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運動会 下

登場人物

 高薙 敦 : 180cmを超える恵まれた体格を持つバレー部のエース

 新月 虚 : 高薙 敦の幼馴染

      才色兼備の優等生

 寺崎 糸 : いつも新月 虚と一緒にいる気弱な少女

      自己肯定感が低いが、諦めの悪い努力家で割とハイスペック

 黒白 麗音 : 新月 虚の腐れ縁

       音楽家の家庭に生まれた天才

 満月 雅 : 才色兼備の優等生

     全校生徒の憧れの的

     感情をあまり外には出さない

 陽光 欠 : 不思議な雰囲気のある少女

     かわいい


注意

- この物語はフィクションです。

 実在の人物、団体、建物とは一切関係ありません。

- この物語には百合的要素があります。苦手な方はご遠慮ください。

 また、ユリ小説ではありません。そのため、親友より上の関係に発展することはありません。ご了承ください。

- この作品を生成AIの学習等に使用するのはご遠慮ください。

「来週だね」

2人きりの電車の中で欠が雅の顔を覗き込むようにしてそう言った。

雅は前を向いたまま「ええ」と返す。

今日が終わり、続く土曜日、日曜日が終わると遂に中間テストが始まる。

「調子はどう?」

欠がそう問いかける。欠の声は安心しきっていた。

この問いに意味なんてない。なぜなら、欠の信じる雅には『順調』以外の返事が用意されていないから。

雅はそんな欠の問いに視線を下げて、「分からないわ」と答えた。

雅の声は微かに震えていた。

それに、震えているのは声だけではない。欠の右手の下にある雅の手が、僅かな震えと共に不安を訴えかけてきた。

欠は予想外の返事に驚いて眉を上げた。

欠は雅に体を寄せながら「勉強していないの?」と聞いた。雅に限ってそんなことはないはずだと思いながら……。

雅は後ろめたそうに視線を逸らしながら「いつも通りよ」と答えた。

欠は安心した。肺の空気がふぅと漏れる。いつも通り勉強していてくれた。

「それなら大zy」

欠が雅を落ち着かせようと言った言葉に雅が割り込んで謝った。

「ごめんなさい。本当はもっと勉強しないといけないと分かっていたの」

欠は雅の成績の事をずっと心配してくれていた。雅と新月 虚との差が縮まっていることを……。

課題テストで新月 虚との差はまた縮まってしまった。

今のままではすぐに負けてしまう。それは中間かもしれないし、期末かもしれない……。

そんな状況を何とかして、新月 虚との差を広げて、欠を安心させたい。

そのためには、今まで以上に勉強するしかなかった。

勉強をしないといけないと分かっていた。

変えなければいけない。

わかっている。

それなのに、できなかった。

欠はそんな雅に寄り添うように雅の左手を撫で回した。

「体育祭の練習もあるから大変だよね。

 疲れた日でも、家に帰ってから頑張って来たんでしょ。

 いつも通りでも、体育祭の練習と並行して勉強するのは大変なんだから、雅は頑張っているよ」

欠の優しい言葉と共に、少しづつ、満遍なく、なだらかに欠の体温が雅の中へと伝わってくる。

欠の撫でまわす手は心地が良くて、落ち着く。

「そうよね」

雅はそんな欠に作り笑いを浮かべた。

それを見て、欠は雅を撫でまわす手を止めた。

「私の信じる雅は絶対に負けない。

 だから、自分を信じて戦えばいいよ。

 そのために、週末は頑張りすぎず、ほどほどにして英気を養おう」

欠はそう言って満面の笑みを浴びせかけた。

「そうね」

雅はさらに張り付けた笑みを返した。



例年2学期中間テストの難易度は低い。

体育祭の準備期間と重なっているため、いつも通りの難易度にすると赤点が量産されてしまう。

その赤点に対して、補習や追加課題を行うと、体育祭、文化祭と重なり、生徒の負担が大きくなってしまう。

それに、大半の教師は学校行事も大事にして欲しいと思っている。「学生は勉強だけしていればいい」なんてことを言う間違った過激派はほとんどいない。

そう言った諸々の理由から、以下のような内訳でテストが作られていた。

先ず50点分を、各々の教師が思う最低限解けないといけない問題で埋める。いくらなんでもこれが解けないなら赤点でも仕方ない。

次の30点分を、平均点以上の生徒をふるいにかけるための問題に割く。

残りの内の15点分で、雅や新月 虚、闇空と言った最上位層のための問題を出す。

最後の5点分は、各教師のお気に入りの超難問を遊び心程度に入れておく。常に学年1位の雅でさえ半分解ければ上出来と言った難易度である。

毎日普通に授業を受けていれば50点は切らない。予習復習をしていればそれだけで65点は取れそうな内容であった。

