第17話 世界の最終日(予告)
六月十七日の午前は、今日も変わらずやって来た。市のスピーカーはやさしい声で同じ挨拶を繰り返す。
おはようございます。本日も世界標準時の再同期は完了しました。
本日は六月十七日、午前です。
屋上でその放送を聞き終える頃には、凪はノートを閉じていた。午後の想像日記は、今日も三行で終わる。
今日の午後は曇り。
海が笑う。
夜は、少し泣く。
ノートの端に小さな爪跡をつけると、凪は風に髪をほどかれながら言った。
「白石のところ、行こ」
僕はうなずいた。胸の奥で、昨夜の微かな紙の音がまだ残響している。止まったはずの世界に、一度だけ走った刃の音。誰にも気づかれないほど小さく、それでも確かにあった音。
研究機構の地下へ降りると、白石は端末の前に立っていた。青白いモニターの光が彼女の頬を削る。白衣の袖口はインクと薬品で少し色を変えている。
「来たね」
白石は振り向かずに言った。声が乾いていた。
「見せたいものがあるの」
モニターに現れたのは、一本の曲線だった。底に張りつくように伸び、かすかに震えている。
「停止の閾値を下回っている。なのに、ゼロには落ちない」
白石は別のウィンドウを開く。街のマップに点滅する小さな白点。呼吸しているみたいに瞬く。
「切断強度。指数の底で微振動を続けてる。見て」
曲線は音もなく震え、ふいに小さな波頭をつくって消える。その波頭の位置にだけ、マップの白点が少し強く光った。
「これが、何を意味するか分かる?」
僕は息を呑む。白石は目を伏せた。
「最悪のパターン。止まったと見せかけて、最後の一日をまとめて刈り取る。最終日の前借り」
言葉が遅れて胸に落ちる。
「前借り?」
「うん。切断は連続じゃなくなる。微振動が底で“溜める”。最後に一度だけ、大きく鳴る。世界が一回ぶん、丸ごと切れる。もしこの波形が正しければ、その一回は、午前も午後も夜も、全部まとめて」
白石は画面の端を指で叩いた。指先の震えが、ガラスの上の光を揺らす。
「日時は出せないの?」
「出せない。止める直前のあなたみたいに、最後の刃は“綴じ側”の深さで決まる。あなたが生きている限り、世界は持つ。でも、持つぶんだけ、最後は大きくなる」
僕は黙った。黙らないと、うまく立っていられなかった。
白石は続ける。
「希望がない話ばかりしたくない。だから、二つだけ言わせて。ひとつ、微振動は弱い。すぐ明日とか、そういう強度じゃない。ふたつ、いざというとき、また止める手はある。代償は前より重いけど、ゼロじゃない」
凪が口を開いた。
「じゃあ、準備をしよう。終わらない準備じゃなくて、終わってしまう日の準備」
白石は目を細めた。
「あなた、強いね」
「弱いから、段取りがいるの。ね、海」
僕はうなずいた。手帳を開き、白石のグラフの形を拙い線で写す。底を這う曲線。やがて一度だけ大きく跳ねる波。
「世界は、一度だけ鳴る」
口に出した瞬間、胸の奥の何かが静かにうなずいた。昨日の夜の音が、その一回の予告みたいに思えた。
研究棟を出ると、午前の空はいつも通りに薄かった。太陽は東の端にひっかかったまま動かない。フェンス越しに見るグラウンドは、白線が少しかすれている。
凪は校舎の廊下で立ち止まり、僕の袖を引いた。
「服を決めよう」
「服?」
「最終日に着るやつ。何を着るか分からないまま切れるのは、嫌だから」
それは、見送りにふさわしいリボンを選ぶみたいな声だった。
「今?」
「今がいい。今が、いちばん朝っぽいから」
凪の部屋に入ると、ハンガーに残った数着の服が、風もないのに微かに揺れた。青いワンピースは糸の端がほつれている。白いブラウスは襟が柔らかく曲がっていた。紺のカーディガンには、小さな毛玉がひとつ。
凪は一枚ずつ、胸に当てて鏡を見る。鏡は光を濁して返し、その背後で僕の姿を薄く映した。
「これかな」
凪が取り出したのは、薄い灰のワンピース。夏の手前に買ったまま、ほとんど着ていない。肩で生地が光を受けて、ささやかに波打つ。
「派手じゃないのがいい。最後の日に目立つのは、空でいいから」
「似合ってる」
「そっちは?」
僕はクローゼットから古いシャツを出した。父のものだった気がする。思い出せない。白に薄い縞。襟に小さなほつれ。ボタンの一つだけ色が違う。
