凪の声が折れた。唇から言葉が滑り落ちず、喉の途中で潰れてしまう。彼女は目を閉じ、また開いた。

 「だめ。だめだ、思い出せない」

 僕は写真を胸ポケットに入れた。心臓の上で、紙がわずかに擦れた。


 帰り道、風が強くなった。横断歩道の白線が、歩くたび足元で波打つ。電柱に古いスローガンのポスターが残っていて、「未来は、時間を味方に」と書かれていた。剥がれた部分からコンクリートがのぞき、未来の「未」の字だけが残っている。時間は、もう味方じゃない。


 家に着くと、母が台所で玉ねぎを刻んでいた。夕飯の匂いは温かいのに、テレビの音声はどこか冷たい。ニュースキャスターは落ち着いた声で、公共交通機関の新しい時刻表を読み上げていた。テロップの右上には、今日の日付がこう表示されている。

 〈6/2(23h)〉

 昼に見た小テストと同じ書式。ここにも、時間の痩せた数字が居座っている。


 風呂から上がると、窓の外で風が鳴っていた。カーテンを少し開けた。路地の街灯が湿気を含んだ空気に滲み、ぼやけた円を作っている。僕は耳を澄ませた。昨夜と同じ音を、探すように。


 “シャリ”


 薄く、紙を切るような音。風に混ざって、一度だけ。僕の背中を冷たい指がなぞる。息を止めたまま、さらに耳を凝らす。数拍の沈黙のあと、もう一度。


 “シャリ”


 今夜は二度。刃物の二度引きのように、確かに二度。どこか遠くで、目に見えない誰かが世界の端をそいでいったのだと、そうとしか思えない音だった。僕は窓を閉め、鍵をかけた。鍵の金属音が、やけに大きく響いた。


 翌朝。スマホの画面に浮かぶ日付は〈6/3(22h)〉だった。桁がひとつ進んだのに、総量は減っている。僕は胸の奥に石を抱えたまま学校へ向かった。昇降口は昨日と同じ匂い。けれど教室の空気は、昨日より軽い。軽いというのは、薄いということだ。誰かの体温が消えたあとみたいに。


 ホームルームが始まる直前、体育教師が教室の前を通った。通った、はずだ。青いジャージ、笛の紐、短い髪。僕はそれを目の端で捉えたのに、名前が出てこない。首筋に汗がにじむ。体育の時間にいつも怒鳴る声、あの声の主の名字。誰も言えない。出席簿のその行は、空白に変わっていたと、二時間目のあと、職員室の前で知った。


 「なあ、体育の先生ってさ」

 夏目に言いかけたとき、彼は首を傾げた。

 「誰?」

 「ほら、ジャージの、走るの好きな」

 「体育は、森本が担当になったって」

 「森本は担任だよ」

 「だから、兼任」

 夏目はあっさり言い切った。まるで最初からそうだったみたいに。僕の頭のなかの校内配置図が、音もなく書き換わっていく。空白に流し込むように、別の事実が据え付けられていく。


 これは、やばい。胸の石が重さを増す。僕は席に戻ると、筆箱からペンを出し、手帳を開いた。ページの一番上に日付を書く。〈6/3(22h)〉。その下に線を引き、箇条書きで記す。


 ・教室の空席、八番。出席簿も空白。

 ・集合写真、十七人。欠けた一人の輪郭は消失。

 ・昨夜、切断音二度。

 ・体育教師の名字、思い出せない。出席簿から消失。


 書いていると、手に汗が滲む。紙が湿って、ボールペンのインクがかすれる。僕は手のひらでページを仰いで乾かし、深呼吸した。頭のなかで、昨日の桐生の言葉が響く。


 ――見たものを残せ。見えないものに名前をつけろ。


 名前。名前があれば、留められるのか。名前さえわかれば戻せるのか。わからない。でも、やるしかない。僕は手帳の隣に、小さなポラロイドのカメラを置いた。祖父の納戸で見つけたやつだ。古いけれど、フィルムはまだ残っている。凪に見せると、彼女は眉を上げた。


 「それ、動くの?」

 「わからない。動かしたい」

 「こわいよ」

 「こわい。でも、撮る」

 僕の声は、思っていたよりも落ち着いていた。凪は少しのあいだ黙って、それから椅子を引いた。背もたれに掛けていた自分のカメラのストラップを握り、立ち上がる。黒目がちの目が、真っ直ぐにこちらを見る。

 「じゃあ、私も撮る。二重に残す。どっちかが消えても、どっちかが残るように」

 「ありがとう」

 礼を言うと、凪は笑った。笑ったけれど、その笑みはほんの少しだけ、今にも崩れそうだった。


 昼休み、僕らは校内をまわった。掲示板のプリントを一枚一枚撮り、クラスの連絡黒板を撮り、保健室前のポスターを撮った。凪は、撮るたび小さくメモをくれる。プリントの右下、発行日の隣に小さく〈(22h)〉と手書きで添える。そうすると、時間の印が生き物みたいに紙に居座った。