テスト期間における雅の悩みの種である星空でさえも、今回の中間テストでは終始涼しい顔をしていた。

雅、闇空も何時もの様に解き、ライバルの新月 虚もそんな感じだった。

こうして一般生徒からすると拍子抜けするような中間テストが終わった。



「うっ、うっ、あー。あー」

新月 虚は手を当てながら喉の調子を確かめた。

「虚ちゃん。大丈夫ですか?」

寺崎がガラガラの声でそう聞いた。

新月 虚はウーロン茶を飲むと「貴方よりかはましよ」と言った。

寺崎は「そんなに私の声ひどいですか?」と聞いて、リンゴジュースに口を付ける。喉の奥に染み渡る。

新月 虚は「ひどいわよ」と返した。

2人はテスト終わりに打ち上げと称して遊びに行った。

どこに行くかは決めていなかったが、偶々寺崎が期限の近い割引券を持っていたのでカラオケボックスになった。

何時もの4人で来るときの様に学割平日割の4時間パックを選んだ。それが失敗だった。

2人で歌うと倍の速度で自分の番が回ってくる。喉を休ませる時間がない。

開始1時間で2人は『まずい』と思った。思いはしたものの相手に気を遣って声には出さなかった。

開始2時間で喉が大分怪しくなってきた。それでも、新月 虚は寺崎に、寺崎は新月 虚に、気を遣わせないように涼しい顔を作って歌っていた。

そして、今、開始3時間でお互いの喉が大分枯れてしまい、マイクを置いて雑談をする流れになった。

「2時間で十分だったわね」

新月 虚は、喉に負担を掛けないように、声を抑えてそう言った。

「そうですね」

寺崎はそれに同意した。無意識のうちに喉に手を当ててしまっていた。

「今度から、2人で遊びに行く時は、カラオケは2時間までにしましょう」

「はい」

寺崎はまたリンゴジュースに口を付けた。風邪の引き始めの様に、飲んでも飲んでも喉が渇いているような気がする。

「でも、2人だと歌に集中できていいわね」

新月 虚はそう言ってソファーに深くもたれかかった。

「はい。初めて虚ちゃんの歌を聞いたような気がします」

寺崎はリンゴジュースを机にそっと返した。

「まぁ、そうよね」

新月 虚は口元に苦笑いを浮かべた。

何時ものメンバーでカラオケに行くと、新月 虚はまともに歌わせてもらえない。

新月 虚の番が回ってくると取り巻きの2人が過剰なほどに愛の手を入れて来る。その過剰さは、善意でやっているはずなのに、1種の嫌がらせではないかと思える程だ。

そんな過剰な愛のおかげで、新月 虚の歌はよくわからなかった。そもそも、新月 虚自身が歌に集中できず、メロディーではなく愛の手に引っ張られていた。

だから、新月 虚は今日初めてまともに歌わせてもらえた。

新月 虚本来の歌は音程、リズム等は基本に忠実で教科書通りであり、その中に新月 虚特有の執着心からくる力強さが宿っていた。

「虚ちゃんは歌もすごく上手ですね」

寺崎は初めてちゃんと聞いた新月 虚の歌を褒めた。

「当然よ。昔練習したんだから」

新月 虚は胸を張って自信ありげに返す。

子供会のカラオケ大会で下手と言われて笑われてから、かなり練習をした。何気に歌の上手い高薙に隠れてこっそり練習した。だから、上手くないはずなんてない。

「でも、練習して上手くはなったのに、まともには歌わせてもらえないけど……何故かしら?」

新月 虚はそう付け足して訳の分からないと言った顔をした。

「そうですね。何故なんでしょう。

 高薙さん、普段はあんな感じではなのに……」

寺崎はそう返した。

「何故か私が歌う時だけ、敦は別人みたいになるのよね。

 よくわからないわ」

新月 虚は首を傾げる。本当に疑問である。思い当たる節すらない。

2人はこの共通の疑問をしばらく考えた。

そして、寺崎がそれっぽい答えを出した。

「高薙さんの事ですから、虚ちゃんへの善意であることは確かです。

 そう考えると、無理してでも盛り上げようとしているのではないでしょうか?」

「まぁ、そんなものでしょうね」

新月 虚はそう言いながらウーロン茶のストローに口を付けた。

そして、口を離すと軽く口角を上げて「少し鬱陶しいわ」と言った。

「でも、みんなでカラオケに来ると、それはそれで賑やかで楽しいです」

寺崎は高薙をフォローするようにそう言った。

「まぁ、それもそうね。

 言われてみると、高薙の熱唱がないとほんのちょっとだけ物足りない気もするわね」

新月 虚は同意する。

「今度は高薙の新人戦が終わったらみんなで来ましょう。

 きっと全国に行くはずだから、そのお祝いもかねて……」

新月 虚はそう言って顔に笑みを浮かべた。

「いいですね。

 その時は、麗音ちゃんも誘って5人でお祝いしましょう」

寺崎は無邪気にそう提案した。