「ね、アイロンの跡、まだ残ってる」
凪が指でなぞる。アイロンの線は、消えない地図みたいに胸元を走っていた。
「他人の時間が入ってる服って、安心するね」
凪は笑って、ワンピースを抱える。
「じゃあ、決まり。最終日の服、今日からクローゼットの手前に」
ハンガーにかけ直し、手前に寄せる。扉を閉める寸前に、彼女は少しだけためらってから、また開けた。
「やっぱり、見えるところにしよ」
扉にマグネットを貼り、そこにハンガーをかけた。布が揺れて、部屋の空気が少し清んだ気がした。
午後がないのに、午後の準備をする。
僕らはベランダでカメラを構えた。白石にもらったアナログと、二眼レフと、古いポラロイド。
「今日はポラで」
凪が箱からフィルムを取り出す。僕はシャッター速度を確かめる。光は薄いが、まだ撮れる。
「どこで撮る?」
「交差点」
胸ポケットから、少年がくれた古いポラロイドを取り出す。白い縁が黄ばんでいる。赤信号。横断歩道。角の八百屋。
「ここに重ねる?」
凪は首を振った。
「今日は新しいの。世界が止まってからの交差点。信号が点かなくなったって、撮らなきゃ分からない」
万年橋を渡り、町の中心の交差点へ。
信号は、当然のように点いていない。風向きでカーテンみたいに揺れている。横断歩道の白線は、ところどころ色を失い、アスファルトの黒に飲み込まれかけていた。
「ここ」
凪は横断歩道の端に立ち、ワンピースの袖を指で押さえた。
「最終日の予告写真。どんなふうに立てばいい?」
「普通に、でいい。普通がいちばん強い」
彼女は頷いて、わずかに顎を上げた。髪が耳にかかる。風が止まる。
僕は息をゆっくり吐き、ポラロイドのシャッターを押した。
白い札のような画面が吐き出され、指先に小さな震えが伝わる。
凪がそれを受け取り、手のひらで温める。
「出てこい、午後」
冗談みたいな祈り。けれど、効く気がする。
写真がゆっくり像を結ぶ。白の中に灰が浮き、輪郭が立ち上がる。横断歩道、ワンピース、風に揺れる髪。光は薄いが、目ははっきりしている。
「写ってる。よかった」
凪はほっとして笑い、ポケットから黒いペンを取り出した。
白い枠に、細い字で書く。
LAST。
指が震えて、最初の一本の線が少しだけ曲がる。凪はペン先を持ち直し、もう一度なぞった。
「書いちゃった」
「うん」
その四文字が、写真の意味を決める。誰が見ても、これは“最後の予告”だ。
「外に貼ろう。風が吹いても見えるところ」
交差点の角の掲示板に画鋲を打つ。カチ、と乾いた音がして、白い枠が板に吸い付いた。
「見た人がびっくりしない?」
「びっくりして覚えてくれたら、最高」
凪は指先についたインクを拭き、少し離れて写真を見た。
「うん。ちゃんと、予告になってる」
帰り道、万年橋の欄干に目をやる。少年の影はなかった。代わりに、風が欄干の向こうから短く吹いた。
「ねえ、最終日って、朝来るのかな」
凪が言う。
「来るよ」
「ほんと?」
「うん。朝は、来る。終わる日だって、始まりは必要だから」
彼女はしばらく黙って歩き、やがて軽く笑った。
「じゃあ、起きなきゃだね」
「起こす」
「起こして」
家に戻ると、市のスピーカーが今日二度目の挨拶を始めた。録音が重なっているみたいに、同じ声が、少し遅れて響く。
おはようございます。本日も世界標準時の再同期は完了しました。
本日は六月十七日、午前です。
白石のグラフが頭の中に重なる。底を這う線、弱い震え、そしていつかの一度だけの跳躍。
「ねえ、海」
凪がキッチンでコップに水を注ぎながら言った。
「最終日に食べたいもの、決めとこ」
「インスタント麺?」
「それ、十五話でやった」
「じゃあ、ラムネ」
「ビー玉は、あけてね」
「うん」
「あとね、髪を結ぶリボン。選びたい。最終日の朝に慌てないように」
凪は机の引き出しから小箱を取り出した。赤、白、薄い水色。どれも少し色が落ちている。
「どれがいい?」
「水色」
「理由は?」
「空の代わり」
凪はうなずき、水色のリボンを指に巻いてみせた。
「じゃ、これ。最終日まで、ここ」
彼女はリボンを部屋のドアノブにかけた。通るたびに、指で触れるように。