 印刷室の横、古いコピー機がある小部屋に入る。室内は少し湿っていて、紙の匂いが濃い。僕らは職員室の前に貼ってあった「部活動指導表」をコピーした。用紙を取り出すと、端が微妙に波打っている。コピーしたばかりの黒が、指先に粉のように移る。そこに書かれた「体育」の欄は、空欄だった。昨日までは、確か、あの名字があったような気がする。けれど思い出せない。思い出せないこと自体が、現実になりつつある。


 桐生に見せにいくと、彼はコピー用紙を光にかざし、透かして見た。裏から薄く文字が浮かび上がる、はずの場所に、なにもない。桐生は口を少し開け、息を吸い込んでから、ゆっくり吐いた。

 「いいか、保存は二系統。紙とデータ。データは劣化しないと思いがちだが、こういうときは紙が強い。紙は、文字が消されてもインクの跡が残る」

 「インクの、跡」

 「紙の繊維が変質する。見えなくなっても、痕跡はある」

 桐生は自分のスマホでも写真を撮り、クラウドのフォルダ名に〈6_3_22h〉と打った。彼の指がわずかに震えているのを、僕は見た。笑いの代わりに、手つきが正直だった。


 掃除の時間、廊下でモップをかけながら、凪が言った。

 「順番だね」

 「順番?」

 「存在の順番ごとに、削られてる。昨日は机、今日は名前。夜に二回音がしたなら、二つ分、切られたのかも」

 「じゃあ、今夜も音がするかな」

 言いながら、ぞっとした。言葉にするだけで現実に寄ってくる。凪はモップの柄を握り直し、目を伏せた。

 「音がしなくても、削られるのかもしれない。でも、音がしたら、それは証拠になる。音を録っておく?」

 「録る」

 僕はスマホのボイスメモの新規作成に、日付と〈切断音〉と打ち込んだ。文字は画面のなかで静かに並び、まだ何も保存していない癖に、そこにあるふりをしていた。ふりでも、ないよりはましだ。


 放課後。空は薄い色のまま早く暗くなる。体育館の窓から漏れる音楽は、昨日よりも短い。曲の最後がカットされているように、ぶつ切りで終わった。帰り道、僕らは廃ビルにもう一度寄った。昨日拾った集合写真の場所に、別の紙切れが落ちていた。拾い上げると、体育祭のプログラム表の切れ端だった。そこにも〈6/3(22h)〉と手書きで追記されている。誰が書いたのか、字は僕の字に似ていた。似ているけど、僕のではない。紙の端に指を当てると、冷たく湿っている。


 夜。風呂場の換気扇の音を、いつもより意識して聞いた。台所で水が落ちる音の粒を、数えるみたいに聞いた。母は、明日の買い出しのメモを書いている。牛乳、卵、乾麺、電池。その電池の横に、僕は小さく〈ボイスレコーダー〉と書き足した。母は不思議そうに見たが、何も言わなかった。


 布団に入り、スマホを枕元に置く。録音アプリを起動し、マイクの感度を上げる。カーテンを少し開け、街灯の光が薄く床に落ちる位置に、ポラロイドのカメラを構えた。すぐに撮れはしないだろう。でも、構えておけば次の一瞬をつかめる気がした。胸が早鐘を打つ。眼球の裏に、集合写真の空白が残像のように焼きついている。


 “シャリ”


 最初の一回は、昨日よりも遠かった。風の稜線が、家々の隙間で擦れるような音。指が勝手に録音ボタンを押していた。鼻の奥がひりつく。全身の毛穴が目を覚ます。


 “シャリ”


 二回目は、ほんのわずかに近い。窓の向こうの路地で、誰かが見えない紙を切り抜くような、乾いた音。僕は息を止め、カーテンの隙間から外を覗いた。街灯の下、影が一瞬だけ揺れて、すぐに元の形に戻る。見間違いかもしれない。でも、見えた、気がした。録音タイムスタンプは二回の波を刻み、小さな山が二つ並んだ。


 眠りは浅く、朝はすぐ来た。六月四日――と、言いたかった。でもスマホは〈6/4(21h)〉と表示していた。時間は、さらに削られている。学校へ向かう途中、商店街の時計台の針が中途半端な位置で止まり、次の瞬間、何事もなかったように少し早回しで進むのを見た。誰も驚かない。驚いているのは、僕の胸の内側だけだ。