新月 虚は「黒白は厳しいと思うわよ」と返した。

寺崎は視線を下げた。

「そうですよね。

 麗音ちゃんはピアノの練習で忙しいですからね」

新月 虚は残念そうに「そうね」と相槌を打った。


2人はその後しばらく雑談をしながら喉を休めていた。

2人の話題は自然と終わったばかりの中間テストへと流れて行った。

「糸。今回のテスト、出来はどうだったかしら?」

新月 虚が寺崎を見ながらそう切り出した。

寺崎は「自信はありませんが、多分まあまあできたと思います」と返した。

『自信はありませんが』とか、『多分』とか、『まあまあ』とか、『思います』とか保険をかけすぎた言い方である。

しかし、そんな表現とは対照的に寺崎の表情は『絶対大丈夫』と言い切っていた。

新月 虚は、そんな寺崎の表情を読んで、「良かったわ。上手くいったのね」と返した。

寺崎は謙遜気味に「まだ分かりません。上手くいってくれていると嬉しいです」と返す。

寺崎の顔は浮かれ気味である。解いた実感は相当よかったのだろう。

新月 虚は「鏡見てきなさい。『簡単でした』って顔に書いているわよ」と返す。

寺崎は「えっ。そうなんですか?」と聞き返した。

「ええ。浮かれ気味の顔がすべてを語っているわ。その表情からして……過去最高の出来なんでしょ?」

新月 虚は少し冷やかす様にそう言った。

寺崎は自分の顔を手で触って浮かれ顔を戻そうとした。もちろん人間(てらさき)はそうやって表情を変えられる生物ではない。

寺崎は仕方なく浮かれ顔のまま「今のところは過去最高の出来だと思います」と返した。

「今のところは?」

新月 虚は含みのありそうな言い方に疑問符を浮かべた。

「はい。今のところはです。

 今回難しい問題も結構解けたんです。でも、それが逆に怖くて……。

 解けたと思い込んでいるだけで、問題の読み間違いをしたり、重要な仮定を飛ばしたり、勘違いしたりしているんじゃないかって思うんです」

寺崎は中間テストに対する不安を口に出した。口に出すことで実感が湧いて来たのか、表情はどんどんと不安を表していった。

新月 虚は寺崎の頭に手を置いて「ちゃんと解けたのよ」とフォローを入れた。

「虚ちゃん。

 でも、今までなら解けなかったであろう問題が解けたんです。

 おかしいです」

寺崎はそう反論した。

新月 虚はその発言が可笑しかったのか笑いだした。新月 虚にしては珍しく声を出して笑った。

笑いが落ち着くと、笑い泣きで出た涙を指で拭いながら口を開いた。

「糸。何を言っているの。

 解けない問題が解ける様になるために勉強をしているのでしょ。

 なら、今まで解けなかった問題が解けるようになったのは、あなたの努力の成果なのよ。

 胸を張りなさい」

新月 虚は寺崎に優しく笑いかけた。

寺崎はどこか不安と言った感じの声で「そうですね」と肯定した。

寺崎の中では今回の中間テストに向けてしっかりと準備はしたつもりであった。新月 虚の言葉にも納得できた。

しかし、頭で理解できていても、感情では怖い。

上手くいっていない可能性なんて1%位だと思っている。

でも、そのたった1%が20%ぐらいに膨れて見えてしまう。

新月 虚は寺崎の頭をゆっくりと撫でた。ゆっくりと撫でながら寺崎の耳元に口を近づける。

そして、新月 虚が何かを言おうとしたときに、

寺崎が話を逸らす様に「虚ちゃんはどうでしたか?」と聞いた。

新月 虚は顔を寺崎の耳元から離し、黙って考え始めた。

寺崎は何かを察してしまった。

「すみません。今回は風邪をひいてs」

そう謝る寺崎に新月 虚は「ばっちりよ」と割り込んで、笑顔を見せた。

寺崎には、新月 虚の声が少し揺れて聞こえた。でも、その声には自信があった。

新月 虚には寺崎の謙遜する気持ちがよく分かった。

声に出した以上は悪くても言い訳できない。

はなからする気もないが、負ければ完全な実力不足になる。『ばっちり』なのだから、風邪のせいにはできない。

それに、今嬉しそうに見ている寺崎の期待を裏切ることにもなる。

正直雅に勝っているかは微妙でもある。

でも、新月 虚は勝つ気で中間テストを戦った。そして、雅に勝っていると信じている。

寺崎はそんな新月 虚の気持ちを知ったうえで、希望を込めて「風邪をひいたときはどうなるかと思いましたが、上手くいって良かったです」と返した。



「テストどうだった?

 新月さんに勝ってそう」

K山駅で雅の隣に座るとすぐに、欠がそう切り出した。

「分からないわ」

赤く染まり始めた電車の中で、雅は自信なさげにそう返す。

テストは午前中に終わって、それから雅達は解放された。

その後星空と闇空の3人で遊びに行っていたため、辺りはほんのり赤く染まり始めていた。

「分からない?

