第12話 遠足の再演
六月十三日。十二時間。
朝の光は、冷蔵庫の明かりみたいに短くて、扉を閉めたらすぐ暗くなる。起き上がると、机の上に凪の置き手紙があった。方眼紙に、細いシャープペンの字で題名。
遠足の再演 台本
集合場所 七時三十分 校門前
配役 わたし=進行、あなた=記録
小道具 お弁当、レジャーシート、二眼レフ、ポラ
段取り
一、校門前で記念写真
二、商店街の角でアイス(なければラムネ)
三、万年橋を渡って川原へ
四、石を三回投げる(わたし二回、あなた一回。理由は現地で)
五、昼寝(十五分)
六、帰り道、もしくは帰れない場合は、そこでまた考える
台本の最後に、小さな丸が描いてある。中に、ありがとう、とだけある。僕は笑って、少しだけ泣いた。ティッシュで目尻を押さえてから、カメラとレジャーシートと小さな弁当箱を鞄に入れた。白石にもらったアナログの重みは変わらない。ポケットのスマホは、昨夜から電池が減らない。減るほどの夜がないのだ。
校門の前に行くと、凪はもう来ていた。体操着ではなく、普段着。袖口に現像液の白い跡が薄く残っている。門柱の上の校名プレートは半分消えて、残った半分は逆さに読んでも意味が通じるような模様に見えた。
「おはよう」
「おはよう」
「台本、読んだ?」
「うん。暗記した」
凪は胸を小さく張って、進行表を指でとんとんと叩く。
「じゃあ、第一場面。校門前で記念写真」
僕らは三脚の代わりに、門柱の上に二眼レフを載せ、タイマーを回した。カチ、カチ、という音が短い朝に似合っている。凪が僕の隣に来て、腕を組む。僕らの影は門の影に吸い込まれ、形をうまく保てない。シャッターが落ちる。小さな音なのに、遠くまで届くような気がした。台本の余白に、凪が色鉛筆で丸を付ける。
「第一、完了」
通学路の標識は、短縮ルートの透明な板に置き換わっていた。矢印の先は、いつもの道の半分だけを指している。今日は遠回りを覚える日だ。矢印に従わず、わざと遠い角を曲がる。商店街のシャッターは、上がっているのと下りているのの間で、どちらにも属さない高さに止まっていた。ラムネの瓶が一本、取り出し口に引っかかっていたので、百円玉を入れてレバーを引いた。こつん、と落ちる音に、凪が笑う。
「第二、商店街の角でラムネ。アイスは、ない」
「十分、代役だよ」
ビー玉の向こうの炭酸は、ビー玉の気持ちになってしか見えない。冷たさは、裏切らない。朝の舌に、甘さがぶつかって、すぐに薄くなる。
万年橋の手前で、僕らは少しだけ立ち止まった。橋の欄干には、遠足の集合写真の掲示が何年分か分、重なっていたはずなのに、画鋲の穴だけが乾いた星座になって残っている。橋の上の空気は、いつもより軽い。昼が短いせいで、風も急いで通り過ぎる。
「第三、万年橋を渡る」
「はーい」
橋の真ん中に来たとき、凪が手を出した。指先はまだ絆創膏の下に脈を打っている。
「手、つなご」
「うん」
握ると、骨の位置がわかる。遠足では手は繋がなかったかもしれない。でも、今日は再演だ。変更は許される。彼女の手の温度は、撮影に適した光みたいに安定している。
川原は、昨日より少し広かった。水位が下がって、石の肩が多く出ている。レジャーシートを敷く。シートはすぐに風を受け、四隅が浮いた。小石で押さえながら、僕らはそこに座った。
「第四、石を三回投げる。わたし二回、あなた一回」
「なんで僕、一回」
「理由は現地で、って書いた」
凪が笑って、川原の丸い石を選ぶ。平べったい、小さな皿みたいな一枚を手の上で滑らせた。指の腹に、水と砂の粉が残る。凪は腕を引き、肩を回し、投げる。石は一度だけ跳ねて、沈んだ。二投目は、跳ねなかった。
「はい。わたし二回、終わり」
「理由は?」
「あなたが最後だから」
凪は言って、真面目な顔になる。
「最後に投げる人は、見届ける。最初の二回を。それで、三回目の音を覚える。忘れても、数えていたら、思い出せるかもしれない」
僕はしばらく石を選んだ。平たいのはたくさんあるのに、どれでもない。結局、一番手に馴染んだものを取って、凪の目を一度だけ見た。彼女はこくりと頷く。腕を引いて、投げる。石は、一度跳ねて、それからもう一度、浅く跳ねて、沈んだ。三回目は、波紋の音だけだった。
「うん」
凪は台本に丸を付けた。
「第四、完了。三回目は、沈んだ音もカウント」
「沈んだ音」
「そう。沈んだって、音は鳴るでしょ」
