第1話 世界が一日短くなる朝
六月一日。
目覚ましのベルが鳴るより早く、カーテンの隙間から白い光が差し込んでいた。いつもより明るい気がした。けれど時計を見ると、まだ六時になっていない。寝ぼけた頭で、スマホの画面を確認する。そこには見慣れない通知が表示されていた。
〈お知らせ:本日より学校の始業時間が三十分繰り上がります〉
寝ぼけ眼のままもう一度読む。意味が、すぐに頭に入ってこなかった。
リビングからは、母のフライパンの音とテレビのニュースの声が聞こえてくる。何気なく耳を傾けていたら、アナウンサーの口から流れた言葉に、背筋が少しだけ冷たくなった。
「エネルギー研究機構での事故に伴い、世界標準時が調整されます。市民の皆さまは——」
さらりと、まるで天気予報みたいな調子だった。
僕は顔を洗いながら、そのニュースを反芻した。
“世界標準時が調整される”って、どういう意味だろう。時間って、そんなふうに動かせるものなのか。
母は普通に朝ごはんを並べていた。焼き魚と味噌汁と炊き込みご飯。
テレビのリモコンを手に取ると、彼女は笑って言った。
「今日から少し早く行かないとね。なんか、時間が短くなるんだって」
「短くなるって……一日が?」
「そうそう。よくわかんないけど、世界がそう決めたらしいわよ」
僕は、茶碗を持つ手を止めた。
“世界が決めた”——それで終わりなのか。
通学路の空はやけに青く、風が乾いていた。学校の前では生徒指導の先生が立っていて、「早めの登校ありがとう」と言っていた。誰も混乱していない。世界が一日短くなっても、遅刻さえしなければいいという顔だった。
その日の授業は、どこかぎこちなかった。黒板に描かれた時間割が、昨日より一コマ少ない。チャイムが鳴るたび、時計の針が一瞬飛ぶような錯覚に襲われた。
昼休み、友人たちは「世界の終わり?」だとか「もう夏休み短縮確定だな」なんて笑っていた。僕もつられて笑ったけど、笑い声の底に、妙な空洞を感じていた。
ホームルームのとき、担任が日直に出席簿を渡しながら言った。
「昨日……じゃなくて、先週の、ほら、連絡事項覚えてる?」
教室の空気が止まった。
「先週? 昨日ですよ」
「え、そうだっけ?」と先生は笑って誤魔化した。けれど笑い方がぎこちなくて、チョークを持つ手が震えていた。
放課後、堤防沿いの道を歩いた。
海の向こうで、陽が傾くのが早い。
僕の隣を歩く凪は、長い髪を風に揺らしながら、空を見上げて言った。
「ねえ、日が短いって、こういう意味?」
「さあ……。でも、明るい時間が減るってのは、ちょっとさみしいな」
「ううん、さみしいっていうより、なんか、切られてるみたい」
凪が袖を引いた。その指先が冷たかった。
「切られてる?」
「だって、ほら。時間が削られてるって言うでしょ。“SCISSOR余波”ってトレンドになってるよ」
彼女のスマホ画面には、ニュースサイトの見出しが映っていた。
〈SCISSOR余波:暦の不整合〉
“はさみの余波”。妙な言葉だと思った。
帰り道、空の色がやけに赤かった。まるで、誰かが空そのものを薄い紙みたいに切り取って、そこに別の夕焼けを貼り付けたような、そんな不自然さだった。
夜。
炊き込みご飯の匂いが、部屋の奥まで染みていた。
母と二人で食卓を囲むのは久しぶりだ。父はここしばらく出張だと思っていた。
「父さん、今週出張だっけ?」
「何言ってるの。先月から単身赴任よ」
箸の動きが止まる。
「……先月?」
「そう。あなたも駅で見送ったでしょ」
僕は口を開きかけて、閉じた。そんな記憶は、ない。
テレビでは、明るい声で“新しい時間のスタンダード”が紹介されていた。二十三時間の一日。時計が一周するまで、今より一時間短い。それだけのこと——のはずだった。
でも僕の胸の奥では、何かがちがう音を立てていた。
夜更け。
宿題をして、歯を磨いて、布団に潜る。
スマホのアラームをセットしようとしたとき、画面に違和感を覚えた。
“明日”のアラーム時刻の横に、小さく表示された文字。
〈23時間後〉
思わずまばたきした。
再起動しても、同じ。日付が、微妙に詰まっている。
胸の奥がざわついた。
もしかして、本当に——時間が削られてる?
窓の外で、風が鳴った。
その風の中に、何かが紛れていた。
最初は気のせいだと思った。でも耳をすますと、それは確かに、あった。
“シャリ、シャリ”
紙を切るような音。
空気そのものが、目に見えない刃で裂かれているような音。
心臓が跳ねた。
僕はカーテンを少しだけ開けた。外には、誰もいない。街灯が淡く光を投げているだけ。
でも、その光の下で——
歩道の影が、一瞬だけ、ズレた。
六月二日。
スマホの時計は二十三時間を刻み、テレビは「通常運転」と言っていた。街は落ち着いていた。誰も昨日の“音”を話題にしない。
学校では、授業がさらに短縮され、放課後の部活も中止になった。
みんな、少し不満を漏らしながらも順応していった。
だけど僕だけは、怖かった。
夜のあの音。
何かが、確かに“切っていた”。
時間を、あるいは世界そのものを。
堤防の上で、凪がつぶやいた。
「ねえ、もしさ——このまま時間がなくなったら、どうなるんだろう」
「さあ……世界が止まる?」
「止まる前に、切れちゃうのかもね」
彼女は笑ったけれど、その笑みはどこか泣きそうだった。
帰り道、僕は空を見上げた。
夕焼けが昨日より、ほんの少し早く沈んでいく。
そのたびに、世界が一枚ずつ削がれていくように思えた。
“時間が短くなる”——それは、何かが死んでいく音だったのかもしれない。