 何時もより難しい問題が多かったの?」

欠は不安そうに雅の顔を覗き込んだ。

「いつも通りだと思う。

 解けない問題も何問かはあったわ。

 でも、各教科1問以下だから、大丈夫なはずよ」

雅はそう返す。雅の言葉には自信がない。声の質感で気持ちが伝わる。

「それなら、何かミスでもしたの?」

欠はそう言いながら雅の左手を優しく包み込む。

「大丈夫よ。

 ミスもほとんどしていないはず……」

雅はそう返す。ミスもしていないはずなのに、声には自信がない。

「それなら、大丈夫。

 雅は今回も学年1位だよ」

欠は安心したように笑った。

雅を不安にさせないようにと、無理に張り付けた笑顔ではない。安心から出る自然な笑顔だった。

欠は雅以上に雅の実力を知っていた。

だから、このやり取りだけで、雅の勝利を確信できた。

でも、雅には欠の言葉を真に受けることはできなかった。

雅は申し訳なさそうに言葉を出した。

「それなら、いいけど……。

 新月さんが相手だから油断できないわよ」

そう。雅の相手は新月 虚なのだ。

雅は新月 虚が怖かった。

新月 虚は確実に自分との点差を詰めて来る。

1年の頃は少しずつ点差が縮まっているとしか思っていなかった。

そのころはまだまだ2人の間には大きな差があった。それにいずれどこかで頭打ちになると思っていた。

しかし、2年生になっても点差は縮まり続け、2人の差は僅かなものとなった。

大きく点差が縮まることはなく、少しづつしか縮まらない。

でも、その少しが無視できなくなってきた。

とうとう雅はその少しに恐怖を抱くようになった。

新月 虚は逃れられない運命の様に、カチッカチッと音を立てて進むテスト中の秒針の様に、雅を追い詰めて来る。

そうやって追い詰めて、追い詰めて、最後には雅の大切なものを奪おうとしているのだ。

だから、新月 虚が怖い。

そんな雅の左手を欠がギュッと握った。雅の手の震えは物理的に抑えられた。

欠の右手の(やさしさ)が伝わってくる。

「大丈夫。

 こんなことを言うのは不謹慎だけど、新月さんは今回のテスト期間風邪をひいて満足に勉強できなかった。

 だから、何時もよりも勉強できていないはずだよ。

 今回は確実に勝てるよ。

 次は……ううん……これからはもっと頑張ろう」

欠はそう言ってくれた。

そして、欠は自身の右手から雅の左手を解放した。

代わりに欠の左手が雅の左手を掴み、欠の右太ももの上に固定した。

自由になった欠の右手は、蛇の様に、雅の背筋を通って右肩に絡まる。

そして、欠は、木の上の真っ赤な果実を取るように、背筋を伸ばす様にして、雅の左耳に自分の顔を近づけた。

唇と耳たぶが当たりそうなほどの位置まで近づくと「大丈夫」という言葉を繰り返してくれた。

欠の言葉と共に、吐息が耳の中に入ってくる。欠の吐息はこしょばゆい。でも、欠の手の様に温かい。そして、優しい。

雅は頭の中で「大丈夫」という言葉を欠の声で繰り返した。少しずつ、少しずつ、それが本当の様に思えてくる。

……そう思う。

でも、そう信じれない。

欠は雅の事を嫌と言うほど知っている。でも、欠は新月 虚の事をほとんど知らない。

だから、欠の「大丈夫」には説得力が欠けている。雅は欠の「大丈夫」を信じ切ることができない。

その雅の不信感は筋肉の緊張と言う形で、欠に伝わった。

「雅。

 全身に力が入っている。

 落ち着いて……」

耳元で欠の不安そうな声が聞こえる。反対側の車窓に写る欠の横顔が見える。薄っすらとしているが雅を心配しているのがわかる。そして、病人を前にした看護師の様に優しい口元をしている。

雅は小声で「ごめんなさい」と返した。

欠は「謝らなくていいよ」と言ってくれた。

そして、雅を洗脳するように「大丈夫」という言葉を繰り返してくれた。

雅は(どく)の周りを早める様に、頭の中で欠の声に合わせて「大丈夫」と繰り返した。



テストが終わり、土日があけた。

教科毎にテストが返ってき始めた。

授業のあった順番に、始めは数学、次は英語、古典、化学、現代文……。

新月 虚はテストの結果が返るたびに、安心し、そして少しづつ期待に胸を膨らませていった。

テストの結果が良かったのは新月 虚だけではなかった。

寺崎も良かった。

寺崎はテストが返ってくるたびに、「過去最高点を更新しました」と笑顔で報告に来た。

新月 虚はそんな寺崎の頭をまっすぐな髪の流れに沿って何度も撫でてあげた。

寺崎はさらに嬉しそうな笑顔を浮かべた。かわいい。

高薙と黒白はいつも通りだった。いつも通りに出来た。

そして……。

ある筋から入手した情報によると、新月 虚のライバル満月 雅も調子が良かった。

そのため、テストが返って来た段階では、雅に勝っているのか負けているのかわからなかった。

全ての教科の結果が返って来た日の次の日。

その日はついに成績上位者の順位が張り出される日だった。

その日、新月 虚は順位が気になってしまいいつもよりも早く起きた。

当り前だが早く起きたからと言って早く順位が張り出されるわけではない。それでも目が覚めてしまった。恐らく今までの中で一番雅の背中に近づいているのだ。仕方ない。

新月 虚は二度寝はしない主義だ。だから、起き上がり勉強机へと張り付いた。

高薙と走りに行くまで数学の問題に向き合う。

順位のことが気になって集中できない。集中できないながらも、仕方なく机に張り付いていた。

気が付くと昨日の夢の事を考えていた。

昨日は球技大会の夢を見た。今年の春の球技大会。

それも、記憶通りの夢ではなかった。

最後の最後。新月 虚が外したあのシュート、あのシュートを決めて、雅に勝った夢を見たのだ。

夢でいいことがあると悪いことが起きるという都市伝説がある。だから、いいのか悪いのか分からない。

でも、新月 虚はそれを勝つ前兆だと思い込むようにした。

高薙が呼びに来ると、急いで2階から降りた。今日も高薙とランニングをする。

『もう終わったテストよりも、次に来るリレーの方が大事だ』と言い聞かせて走る。

走り終わると、心なしかいつもより速く朝食を食べた。朝食を食べても学校に早くいくわけではないので、仕方なく机について全然進まない問題に向かい合った。

その間は時計を一切見ないようにした。時計を見ると時間が戻されるような感じがした。某何とか力学ではないが観測すると結果が変わる気がした。そんなことありえないのだが……。