僕は手帳を開き、ページの上に細い線を引いた。
〈最終日の予告〉
白石の説明を短くまとめ、交差点の写真の位置を書き、凪のリボンの色を書き、最後に一行足した。
〈世界は一度だけ、大きく鳴る。鳴る前に、撮る。鳴ったあとも、撮る〉
夜。
と言っても、本当の夜ではない。光が薄くなる時間。眠るふりをするために、カーテンを引いて作る夜。
僕はベランダに出て、空を撮った。止まっている太陽は、もはや太陽の顔をしていない。ひっかかっているだけの光。
耳を澄ます。
昨日と同じ音が、どこかでかすかに走るかもしれない。世界の奥の薄い刃が、紙の縁を確かめるように。
待っていると、内側の部屋から布のこすれる気配がした。
凪が、扉の影に立っている。
「眠れない?」
「眠れるよ。でも、起きてる」
彼女はベランダに出てきて、僕の隣に立つ。
「明日も午前?」
「きっとね」
「じゃあ、明日の朝、最終日の服には着替えない」
「どうして?」
「予告は、予告のままがいい。ほんとにその日が来たら、その朝に着る」
「わかった」
しばらく黙る。風がひとつ、柵を撫でる。
凪が小さな声で言った。
「それでも、朝は来るよ」
息のように軽いその言葉は、重さを持って胸に落ちた。
「うん」
「来るから、写真の用意して。起きたらすぐ、窓際の光で一枚。ベランダで一枚。廊下で一枚。交差点で一枚。万年橋で一枚。戻ってから二枚。計六枚」
「段取り、完璧だね」
「弱いから、段取りするの」
彼女は笑って、頬を少しだけ寄せた。肩が触れる。体温が混ざる。
室内に戻ると、テーブルの上にポラロイドが一枚置かれていた。交差点の白枠。黒いペンの四文字。
LAST。
凪はそれを二本指で持ち上げ、光に透かす。
「この四文字、長生きするね」
「うん」
「わたし、書きながら泣きそうだった。泣きそうって、いいね。まだ泣ける」
「泣いていいよ」
「最終日にとっておく」
彼女は写真を胸に当て、目を閉じた。ポラロイドの紙の冷たさが、服の布越しに伝わる。
「ねえ、海」
「うん」
「世界が一度だけ鳴るとき、わたしたち、何をしてるかな」
「きっと、呼吸してる。呼吸して、誰かの名前を呼んでる」
「じゃあ、練習しよ」
凪は笑い、僕の名前を呼んだ。ひとつひとつの音を確かめるみたいに。
「海」
僕も、彼女の名前を呼んだ。
「凪」
それだけで、部屋の空気が少し厚くなる。厚みは、刃の前で役に立つ。切り口を鈍らせる。そう信じたかった。
ベッドの脇に、カメラとフィルムと予備の電池。二眼レフに新しいロールを装填し、アナログの巻き上げレバーを一回だけ引く。机の上には手帳とペン。ドアノブには水色のリボン。クローゼットの手前にワンピース。
段取りは、やっと整った。
僕はベッドの端に腰を下ろし、凪の肩に額を預ける。世界は静かで、薄い。
遠くで、市のスピーカーが今日三度目の挨拶を始めた。
おはようございます。本日も世界標準時の再同期は完了しました。
本日は六月十七日、午前です。
録音のずれた反復が、もう子守歌に近い。
それでも、胸のどこかで、白石のグラフが微かに震えるのを感じる。底で溜める弱い波。いつか、必ず来る一度きりの大きな鳴動。
僕は手帳の最終行に、そっと書く。
〈最終日を怖がるかわりに、その日の朝を練習する〉
〈起きる。名を呼ぶ。撮る。食べる。笑う。泣く。〉
〈すべて、午前のうちに〉
ペン先が紙から離れた瞬間、窓の外で、ごく小さな音がした。
紙をそっと撫でたみたいな、ほんの一筋の音。
“シャリ”
昨日と同じ。誰も気づかないほどの切断の予告。
僕は目を閉じた。
凪の指が僕の手を探し当て、そっと絡まる。
「大丈夫」
彼女の声は、午後の代わりみたいにやさしかった。
「朝は来るよ」
うん、と返して、僕は浅い眠りに身を預ける。
眠りの縁で、四文字の白い枠が、ゆっくりと胸の上に沈んでいく。
LAST。
たぶん、その文字は、世界よりも長生きする。
たとえ刃が一度だけ大きく鳴っても、写真の白枠は、指の温度を覚えている。
その覚え方を信じながら、僕は世界が鳴る日の朝を、何度も予告した。
予告するたび、呼吸は少しだけ深くなり、名前の音は少しだけくっきりした。
それだけで、良かった。
それだけで、今は十分だった。




