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この世界で、君だけが死なない【※頭から書き直します】  作者: しげみち みり


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第16話 午前だけの街

 六月十七日。

 世界が止まった朝。

 白石の指が押し込んだキーの感触が、まだ指先に残っている。

 それから何も起きなかった。何も壊れず、何も崩れず。

 ただ、静かに、時間が止まった。

 切断音は、十五度目の夜を境に消えた。

 世界は安堵の溜息をつき、残った人たちは泣いた。

 九時間しかなかった一日は、十三時間になり、十一時間になり、最後にぴたりと止まった。

 “午前”だけを残して。

 それでも朝は来る。

 市のスピーカーから流れる女性の声が、毎日同じ調子で告げる。

 〈おはようございます。本日も世界標準時の再同期は完了しました〉

 〈本日は六月十七日、午前です〉

 “午後”という言葉は、もう存在しない。

 けれど人々はそのことに慣れた。

 スーパーは開いている。

 学校も、病院も、バスも。

 午後がないから閉まる時間もない。

 だから、終わりもない。

 凪は、そんな世界で日記を書いている。

 午前十一時になると、学校の屋上に上がり、古いノートを広げて、万年筆を走らせる。

 「今日の午後は、たぶん雨が降る」

 そう書いて、ページをめくる。

 「午後の授業で、誰かが居眠りする」

 「帰り道で、海がわたしの手を引く」

 午後を想像して生きることが、彼女の日課になった。

 想像の午後は、現実の午前よりも鮮やかで、少しだけ残酷だ。

 そこには、もう存在しないものが、当たり前のように生きている。

 僕は写真を撮る。

 毎日、同じ時間に、同じ場所を。

 シャッターを切るたびに、光は少しずつ薄くなる。

 太陽は真上まで上がることを忘れ、いつも東の空で止まっている。

 それでも、世界は穏やかだった。

 凪は笑い、白石は再び研究を始め、市役所のスピーカーは決まり文句を繰り返した。

 〈本日も世界標準時の再同期は完了しました〉

 〈本日は六月十七日、午前です〉

 いつ聞いても、少し遅れて響くその声に、僕は安心するようになっていた。

 止まった世界は、まるで古いフィルムのように穏やかで、傷だらけで、それでも動きをやめなかった。

 昼を過ぎるころになると、頭が痛む。

 誰もが同じように額を押さえる。

 白石は、それを「補正の副作用」と呼んだ。

 「午後を持っていた脳が、なくした時間を探してるの。

 記憶の隙間に“痛み”を置くことで、均衡を保ってる」

 凪はその説明を聞いて、微笑んだ。

 「なら、痛いのは悪くないね」

 「どうして」

 「午後を覚えてる証拠だから」

 その日、凪は新しい日記を書いた。

 〈午後の夢〉というタイトルのページ。

 そこには、僕の名前がたくさん書かれていた。

 “海と並んで歩いた”

 “海が笑った”

 “海が少し泣いた”

 日記の文字は小さく、細く、そしてやさしかった。

 世界が終わっても、彼女の筆圧だけは変わらなかった。

 僕はそんな午後のない午後を、フィルムで撮り続けた。

 屋上、堤防、放課後の空き教室。

 午前の光が、すべての場所をゆっくりと撫でていく。

 「ねえ、海」

 凪が屋上のフェンスにもたれて、言った。

 「“午後”って、どんな音だったっけ」

 「音?」

 「そう。昼下がりの音。蝉の声とか、風鈴の音とか。いまは全部、朝の音になっちゃった」

 僕は少し考えてから、答えた。

 「多分、君の声がそれだった」

 凪は小さく笑った。

 「じゃあ、わたしは午後の代わりね」

 その瞬間、風が吹いた。

 白いシャツの裾が揺れ、フェンスの影が揺れる。

 シャッターを切った。

 午前の光が、彼女の横顔に重なった。

 写真の中で、凪は確かに午後を生きていた。

 その夜、白石の研究棟で、軽い打ち上げが開かれた。

 缶詰の果物と、コップ一杯の炭酸水。

 「生き延びた記念日」と、誰かが名付けた。

 白石は笑っていた。

 彼女の白衣の袖には、スープの染みがある。

 世界の終わりを止めた人の服とは思えないくらい、普通の汚れだった。

 「おめでとう」

 僕が言うと、白石は首を横に振った。

 「まだ終わってない。終わらせてない」

 「どういう意味ですか」

 「止めただけ。壊れた時計の針を、手で押さえた状態。力を抜いたら、また進む」

 そのとき、壁の時計が、かすかに動いた。

 針が一度だけ震え、秒針が“かち”と鳴った。

 白石が息を呑んだ。

 「聞こえた?」

 僕は頷いた。

 凪は目を細めた。

 「ねえ、また進むのかな」

 「分からない。でも、もしまた進むなら……そのときは、また止めよう」

 白石の言葉に、誰も反論しなかった。

 夜の終わりが見えないまま、部屋の灯りが少しずつ弱まる。

 世界に“夜”は存在しない。

 だけど、それでも空は暗くなる。

 人間が眠るために作った疑似夜。

 僕は眠れず、ベランダに出た。

 風は穏やかだった。遠くでスピーカーが鳴っている。

 〈おはようございます。本日も世界標準時の再同期は完了しました〉

 〈本日は六月十七日、午前です〉

 まるで夢の中で聞くような声。

 止まった世界に、時間だけがまだ働いている。

 僕はカメラを手に取り、シャッターを押した。

 夜のはずの空が、薄い白に滲んでいた。

 その瞬間、微かな音がした。

 “シャリ”

 あの音だ。

 切断音。

 世界が止まってから、もう二度と聞かれないはずの音。

 それは風のように小さく、紙を裂くように鋭かった。

 “シャリ”

 僕は息を呑んだ。

 外を見渡しても、誰もいない。

 街灯も、店の看板も、朝のままの明るさを保っている。

 なのに、確かに聞こえた。

 “シャリ”

 音は、一度きりだった。

 そのあと、静寂が戻った。

 遠くのスピーカーが、再び穏やかな声で告げる。

 〈おはようございます。本日も世界標準時の再同期は完了しました〉

 〈本日は六月十七日、午前です〉

 まったく同じ文句を、まったく同じ声で。

 でも、僕には分かった。

 それが“昨日と同じ六月十七日”だということに。

 日付は、もう進まない。

 時間は、世界の形を保つための飾りになった。

 僕は空を見上げた。

 太陽は、相変わらず東の空に引っかかっている。

 そこから一歩も動かない。

 胸の奥で、誰かの声が響いた気がした。

 “まだ終わってない”

 白石の声かもしれない。

 あるいは、世界そのものの声。

 僕はそっと、カメラのレンズを覆った。

 光を閉じる。

 次に開くとき、そこに“午後”があるようにと祈りながら。

 凪の日記には、こう書かれていた。

 〈午後を夢見た。

  海と歩いた。

  風が吹いた。

  わたしたちは、まだ生きていた〉

 ページの端には、彼女の小さな指の跡が残っていた。

 午前だけの街で、世界はまだ息をしていた。

 切断音の正体を知る者は、もういない。

 けれど、それでも、朝は何度でもやって来る。

 そして、その度にスピーカーが告げるのだ。

 〈おはようございます。本日も世界標準時の再同期は完了しました〉

 〈本日は六月十七日、午前です〉

 その穏やかな声が響くたび、僕は小さく目を閉じる。

 止まった世界の片隅で、たった一度だけ鳴った切断音を、

 誰も知らないまま、今日も朝が始まる。

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