 教室に入ると、昨日余っていた机は、もうそこにすらなかった。机そのものが運ばれたのか、それとも最初からなかったのか。誰もその話をしない。座席表の空白は、枠ごと消えていた。三列目の真ん中は、もともと空白の行など存在しないみたいに、番号が詰め直されている。僕の席の番号が、昨日より一つ小さくなっていた。掌が汗で滑り、机の角を握る指に力が入る。


 「おはよう」

 凪が席に滑り込む。目の下に少し影がある。僕は鞄から手帳を取り出した。

 「昨夜、二回。録れた」

 「聞かせて」

 僕はイヤホンを分け合い、再生ボタンを押す。沈黙の海に、二度の小さな波が立つ。淡い、乾いた音。凪は目を閉じ、小さく頷いた。

 「これ、音の位置、わかる?」

 「窓の向こう。路地の電柱のほうから」

 「今日、放課後、見に行こう。電柱の根元、何か落ちてるかもしれない」

 凪の声は震えていなかった。震えていないのが、逆に心細い。平気なふりは、長くは続かない。


 二時間目の途中で、校内放送が入った。冷たいピンのように、耳に刺さる音程。事務的な声が言う。

 「本日、体育の授業は当面のあいだ中止します。担当教員の配置変更に伴い、時程の調整を行います」

 教室の空気がわずかに白け、何人かが小さく拍手した。体育嫌いの拍手。けれど、僕は笑えなかった。体育の授業は中止ではなく、欠落なのだ。欠落に名前をつけるための、「配置変更」という言葉。言葉は便利だ。便利すぎて、怖い。


 放課後、僕らは約束通り、録音の波形が指す方向へ向かった。路地の電柱。根元のコンクリートは、誰かが蹴ったみたいに欠けている。その欠けの中に、何か白い粉のようなものが溜まっていた。指で触ると、きめの細かい紙の感触。爪で撫でると、さらさらと流れた。紙が、粉になったみたいに。風が吹いて、白い粉は路地の奥へ薄く伸びる。僕はその伸びた先を目で追い、足で追った。


 角を曲がった先の壁に、また写真が貼られていた。誰が貼ったのか、テープの端が不器用にねじれている。そこに写っていたのは、去年の体育祭の一コマ。僕たちのクラスが二人三脚でゴールに駆け込む瞬間。そこにも、空白が一つあった。結ぶはずの紐が、片側だけ垂れ下がっている。隣にいるはずの誰かが初めから存在しなかったみたいに、影だけが地面に痩せて落ちている。


 凪は写真に触れず、指先で空白の縁をなぞった。

 「ここにいた人、たぶん、声が大きかった。合図のときに、誰より先に走り出すから、先生に怒られて」

 「名前は」

 「だめ。出てこない。輪郭だけ」

 彼女は言葉を飲み込み、唇を噛んだ。僕は写真の端をそっとめくり、その裏に今日の日付を書いた。〈6/3(22h)〉。紙の繊維がインクを吸い、じわりと広がる。名前のかわりに、数字がそこに残った。残すしかない。


 日が落ちるのが、また早くなっていた。空の色が深い群青へ一気に傾き、街灯が順に灯る。灯る順番が、昨日と少し違う。順番は、世界の呼吸だ。呼吸が狂うと、眠れなくなる。眠れない夜に耳を澄ますと、また音がするのだろう。僕はポラロイドを抱え、凪は自分のカメラを肩にかけた。ふたりで同じものを撮る。重ねて、残す。どちらかが消えても、どちらかが残るように。


 帰り道、凪がふいに立ち止まった。歩道の脇に置かれた古いベンチ。その背もたれに、彫刻刀で彫ったような傷が並んでいる。イニシャル、日付、子どもの背の高さの線。凪はそのなかのひとつに触れた。そこには、見慣れない文字列が掘られていた。浅く、けれど確かに。

 〈8〉

 数字、だけ。名前の代わりに残された、番号。凪は指を離し、僕のほうを見た。

 「順番」

 「うん」

 「次も、ある」

 彼女の声は小さかった。でも、はっきりしていた。


 家に帰ると、母はニュースの音量を少し下げていた。テーブルの上には、今日のレシートがいくつか重なり、日付の横に〈(22h)〉が印字されている。印字の黒が薄い。プリンターのインクが切れかけているみたいだ。母はレシートを揃え、クリップで留めながら言った。

 「ねえ、あんた、最近、よく写真撮ってるのね」

 「うん。忘れるから」

 母は手を止める。

 「何を」

 「全部」

 自分でも驚くくらい素直に言葉が出た。母は何も言わず、レシートを引き出しにしまった。引き出しの底は、紙の匂いがした。紙の匂いは、少しだけ安心する。消えるものを、今はまだ抱え込める気がするから。