遂に高薙ぎが呼びに来るといつも以上に急ぎ気味に家を飛び出した。

そして、高薙と一緒に路面電車の駅へと向かう。

路面電車の駅までの間、新月 虚は自分から話題を降らなかった。高薙はドラマや小説の話を新月 虚に振った。テストのテの字も話題には出さなかった。

自然と歩みが速かったのか一本早い電車に乗った。

路面電車のロングシートに横並びで座る。

まだ朝早いためか反対側の窓が見えた。

新月 虚は気を紛らわせるように外の景色へと眼を向ける。

高薙はそんな新月 虚を見て、カバンから本を取り出した。

今日の電車はやけにゆっくりと進んだ。窓の外の景色は歩くような速度で流れていく。

でも、確実に進んでいた。

新月 虚は1駅1駅と学校に近づくたびに期待からくる緊張から胃が痛くなってきた。

今までで一番勝ちに近づいている。その事実が今回のテストの順位発表の価値を爆増させる。そして、新月 虚へのプレッシャーを増大させる。

勝てる可能性があるからこそ、胃が痛くなってくる。

それを少しでも紛らわせるために外の景色にさらに集中する。

体感でいつもの2倍ほどの時間がかかってG城前駅へと着いた。そこから歩いて学校へと向かう。

学校までの狭い歩道を、新月 虚の後ろに高薙が着いて歩く。

重い足取りで教室へと入り、クラスメイトに挨拶をして、自分の席へと着く。

席に着くと、数学の問題集を開けて向かい合った。しかし、テストの結果が気になって全然集中できない。

そんな新月 虚の前の席では、寺崎と黒白が楽しそうに話していた。

気を紛らわせようと、新月 虚は2人の会話に耳を傾けた。

「麗音ちゃん。そんなことないですよ」

「いえいえ、油断できませんわ。

 今回は何とか寺崎さんに勝てましたが、期末テストでは抜かれてしまうかもしれませんわ」

2人は中間テストの話をしていた。

これでは気を紛らわせることはできない。

新月 虚は立ち上がって、そのまま廊下へと出た。廊下へ出ると窓を開けた。

窓を開けると心地いい秋の空気が入ってくる。新月 虚は窓枠に身を乗り出して、空気を吸いながら外を眺めていた。

外は登校する生徒達で騒がしかった。そんな風景を眺めていた。

「あっ」

新月 虚の背後で聞きなれた声が聞こえた。新月 虚は後ろを振り返った。

やはり鳶葦だった。

新月 虚はまた窓の外へと視線を戻した。鳶葦はテストの話を必ずする。そんな鳶葦と今話すのは少ししんどかった。

「新月さん。どうしたんですか?」

鳶葦は新月 虚の意図を組むことなく、新月 虚の横に、窓にもたれかかるようにして立った。

「外の空気を吸っているのよ」

新月 虚は鳶葦の方には視線を移さず外を眺めたままそう返した。

鳶葦は新聞部員として?新月 虚の動きを把握していた。今日の新月 虚の動きはいつもと違った。それに、今日の新月 虚は冷たい。そこに鳶葦の新聞部員としての感が反応してしまった。煩わしい。

「この時間帯はいつも教室で勉強しているはずですよね。

 そんな物思いにふけるようなことをしてどうしたんですか?」

鳶葦は乱れのない口調でそう言いながら、(むな)ポケットから手帳をだした。風にめくらせるようにパラパラと手帳を開く。

「そう言う気分なのよ」

新月 虚は素っ気なくそう返した。

「秋と言えば恋の季節ですね」

鳶葦は新月 虚の気を引くためかそう言った。

新月 虚は「そうね」と適当に返事した。

「物思いにふけって好きな人でもできたんですか?

 どんな人です?」

鳶葦は乱れのない口調でそう言いながら、ペンを構えた。

新月 虚は「できてないわよ」と返す。

「嘘つかなくても大丈夫です。

 私たち華の高校2年生ですから、

 恋をしないはずなんてないでしょう?」

鳶葦はそう言った。

「そう言うあなたはどうなのよ」

新月 虚は鳶葦を見てそう返した。

鳶葦は「秘密です。私は新聞部員ですから、インタビューはする側であって、される側ではありません」と答えた。新月 虚は自分と同じで好きな人すらいないのだろうと解釈した。少しからかいたくなった。

