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休止符

島村との話のあと、俺は図書館に戻った。

カウンターに座ると、三門が少し硬い表情で本を開いていた。


俺が座ったことには気づいたらしいが、顔を上げずに一言だけ投げてきた。

「……どうだった」


言えないことは、ある。

だから、島村が進路のことで悩んでいたってことにした。


「医学部を目指すらしくてさ、なんかその……茉奈姉に相談できたらって言ってて」


咄嗟に出まかせを並べた割には、それっぽく言えた気がした。

三門は黙って聞いていたが、ふっと笑った。


「へえ。あの島村が悩むんだ」


それだけ言って、また本に視線を戻した。


(……信じた?)


正直、今日だけで秘密の共有ラインが2本になるのは、胃に悪すぎる。

後で島村にも話合わせとかなきゃ。


図書館を出た後、空はすっかり夕方の色になっていた。


校門を抜け、坂道を下りながら、ふと靴の音がやけに大きく聞こえる気がした。

頭の中では、さっきの島村の顔や言葉がぐるぐる回っていた。


(……立たない、なんて、よく言えたな俺……)


あの時の島村の反応を思い出して、顔が一気に熱くなる。

マジで死ぬかと思った。今こうして歩いてるのが不思議なぐらいだ。


息を吐いて、最後の角を曲がる。

その瞬間、家の方角からピアノの音が聞こえてきた。


鈴子の練習だった。


玄関を開けてドアをくぐると、二階から音が鮮明に降りてくる。

不器用で、でもどこか真っ直ぐなその音に、俺はちょっとだけ肩の力が抜ける気がした。


俺には、ぎこちなさなんてわからない。

ただ、まっすぐで、優しい音だと思った。


そのまま、旋律が少しだけ速くなる。


ーーそして。


ドンッ!


「……んあぁ、もう!なんで途中から急にめんどくさいのぉ!作った人頭おかしいだろう!」


枕でも叩いた音か、怒りの余波が階下まで響いた。

あの曲、前にも何度か聞いた。よっぽど難しいところなんだろう。


「俺はよかったと思うけど?」


少しだけ声を張って、二階に届くように言った。


一瞬、物音が止まる。


靴を脱いで、家に上がろうと鈴子の声が返ってきた。


「……素人が口を挟むと痛い目に合うよー」


「お兄ちゃんが正直に言ってるだけなのに…」


思わず鼻で笑ってしまった。


カバンを部屋に放り込み、Tシャツに着替えてから台所へ。

炊飯器の湯気と、ほんのり漂うごはんの匂い。

母さんが出勤前にセットしてくれたんだろう。


袖をまくろうとしたところで、背中に軽いタッチ。


「ハンバーグあるらしいから、それ作ってぇー」


「オッケー」


二人でキッチンに立つ。俺がハンバーグを焼いて、鈴子はサラダを盛る。


「トマト残すなよ?」


「……言われなくても当然だよ、バカ兄貴」


時には俺から茶化してーー


「焦げてない?」


「いやいや、今フライパンに置いたばっかりだよ!」


ーー時には鈴から茶化してきた。


そんな他愛のない会話をしながらおかずの用意を完了した。


ごはんをよそって食卓に並べると、二人で「いただきます」と声を合わせた。

湯気の立つハンバーグ、軽くきらめくサラダ、少し冷めた味噌汁。

それだけなのに、不思議と心が和んだ。


「そういえば、さっきの曲って?」


ハンバーグを頬張りながら尋ねたら、鈴子が眉をひそめた。


「ごはんを飲み込んでから喋って。汚い。」


おっしゃる通り…ごまかすように頬を掻いてしまうこんな兄ですまないな…


鈴子が冷ややかしな目を送った後、すぐに続けた。


「”歓喜の歌”だって。先生からの課題曲。あれ、学校で演奏するんだ。」


「へぇ。お兄ちゃん、見に行ってもいいかな?」


「学校さぼったらいけるかもね…」


平日で演奏するのかぁ…


「で、何の演奏?」


「卒業とかなんとか。よくわかんないけど」


卒業式な全然聞きに行けるかもしれない。


ふと思ったとき、鈴子はごはんを飲み込んでぼつりと漏らした。


「歓喜の歌っていうけど、なんもうれしくないんよ。途中からめっちゃ速くなるから気持ち悪い。」


鍵盤をたたいて、枕に暴力を振るったところだっただろ。何度か聞いたけど、やはりあそこは難しかったんだ。

俺はふっと笑った。何でもできそうなこの子にもたまに弱みを見せてくれる。

そんな妹に、少しだけ胸がくすぐったく感じた。


「よくわかってないけど、ちょっと遅くしちゃダメか?」


「全部遅くしたらいいけど、それはそれで気持ち悪い」


俺には難しい話だった。いいアドバイスとは思ったけどなぁ。


そんな話をしていると、いつの間にかごはんを食べ終えた。

俺が食器を洗っている間、鈴子は自分に部屋に戻ってピアノの練習に戻った。


出だしがゆっくりと流れて、耳を癒してくれているように思えた。


……いろんなことがあった日だ。茂がクラスメイトに芝目との話をばらしそうになったこと、三門に言いくるめられたこと、そして島村の件。


「……島村さん…まさかあんなことをするなんてな…」


脳裏にシャツから覗き出るピンクが浮かんだ。その記憶に鼓動が一瞬だけドキッとした。

それでも下半身は静かだった。

思わずため息をついて、食器洗いを終わらせた。


流れる鈴子の旋律に揺られながら俺はソファーに体を沈めた。つけたテレビは映像だけで、鈴子のピアノの音色だけが部屋に充満していた。


居心地よかった。


明日から芝目へのアプローチを考えたいところだが、今は疲れていた。


静かになっていく旋律に耳を澄ませる。

少しずつ、音が薄れていき、静寂の余白が部屋に満たす。

…まるで一日の終わりを告げる”休止符”みたいに。


ドンッ!


「んがああぁあ!!むかすつくぅ!!」


…どうやらその余白は、永遠ではなかったらしい。


……芝目さん…今は家で何をしているんだろう。


ふとそんなことを、考えてしまった。

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