 部屋に戻り、窓辺にポラロイドを置く。バッテリーの残量の小さなランプが、かすかに光っている。フィルムの枚数は少ない。全部は撮れない。でも、順番を追うことはできる。順番は、正体の輪郭だ。輪郭があれば、名前に近づける。名前に近づけば、たとえ世界が削られても、僕らのなかでは、少なくとも一度は、生きたことになる。


 僕は手帳を開き、最後の行に書き足した。


 ・記録を続ける。ポラロイド、手帳、掲示板の写し、音。二系統以上で保存。

 ・空白の位置に印をつける。今日の空白は「八」。次は「九」かもしれない。

 ・凪は怖いと言いながら、指で空白をなぞった。触れた指は震えていた。彼女の震えも、記録。


 ペン先が止まる。ページの端に、小さく数字を書き足した。〈6/3(22h)〉。指がインクの上を通り、黒がほんの少しだけ指先に移る。その黒を親指でこすり、僕は目を閉じた。夜が来る。音が来る。世界が、もう一枚、薄くなる。


 「ここにいた人、たぶん、背が高かった。笑い方が苦手で、でも――」


 凪の途切れた言葉が、耳の奥で続きの形を探している。笑い方が苦手で、でも、何を。たぶん、だったのか、確かに、だったのか。答えは粉になって、路地の向こうへ流れていった。粉の軌跡を追いかけるように、僕は次のページを開いた。


 六月三日の終わりは、二十二時間目の途中でいきなり切り落とされた。秒針の音は、残り一秒を刻む前に止まり、次の瞬間には六月四日の朝の色が窓辺にやってきた。眠ったのか、眠っていないのか、はっきりしない。世界がページを一枚飛ばしてめくったみたいに、僕らは次の行に押し出される。


 でも僕は、ページの余白に小さな点を残せた。ポラロイドの白い額には、まだ乾かない黒の塊が貼りついている。録音データには、二つの小さな山が並んでいる。手帳には、震える字で書かれた「八」の数字がある。


 順番は、残せる。残せるなら、戦える。負けても、負け方を覚えておける。


 そうやって僕は、世界が削る音に、名前を与え続けることに決めた。これから先、何人、何個、何本の線が消えようと、最初の消滅のかたちは、ここにある。


 それはきっと、僕たちの生きていた証拠になる。たとえ、誰も思い出せなくなっても。凪が指でなぞった空白の温度だけは、僕の手の中に残っている。そこにいた、背の高い誰かの笑いの苦手さも、――のあとに続く言葉の重さも。


 世界は今日も、薄くなる。だけど僕は、厚みのある紙を選んで、インクが滲む余白を広くとって、そこに書き足していく。削られる前に、焼きつけるみたいに。焼き跡は消せない。紙の繊維が覚えている。


 だから、どうか、次の音が鳴るまでに、間に合え。僕のシャッター。凪の指。桐生先生の固い笑い。八番の空白。体育の先生の名字。粉になってしまう前の、ぜんぶ。


 六月三日、二十二時間目。世界が短くなった最初の一日目は、僕に仕事をくれた。名前を探す仕事。空白に線を引く仕事。泣くときのための、ティッシュの場所を決めておく仕事。そんな仕事で、僕は手をふさぐ。手をふさげば、恐怖が指の間から滑り落ちていく。


 窓の外、電柱の根元で、白い粉がまた風に舞った。僕はポラロイドを構え、息を吸った。撮る。残す。今日の終わりが、たとえ昨日より早くても。明日の始まりが、さらに薄くなっていたとしても。僕は、ここに書く。ここに貼る。ここに、残す。


 最初の消滅は、静かだった。でも、確かだった。僕はそれを、忘れない。忘れないために、忘れられる前に、写真を撮る。名前のかわりに番号を打つ。番号のかわりに、指の温度を書く。書かれた温度は、ページのうえで、ゆっくり乾いていく。


 乾いたあとにも、跡は残る。僕の跡。凪の跡。八番の跡。体育教師の跡。音の跡。紙の跡。世界の、薄くなる前の、跡。


 それら全部が、僕らの“最初”だった。ここから先、何度も失う。何度も削られる。そのたびに、同じように構える。息を止める。耳を澄ます。シャッターを押す。書く。残す。


 僕は手帳を閉じ、胸に当てた。薄い紙が心臓の鼓動を受けて、わずかに震える。震えは、まだ生きているという合図だ。合図を、写真にして残す。残った写真が、やがて誰かの手に渡る。その誰かは、名前を思い出せなくても、きっと空白の縁を指でなぞるだろう。凪がそうしたように。僕がそうしたように。


 世界が一日、短くなった。最初の消滅は、その短さにちょうど収まるくらい、静かで、小さくて、冷たかった。けれど、確かに存在した。僕はそれに、今日、名前をつけた。


 ――最初の消滅。


 そして、ここからが、記録のはじまりだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