新月 虚は窓の外を見ながら「恋の1つもできないなんて……」と呟いた。

鳶葦は作ったような「はっはっ」という乾いた笑みを浮かべた。

そして、何の脈絡もなく「大分舌が回ってきましたね。ところで中間テストはどうでしたか?できましたか?」と聞いた。

新月 虚は何も言わずに外を見た。恋の話を始めたので油断しきっていたが、鳶葦の狙いは最初からこれだった。

「すみません。

 悪かったのですね」

鳶葦はそんな新月 虚の様子に結果を勝手に察し、気まずそうに謝った。鳶葦の貴重な感情のこもった声だ。

新月 虚は「違うわよ」と否定した。

「恥ずかしがらなくても大丈夫ですよ。

 新月さんはテスト期間中に風邪をひいてしまったのですから……。

 それに、新月さんのできないは私たちよりも幾分か上等ですから……」

鳶葦は少ししどろもどろに新月 虚を励まそうとした。聞いてはいけないことを聞いた(と思っている)ため、罪悪感を抱いているのだろう。

新月 虚はそれをきっぱりと否定した。

鳶葦はその様子をみて安心したように息を吐いた。いつの間にか下げていた両手を胸の前で構え、取材の体勢を取った。

そして、鳶葦は「それならよかったんですね」と確信をついた。

新月 虚は何も言わずに窓の外に目線を返した。校内の楓の木がいい具合に色づき始めていた。

「それは良かったです。

 そろそろ、新月さんに勝ってもらわないと、私の記事もマンネリになってしまうので……」

鳶葦は満足そうにそう言った。

新月 虚ははぁとため息をついた。

「満月さんもよく出来ていたのでしょ。なら、勝っているとは限らないわ」

「そうですね。勝っていればいいですね」

鳶葦はメモ帳を胸ポケットにしまい窓から背中を外した。

「新月さん。

 もし負けていたら、リレーで挽回してください。

 新聞部の方で盛り上げておきますので……」

鳶葦はそう言い残して去っていった。

新月 虚は後3分程秋の風を浴びて、教室へと帰った。

教室では、寺崎と黒白が流行りのドラマの話をしていた。

黒白は普段ドラマを見ない(そもそも娯楽と言うものにまったく時間を割かない)のだが、そのドラマは黒白が尊敬するピアニストの半生を描いたものらしく、珍しく熱中していた。

