第5話:死を持って、罪を問う
夜の街道を、リリアは一人歩いていた。
月も雲に隠れ、森の輪郭さえ霞んでいる。だが、彼女の歩みに迷いはなかった。
数日前、彼女はかつての戦場を訪れていた。そこには草一本生えず、風も止まり、ただ沈黙だけが積もっていた。その地に残された無数の名もなき死者たちが、彼女に一つの名を囁いたのだ。
「ヴァルド・エグレイン」。
かつて、リリアの故郷エリュセナを焼いた部隊の副官である。情報によれば、ヴァルドは戦死とされていたが、戦場に残されていた死者の記憶は、それと違っていた。
ヴァルドは今、王国騎士団の英雄として称えられ、城塞都市の貴族街で暮らしているという。彼の手には剣ではなく、勲章と賛辞が与えられ、罪はすべて歴史の闇に葬られていた。
リリアの中に、不思議と、怒りはなかった。
ただ一つ──沈黙のように冷たく、絶対に揺るがない意志だけがあった。
公の場を避け、リリアは夜陰のもと、ヴァルドの屋敷を訪れる。石造りの門前で、彼女が名を告げると、衛兵たちの表情が一変した。
「その名を・・・もう一度・・・」
「リリア・エル=ヴァレン。死者たちが、ヴァルドの名を呼んでいる」
空気が凍り、衛兵は動かなくなった。しばらくして門が開く。広い中庭の奥、松明に照らされた回廊から、一人の男が現れる。
ヴァルド・エグレイン。
壮年の男。顔に刻まれた傷跡。鍛えられた体躯。彼の眼差しには、確かな誇りが宿っていた。この時までは。
「私に会いに来たというなら、答えよう。だが戦うつもりなら・・・」
「・・・あなたに、戦う資格はない。私は、あなたを赦しに来たのではない」
リリアは一歩、前に進む。そして名を、呼んでいく。
「エルミル・リュエル」「シアナ・フェロゥ」「バレント・ルヴェン」──
それは、エリュセナで死んだ者たちの名だった。
その名を呼ぶたびに、地の底から黒い霧が立ち上がり、死者の影が姿を成す。朽ちた衣、焼け焦げた肌、剣を構えたままの影。十名、二十名、三十名・・・
彼らは皆、静かにヴァルドの前に立ち塞がる。
「これは・・・幻か」
「違います。これは“正確な記憶”です」
リリアは、静かに語った。ヴァルドが殺めた者たちの“生きていた日々”──森の朝露を踏みしめ、仲間と薬草を摘みに出かけた少年。月明かりの下、婚約者に刺繍を贈ろうとしていた若き娘。ランタンの灯りに照らされながら、家族で食卓を囲んでいた老夫婦。
焼かれた家は、母が子の髪を結い、父が笑って物語を語った場所だった。奪われた時間には、無邪気な悪戯や、密やかな初恋の約束、夢を綴った日記があった。断ち切られた希望は、子を産み、育て、見送るという、当たり前に紡がれるはずだった未来だった。
ヴァルドは、それを奪ったのだ。ただ命を奪ったのではない。名も顔も知らぬ人々が、必死に育てていた、大切な世界を踏みにじったのだった。
それは責めではなかった。告発でもなかった。ただ、正確な記憶だった。
記録されなかった命の、最後の証明。
そして、誰にも裁かれなかった罪の、終わりなき問いかけだった。
ヴァルドは、膝をついた。剣を抜くこともなく、盾を構えることもなく。
ただ、深く頭を垂れ、両の拳を石畳に押し当て、震える息を吐いた。目から溢れ出す涙は、静かに落ちて石を濡らした。
リリアは、続けてこう語った。
「ヴァルド・・・貴様には、これだけ多数のアンデッドから、祝福が集まっている。死後はもちろん、残りの人生もまた、安らかなる瞬間は訪れないだろう。残念だが、もう私には、それを止めることができない。貴様が赦されるかどうかは、私には決められないから」