第13話 白石の提案
六月十四日。十一時間。
世界の朝は、とうに朝らしさを失っていた。太陽は東の空をかすめたあとすぐに傾きはじめる。影は伸びるより先に溶け、昼が始まる前から終わりの匂いを漂わせている。
その朝、白石からメッセージが届いた。
〈中枢の手動停止を検討したい。至急来てほしい〉
凪はまだ眠っていた。短い夜の残り香の中で、彼女の呼吸だけが穏やかに流れている。髪の先が僕の指先にかかって、少しだけくすぐったい。僕はその感触を確かめるようにそっと手を握り、ベッドを抜け出した。
廊下の時計は、もう針がまともに回っていなかった。分針が一回転するたび、秒針が五秒飛ぶ。世界の崩れ方は、もはや目に見えていた。
研究機構へ向かう道の途中、風景がところどころ抜け落ちている。家と家の間に、塗り忘れたキャンバスのような白い空間がある。道路標識は半分しか残っておらず、「止まれ」の文字は「まれ」だけになっていた。
中枢棟の地下に入ると、白石は端末の前に立っていた。目の下には濃い影。徹夜を何度繰り返したか分からない顔。それでも、声にはまだ理性の温度があった。
「来てくれてありがとう。……あなたにしか話せないことがあるの」
「手動停止、ってやつ?」
白石は小さくうなずいた。
「自動補正が始まる前に、“手動で”止める方法がひとつだけあるの。システムの中枢を物理的に遮断する。そうすれば、切断は止まる」
「でも、時間は?」
「固定される。いまの十一時間を、永久に繰り返すことになる」
白石の声が震えた。
「いわば“半日だけの世界”よ。これ以上短くもならない代わりに、誰も夜を越えられない」
僕は黙ってモニターを見た。画面には、都市のシミュレーションが表示されている。切断線が白く走り、街を何層にも削っている。止めるか、このまま続けるか。どちらを選んでも、失うものがある。
「凪には、話したの?」
「……まだ。でも、あなたの返事次第で伝える」
白石の指先が微かに震えていた。モニターの下のスイッチには、黄色いカバーが掛かっている。その下に小さく刻まれた文字。〈MANUAL SHUTDOWN〉。
「決断の期限は、今日の終わり。……つまり、あと十一時間」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
十一時間。たったそれだけ。
帰り道、風が強くなった。街路樹の葉が片側だけ残っていて、影が歪んでいた。空は薄く、夕方みたいな光の色。昼が終わるのを、空が急かしている。
凪はベランダにいた。カメラを持ち、街の空を撮っていた。
「おかえり」
「ただいま」
彼女はファインダーから顔を上げて、僕の表情を見た。
「何かあった?」
僕は言葉を選んだ。
「白石が言ってた。世界を止める方法があるって」
凪は目を細めた。風が彼女の髪を揺らす。
「止めるって、どういう意味?」
「時間を固定するんだ。切断を止められる。でも、もうそれ以上、先には進めなくなる。……半日だけの世界」
凪は少しの間、考えていた。沈黙がやけに長く感じた。
やがて、彼女は微笑んだ。
「それでいいじゃん」
「……いいのか?」
「うん。だって、半日でもあなたがいるなら、十分だよ」
凪の声は静かで、でも確かな重さを持っていた。
「半日でも、十分幸せだよ。毎日、あなたと同じ時間を繰り返せるなら」
胸の奥が痛んだ。
繰り返すたび、世界は少しずつ擦り切れていくのかもしれない。だけど凪は、それでいいと言う。僕がいるなら、それでいいと。
その夜、風は止んだ。世界が息を潜めている。
時計の針が一時間を跨ぐたびに、外で“シャリ”という音が鳴った。
切断音。十三度。六月十四日、十一時間。
窓の外を見た。遠くの街並みの輪郭が、少しずつ滲んでいる。夜景の光が欠け、建物の影が折りたたまれていく。
僕は机の上のアナログカメラを手に取った。シャッターを切る。音は軽いのに、心臓の奥に響く。
レンズ越しの世界は、もうほとんど残っていない。
凪が隣に来て、僕の肩に頭を預けた。
「ねえ」
「なに?」
「もし本当に止まるなら、その瞬間も撮って」
「止まる瞬間?」
「うん。だって、誰も知らないでしょ。世界が止まる顔」
僕は笑ってうなずいた。
「わかった。ちゃんと撮る」
凪は目を閉じた。眠っているのか、祈っているのか分からない。彼女の指先が僕の手の甲を撫でる。そこに浮かぶ数字は、〈−31〉になっていた。
代償は増え続ける。思い出すたびに、何かが削られる。だけど、今はそれでいいと思った。削られた先に、凪の笑顔だけが残れば、それで。
夜が半分終わるころ、僕はペンを取って手帳を開いた。
〈白石の提案:手動停止=時間の固定〉
〈停止すれば切断は止まるが、消えた人は戻らない〉
〈凪は「半日でいい」と言った〉
〈僕はまだ答えを出せていない〉
文字が震える。ページの隅に染みができた。涙だと気づいたのは、書き終えてからだった。
外の風がまた動いた。世界がまだ、終わっていない。
あと十一時間。
止めるか、進むか。
どちらを選んでも、誰かの未来は閉じる。
凪は眠りの中で、小さく呟いた。
「あなたがいるなら、どっちでもいいよ」
僕はその言葉を胸の中で何度も反芻した。
もし白石の言う通りにスイッチを押せば、世界は半日のまま閉じ込められる。
僕と凪は、同じ朝を何度でも迎える。
けれど、消えた人は戻らない。桐生も、母も、父も。
この空の下に、もういない。
外で風が止んだ。
シャリ、と遠くで音がした。
十四度目が来る前に、僕は決めなければならない。
世界を止めるか。
それとも、終わりを受け入れるか。
残された時間は、十一時間。
短すぎる世界の中で、それでも僕は、もう一度カメラを構えた。
レンズの奥に映る凪の寝顔を見て、ゆっくりとシャッターを切る。
光が消える瞬間、フィルムの中にだけ、確かな“今”が焼き付いた。
白石の提案が、心の奥でまだ鳴っていた。
〈止めるか、進むか〉
その選択だけが、明日をつくる唯一の行為。
僕は小さく息を吐いて、手帳に最後の一行を書いた。
〈決断の期限=明日の朝〉
そして、世界の時計はまた一秒分、短くなった。