そんな黒白の熱弁に寺崎は楽しそうに相槌を打っていた。

新月 虚はそんな2人の会話に耳を傾けた。


2人の会話を聞いていると時間は案外すぐに過ぎた。

テストの結果が張り出される時刻が近づくと、新月 虚は後ろにいる高薙の方を見た。高薙は本から目を離して、新月 虚と眼を合わせる。

そして、2人は立ち上がった。

それを見て寺崎と黒白も立ち上がる。

4人でテスト結果の張り出しを見に行く。

何時もの廊下を通って掲示板の前まで行く。

掲示板の前にはいつも通りの人だかりが出来ていた。

ほとんどが野次馬である。実際に名前がのる可能性があるのはこの中の4分の1もなかった。

そんな野次馬たちの中に雅の姿もあった。雅は星空と闇空と一緒にいた。

雅と闇空が今回のテストについて各教科の感想のようなものを話していた。星空がそれを何故か誇らしそうに聞いていた。

新月 虚はそんな3人を一瞥すると、テスト結果が張り出される掲示板の方へと眼を向けた。

手をギュッと握る。

直前になってさっきまでの緊張感はなくなっていた。

現実感がマヒして、緊張がなくなったのだ。

少し浮いた感触がする。そこまで現実感がマヒしてしまっていた。

「楽しみですね」

そんな新月 虚に寺崎が声をかけた。

「そうね」

新月 虚は優しい声でそう返した。何故か寺崎の声を聴くと落ち着いた。

「皆さん。来ましたわ」

黒白がそう声を上げた。

テスト結果の張り出し担当の教員が掲示板へとやって来た。辺りからざわめき声が聞こえる。

テスト結果の張り出しが行われる。

先ずは各教科ごとの順位が張り出される。

新月 虚は化学、物理、現代文、数学Ⅱ,英語で1位を取った。そして、他の教科は雅に1位を譲った。

各教科の戦績だけを見るとほぼ互角の戦いが出来ているように見えた。

学年1位がどんどんと現実味を帯びていった。

各教科の順位を張り出し終えると、ついに総合順位の張り出しになる。

教員が丸められた紙の上端を画鋲で止める。そして、紙を下へと下していく。

その中で最初に名前が見えたのは新月 虚だった。

めくられる紙の一番上には「1位 新月 虚」としっかりと書いてあった。

新月 虚は努力の末に、ライバルである満月 雅に勝ったのだ。

努力がやっと報われた気がした……。

嬉しくって思わず声が出そうになった……。

寺崎も,高薙も,黒白も嬉しそうな顔をしてくれているだろう。

でも、そうではなかった。

次の行にはこう書いてあった。「同率 満月 雅」と……。

新月 虚が満月 雅に勝ったわけではない。

2人が同率1位だった。

新月 虚は8組で、満月 雅は9組。ただクラスの番号が若いという理由で新月 虚の名前が雅の上に書いてあったのだ。

新月 虚は歯をぐっと食いしばった。いつも以上に『あの1点があれば、あの問題が解けていれば』と言った結果論のどうしようもない後悔が溢れて来る。

「虚様。おめでとうございます。同率でも1位は1位です」「新月さん。ついに満月さんに並びましたわ」

高薙と黒白がねぎらいと祝福の言葉をかける。2人にとっては新月 虚の努力は報われたのだろう。

「ありがとう」

新月 虚は心にもないお礼を返す。

「虚ちゃん。リレーでリベンジしよ」

そんな新月 虚に寺崎がそう言った。新月 虚は寺崎の頭に手を置いた。

そして、新月 虚は鋭い目で野次馬の中にまぎれる満月 雅を見た。

「糸。ありがとう」

新月 虚は寺崎にそうお礼を言うと雅の方へと歩き出した。

野次馬たちが新月 虚に道を開ける。

そんな野次馬の動きと、新月 虚の目線に満月 雅が気づいた。雅は新月 虚の方へと歩み寄って来た。

2人はちょうど掲示板の前で向かい合う形となった。

「学年1位おめでとう」

雅は新月 虚にそう言った。常勝の学年1位からの祝福はやや上から目線に聞こえる。でも、その言葉に悪意はなかった。

雅にしか分からないことであるが、これは精一杯の強がりだった。動揺している自分の気持ちを周りの人間に、自分に、悟らせないようにした結果だった。

でも、新月 虚には馬鹿にされた気がした。

「ありがとう。満月さんもおめでとう」

新月 虚は下から目線で煽るようにそう言った。

「ありがとう」

雅は素っ気なくそう答えた。

新月 虚は雅を睨みつけた。

雅も新月 虚を見返す。この時の雅の目は僅かにだが、欠にしかわからないほど微細にだが、揺れていた。

新月 虚は「同率1位なんて面白くないわね」と返した。

雅は「ええ。そうね」と余裕を装って返した。

新月 虚は、野次馬の中で2人の様子を見ていた鳶葦に、視線を送った。鳶葦は嬉しそうな顔をしてペンを構えた。

新月 虚は目線を戻し、雅の目を見て、息を吸った。

「満月 雅。

 この決着は体育祭で決めましょう。

 あなたも私も偶然アンカーなんだし、リレーで勝負よ」

新月 虚はそう言って距離を詰めた。雅は引くことなく一歩前へと出る。

「いいわ。受けて立つわ」

雅はそう返した。

新月 虚は振り返って野次馬の中へと消えていった。

満月 雅も星空達の元へと向かった。

鳶葦は嬉しそうにボールペンを走らせた。



はぁ。

雅は帰りの電車の中で1人ため息をついた。

ロングシートの座席に沈み込みそうな気分だ。

新月 虚に負けなかった。同率1位だった。

だから、何とか体面だけは保てた……はずだ。

でも、ただ負けなかっただけなんだ。気が重たい。

車内は不自然なほどに赤黒く染まりそれだけで憂鬱になれそうだ。

それだけではない。今日の電車は、継ぎ目を超えるたびに歪な音を立てながら、K山駅へと向かっている。

1つ、1つと駅を超えてあのK山駅へと近づいていく。

雅は残されたわずかな時間で必死に言い訳を考えようとした。でも、やめた。

そんなものはなににもならない。

何を言われようと黙って受け入れよう。そう決心した。

そんな雅の元へとその時が来た。

K山駅で人を降ろした電車が発車する。

それと同時に一切乱れのない不気味なローファーの音が近づいてくる。

夕日に照らされた赤黒い車内を、逆光で黒く染まった人影が近づいてくる。

そう陽光 欠だ。

雅は欠から目を逸らそうかと考えた。でも、考え直して欠の顔を見た。

見えないはずの欠の顔は何故か鮮明に感じれた。欠は何時もと同じ顔をしていた。

欠は何時もの様に雅の横に座った。

何時もの様に雅の左手に自身の右手を重ねた。

何時もの様に欠の手は温かい

そして、今日の欠は雅に気を遣ってか、言葉に迷ってか何も言わなかった。

雅は恐る恐る「ごめんなさい」と謝った。

欠は「謝らなくていいよ」と優しく笑ってくれた。

雅の胸の縄がギュッと締まる。「うっ」という声が口から漏れ出そうになる。

雅はそれを我慢した。そして、欠に聞いた。

「欠は大丈夫なの?

