第9話:黒い騎士の影、旅立ちの予感
夜の帳が街を包み始める頃、アリシアはギルドの仕事を終え、書類をまとめて帰路についた。
この街は治安が悪い。なので、ギルドで働く者たちは、普段は同僚と共に、あるいは信頼できる冒険者の護衛をつけて寮へ戻ることが常だった。
だが、この日はたまたま、残務処理が長引いてしまった。アリシアは、一人で遅くまで残っていた。そして、仕事が終わったころ、同僚たちはすでに寮に帰っていた。
アリシアはやむを得ず、一人きりで寮へ向かう道を選ぶしかなかった。
灯りの少ない裏通り。労働者や冒険者たちが酔いどれて騒ぐ酒場の裏口を過ぎ、小さな屋根付き通路に差し掛かったときだった。
「おい、そこの嬢ちゃん。こんなとこ、一人で歩くのは危ねえぞ?」
酒臭い声が背後からかけられる。
アリシアが振り返る間もなく、影がひとつ、ふたつと路地に現れる。
目つきの鋭い男たちが、にやにやと笑いながら道を塞いだ。
逃げ場は、なかった。
「やめて・・・」
か細い声が、夜の空気にかき消される。手にしたカバンをしっかりと抱えながら、アリシアは後ずさった。
その瞬間だった。
「やめなさい」
冷たい声が、空気を裂いた。
男たちが振り向くと、そこにいたのはリリアだった。討伐クエストからの帰り道、偶然この場に差しかかったのだ。
「こいつの知り合いか?だったらまとめて──」
リリアは一歩踏み出した。だが、珍しく、その手は震えていた。
この場でアンデッドを召喚すれば、確実に男たちを止めることはできる。だが、それだけでは済まない。術は広がり、通りにいる無関係な人々をも巻き込むかもしれない。
死者の気配が街にあふれれば、街を追放される程度では済まない。王国全土で指名手配され、討伐の対象となってしまう。当然ながら、そうなれば、リリアは、生活の糧を得る術を、失う。
リリアの心が、揺れた。
「・・・くっ」
男たちがにじり寄る。その時──風が鳴った。
まるで影が割れたように、黒いコートの男が闇の中から現れた。無言のまま歩み寄るその姿に、男たちの顔色が変わる。
「な、なんだお前・・・!」
次の瞬間、ひと振り。音もなく、黒い剣が走った。
風を切るような動き。暴漢たちは、悲鳴を上げる間もなく地に伏した。
「・・・あなたは・・・誰?」
震えるアリシアの声に、黒い騎士は一瞥をくれただけで、名を告げることはなかった。
ただ、リリアとすれ違いざま、ほんの少しだけ目を向けた。その紅い瞳。かつて、別の街で一度だけ交わした視線と──同じだった。
「あなた、どうして・・・ここに・・・?」
問いは、夜の静寂に吸い込まれた。
「君に、関心があると・・・言っただろう?」
そのまま闇の奥へと消えていった。
街の灯りが、何事もなかったかのように、また瞬いていた。
リリアは、震えるアリシアの肩にそっと手を置いた。
「アリシア・・・とりあえず、寮まで送るよ。ひと晩くらい、誰かにそばにいてもらうんだよ?」
アリシアは、強く首を横に振った。
「いや・・・いやよ、今日だけでも、寮には戻りたくない・・・」
その目には、怯えと、どこか諦めにも似た陰があった。リリアが眉をひそめて問いかけると、アリシアはぽつりと打ち明けた。
「私・・・あの寮で、あまりよく思われてなくて。今日も、こうして一人で帰ることになったのは、きっと、わざとなの。いつも嫌味を言われたり、持ち物を隠されたり・・・」
リリアはそれ以上聞かず、静かに頷いた。
そしてアリシアを、自身が定宿としている古びた宿屋へと連れて行った。街外れの小さな宿。無口だが無愛想ではない老夫婦が営むその場所は、奇異な噂にも、口を出さない貴重なリリアの隠れ家だった。
部屋の片隅で湯を沸かし、ほっと息をつくアリシアが、しばらくしてぽつりとつぶやいた。
「ねえ、リリア・・・お願い、私をこの街から連れて行ってくれない?」
その言葉には、小さく怯え震える"希望"が滲んでいた。
リリアは静かにアリシアを見つめ返す。
夜の影は、まだ深かったが──二人の間にだけ、微かな灯りがともっていた。