お弁当は、簡単なものにした。白いご飯に、小さな鮭のほぐし身と、卵焼き。凪の箱には、赤い梅干しがひとつ。僕のには、黒いふりかけ。箸を持つと、手の甲の数字が目に入る。昨日までの負数は二十五。今朝、起きたときは二十六になっていた。何を落としたのか、まだ確かめていない。
「いただきます」
「どうぞ」
卵焼きは少し甘い。甘いのに、塩を欲しがる舌。凪が箸で梅干しを半分に割り、僕の白いご飯に乗せた。
「半分こ」
「ありがとう」
「第、何だっけ」
「台本には、昼寝」
凪はレジャーシートに横になり、片腕をまくらにした。僕も真似する。雲が低い。落ちてこない雨のかわりに、雲の腹の影が川原をゆっくり撫でていく。眠れるほど静かではないのに、眠くなるには十分だった。目を閉じる。十五分の昼寝。十五分は贅沢だ、と白石は言った。贅沢を一度だけ許す。目蓋の裏に、シャッターの黒が溜まって、薄く明るくなる。
そのときだった。
川の向こうの欄干に、影が立った。目を閉じたままでも、わかる。目を開ける。橋の真ん中、欄干に寄りかかる細い背中。制服の裾。乾いているのに、濡れた色。顔は半分だけこちらに向いている。写真の端に写っていた、あの見知らぬ少年。初めて、肉眼で見た。ピントのことなんて考えなくても、焦点が勝手に合う距離だった。
僕は身体を起こした。凪も気づいたのか、肩を上げる。目を細める。
「見える?」
「見える」
少年は笑わない。笑わない顔は、泣く顔よりもずっと静かだ。静かすぎて、こちらのほうが勝手に音を足したくなる。僕は立ち上がって、欄干のほうへ一歩踏み出す。川の音が、短い律動で流れている。橋の鉄の匂いが、風に混じる。少年は動かない。動かないまま、僕にだけ、ほんの少しだけ頭を下げた。会釈、と呼ぶには短すぎる。だけど、確かにそれは、挨拶だった。
「……ありがとう」
思わず口から出た言葉は、僕のためのものか、彼のためのものか、自分でもわからなかった。少年は、やっぱり笑わず、欄干から身体を離した。欄干に残った背中の形は、風ですぐに消える。彼は橋の反対側に歩いて行き、昼の端に溶けた。短い昼は、輪郭を持ちきれない。溶けた影は、光に紛れて見えなくなる。
凪が隣に来て、腕を組んだ。
「見えて、しまったね」
「うん」
「夢じゃないよね」
「夢のほうが、長い」
彼女はうん、と頷いて、台本の余白にまた丸を付けた。
「臨時の場面。欄干の人に、会釈をもらう。これ、重要」
「重要、だね」
「あなたにだけ、だと思う。綴じ側だから」
川の流れは変わらないようでいて、時々、目に見えない手が撫でたみたいに一斉に逆巻いた。風が強くなる。レジャーシートの角が浮き、押さえていた小石が滑る。凪の髪が頬にかかる。僕は指でそれを払った。指先の温度が、彼女の皮膚に残る。
「昼寝、十五分は無理かも」
「五分でいいよ」
凪は再び横になる。目を閉じながら、彼女は小さく言った。
「ありがとう」
「うん」
「ありがとう」
もう一度。意味は同じなのに、重さは違う。同じ言葉でも、置く場所で違ったものになる。川の音が、その違いを運んで、少し遠くの石の間に置く。僕は座ったまま、彼女の横顔を見た。睫毛の影が頬に落ちる。昼寝は五分どころか、三分しか保たない。太陽が一段移動するのと同時に、影が形を替える。短い昼の、短い寝息。
やがて凪が起き上がり、空を見た。
「第五、昼寝。まあ、完了ってことで」
「了解」
片付ける。お弁当箱を重ね、レジャーシートをたたむ。シートの裏に、小さな砂がたくさん貼りついて、指で払っても、すぐには落ちない。砂はどこにでも残る。残るものは、ありがたい。
帰り道。短縮ルートの矢印は、川原から上がる階段を指していない。まるでこの道は初めから存在しなかったみたいに、地図の白地に戻っている。僕らは遠回りを選ぶ。橋のたもとをぐるっと回って、商店街に入る。シャッターは、やっぱり半分の高さだ。ラムネの瓶は空で、ビー玉は小さく息をしている。
「第六、帰り道」
凪が読み上げた。僕は手帳を取り出し、今日の欄に書き足す。
〈六月十三日 十二時間 遠足の再演〉
〈一〉校門前で記念写真。影、不安定。
〈二〉ラムネ。冷たい。ビー玉は生きている。
〈三〉万年橋。欄干の画鋲穴。
〈四〉石投げ。三回目は沈んだ音。
〈五〉昼寝。五分。
〈臨〉欄干の少年。僕にだけ会釈。
〈六〉帰路。短縮ルートは使わない。
筆圧が強くなって、紙の裏に文字が透ける。凪が横から覗き込んで、ふふ、と声を漏らした。
「ちゃんと記録してる。えらい」
「進行がいいから」
「進行の仕事は、ありがとうを言うこと」
凪は歩調を合わせて、三歩に一度、ありがとう、と言った。冗談みたいに。でも、そのたび胸がきゅっとした。ありがとうは軽い音なのに、刃の前で重くなる。家に近づくにつれて、人影が少なくなる。午後の記憶を話す声は、今日は聞こえなかった。午後は、もうほとんど誰にも残っていないのかもしれない。
家に着く手前で、切断音が一度鳴った。遠くで白い紙を切る、あの音。足が止まる。続けざまに、また一度。二度目は、近い。三度、四度。等間隔。川の律動より、少しだけ早い。
“シャリ”
五度目。路地の角。影が少し縮む。
“シャリ”
六度目。電柱の根元。粉が立って、すぐに沈む。
“シャリ”
七度目。窓の外。ガラスが震える。
“シャリ”
八度目。机の上。ペン先が一度跳ねる。
“シャリ”
九度目。胸の前。心臓がひとつ抜かす。
“シャリ”
十度目。喉の奥。飲み込んだラムネの炭酸が逆さに弾ける。
“シャリ”
十一度目。耳の内側。鼓膜の裏に薄い傷。
“シャリ”
十二度目。骨の中。世界の端が、身体の真ん中を通っていく。
僕は数え終えてから、手の甲を見た。負の数字が、じわりと浮かぶ。〈−27〉。朝から一つ増えて、今、また増えた。何が落ちたのか、すぐにはわからない。目を閉じる。棚を確認する。
小学校のときの、班長の旗の持ち方。夏に見た花火の三番目の色。父が朝に焼いたトーストの焦げ目の模様。母の「いってらっしゃい」の二音目。どれも、触ろうとした指から体温だけ奪って、逃げていく。
「大丈夫?」
凪が心配そうに覗き込む。僕は笑った。笑うと、数字が少しだけ薄くなる。薄くなるだけで、消えないけれど。
「大丈夫。ありがとう」
「うん」
凪は、また言った。「ありがとう」。
階段を上がる。二階の手すりは冷たく、鉄の匂いがする。ベランダの前で、僕らは立ち止まった。今日は空に星が少しだけ多い。白石にメッセージを送る。〈遠足の再演、成功。欄干の少年、肉眼で確認。会釈あり〉。既読はつかない。機構の夜は、きっと僕らより先に終わる。
部屋の天井から吊るしている糸に、昨日の写真を数枚追加した。校門前の記念写真。ラムネのビー玉を覗き込む凪。橋の上の影。川原のレジャーシート。石が沈む前の、水のふくらみ。写真同士が触れ合って、小さな雨音を立てる。雨のない日の、写真の雨。
「今日は、ここまで」
凪が台本の端を折って、ポケットにしまう。僕は机の上の二眼レフのフィルムを巻き戻す。カリ、カリ、と小さな音が続く。小さな神さまに届くように、均一に。凪は僕の横で、両手を合わせた。
「ねえ」
「うん」
「わたし、遠足の本番のこと、ほとんど覚えてない。でも、再演のほうは覚える。今日のを、明日も、たぶんあさっても。短くなっても、覚えたい」
「覚えよう」
「ありがとう」
また、ありがとう。何度も。ありがとうは、繰り返すほど同じ音に聞こえるのに、少しずつ違う。その違いが、紙の繊維に引っかかって、残る。僕はうなずいて、手帳の今日の欄の最後に一行、足した。
〈遠足の再演=記憶の代用品ではなく、記憶の作り直し。失ったものを数えながら、新しい順番で、もう一度〉
窓の外は、すぐに夜をやめた。短い夜は、いつも突然終わる。終わる直前に、一瞬だけ風が止まる。その止み方が合図で、僕は録音の停止ボタンを押す。波形は十二の山を残したまま、画面の端に並ぶ。保存ボタンを押す。六月十三日。十二時間。切断音、十二回。保存して、閉じる。
眠りに落ちる前、僕は自分の手の甲に指先で小さく印をつけた。痛くない印。写真の端にいつも付ける、小さな爪の跡。それは、世界の端の温度と同じだ。冷たいけれど、確かだ。
「ありがとう」
最後にもう一度だけ言った。相手は決めない。凪に、欄干の少年に、白石に、桐生に、母に、父に、今日の太陽に、川に、ラムネに、ビー玉に。ありがとうは、刃の前で重くなる。それでいい。重い言葉は、落ちにくい。落ちにくいあいだに、僕らはもう一度、遠回りを覚える。短縮ルートに従わない歩き方を、明日のために、今、身体に刻む。
目を閉じる。短い眠りの底で、今日の三回目の音が、もう一度だけ響いた。跳ねない、小さな沈む音。沈む音にも、ちゃんと名はある。名を、いつか呼ぶ。その日の直前まで、呼ばずに取っておく。僕はそう決めて、息をそっと吐いた。胸の痛みは小さく、でも、確かにそこにいた。痛いは、安心だ。安心は、明日を一本分、太くする。太い一本に、僕は今日の再演をくくりつけて、眠った。