 欠の理想の満月 雅は誰よりも賢くて、誰よりも美しくて、何でもできる。

 私はもうあなたの理想の私じゃないのよ。

 完全な1位じゃない。私は新月さんと同率になってしまったのよ」

雅の左手に力が入る。それが包み込む右手を通して欠に伝わる。

「私は別に……。

 雅が理想の雅じゃなくても大丈夫。

 理想の雅は特別だけど、普通の雅も特別だから……」

欠は雅との間隔を詰めながらそう答えた。

雅は欠が近くなって温かく感じた。

雅は「良かった」と息を吐いた。胸の縄が緩む気がした。

欠はそんな雅の手を逃がさないようにしっかりと押さえつけた。

「良くないよ」

欠はしっかりとした口調でそう言った。雅は左手を引こうとしたが欠の右手に拘束されていて動かせない。

逃げることのできない雅に欠は語りかけた。

「私は理想の雅じゃなくても大丈夫。

 たとえ雅が最下位でも気にならない。雅は雅だから……。

 でも、私の知っている満月 雅は理想の自分じゃなきゃ許せないはずだから……」

欠は雅の事を覗き込んだ。欠の右目と雅の左目が向かい合う。

欠の瞳に写った理想の満月 雅が雅の事を鋭く睨みつける。

雅は胃液がこみ上げてきそうになる。それを、唾液で流し込む。

「大丈夫よ」

雅は震える声でそう言った。

欠は汗で滑りそうになる雅の手をさらにしっかりと押さえた。そして、体を傾けて、雅の胸元に頭を当てた。

雅は抵抗しない。

雅の硬い胸から鼓動が聞こえる。

ドクッ ドクッ

と言う雅の音が聞こえる。赤黒い()(ぜんしん)をめぐる音が聞こえる。

心拍数は何時もより早く。心音は何時もよりも大きい。

雅は自分に嘘をついていた。

欠は頭を上げると雅の方を見た。雅も欠を見る。2人の顔は向かい合うような形になった。

「雅は負けるのが大嫌いだよね。

 私には隠さなくても大丈夫。

 私に負けた時もすっごく嫌だったんでしょ」

欠は優しい声でそう言った。

逆光で染まった欠の顔の中で白い眼帯だけが目立って写った。

「ごめんなさい」

雅は息苦しい中でそう謝った。

欠はそんな雅に優しい笑顔を見せてくれた。

欠の白い歯が雅の瞳に写る。なんだか安心する。

それと同時に自分が嫌になる。

雅は知らず知らずのうちに大粒の涙を数滴こぼしてしまった。

欠は雅の目からこぼれる涙を、左手の薬指で雅の顔の輪郭に沿って拭った。そして、軽く舐めた。あぁ、雅の苦悩の味がする。

欠は、その後で、雅の右肩に自分の左手を置いた。そして、左手に力を入れて、雅の頭をそのまま自分の胸元へと引きずり込んだ。

雅の頭が硬くて暖かい欠の胸元へと吸い込まれていく。雅はなにも抵抗せずに欠に委ねる。

「私で涙を拭いていいよ。

 だから、たくさん泣こう。

 雅はいつも勝負事には関心がないふりをしている。私の理想の自分でいるために戦っていると言っている。

 でも、本当は負けず嫌いで、自分のために戦っているんだよ。

 私は知っている。

 だから、私には隠さなくても大丈夫」

硬くて暖かい欠の胸の中で優しい声が聞こえて来る。

目頭が熱くなり、我慢していた涙が溢れてきた。

悔しいから泣いてるのか?怖いから泣いているのか?それとも、自責の念から泣いているのか?

何なのかわからない涙が溢れ出して止まらない。

雅の涙が欠の制服を濡らす。カッターシャツだけではなく肌着まで濡れて、雅の涙が肌に伝わってくる。雅の涙は少し温かい。

「たくさん泣いて、たくさん泣いて、それで切り替えよう。

 雅は出来る娘なんだから、次は笑おう。

 そのために、リレーでは絶対に勝とう。

 期末テストでも絶対に勝とう。

 1回位失敗はあるよ。次を発生させなければいいよ」

欠の胸元にうずくまる雅の耳に欠の優しい声が聞こえてくる。

「欠。ありがとう。

 欠は私に1位を譲ってくれた。

 みんなの憧れの座も譲ってくれた。

 それなのに、私は欠が譲ってくれたものを奪われかけてしまった。

 そんな私にももう一度チャンスをくれるのね」

胸元に雅の声がこもる。少しこそばゆい。

「当り前だよ。

 雅は私の唯一の理解者だから……。

 こんな嫌われ者の私の側にいてくれるんだから……。

 私にあげられるのはチャンス位だから、何度だってチャンスを上げられる。

 だから、できるだけ長く私の側にいて欲しいな」

欠は雅の耳元まで頭を寄せてそう囁いた。



「どうした。た か な ぎっ」

徹碧が軽く背中を叩く。高薙のむき出しになった肌着の上から軽快な音が鳴る。

高薙は体操服を脱ぎかけのまま徹壁の方を見た。

「何かあったか?」

徹碧が、振り返った高薙ぎにそう聞いた。曲がりなりにも高薙の相棒だ。練習の様子から、今日(最近はこんな感じだが、特に今日)は練習に集中できていないことは感づかれていた。

高薙は「まぁな」と返すととりあえず体操服を脱いだ。

そして、しょうがないので理由を話そうとした。が、徹碧が先に言葉を発した。

「テストが悪かったんだな。

 これでバレー部で一番頭がいいのは文系21位の こ の わ た し になるな」

徹碧は見当違いのことを自信満々で言った。少し得意げである。

「違うよ」

高薙はきっぱりとそう断った。因みに高薙は今回のテスト理系学年17位であった。

徹碧は悔しそうに「勉強だけでも高薙に勝てたと思ったのに」と呟いた。

高薙はそんな徹碧に苦笑いを返す。

徹碧はすぐに切り替えて「でも、私にテストの順位で負けたことじゃないなら何なの?時期的にテストの事しかないと思ったんだけど?」と聞いた。

「テストの事ではあるよ」と高薙は返した。そして、「虚様が1位になったこと」と答えた。

徹碧は「良かったね」と笑った。

高薙は複雑な表情を返した。

徹碧は「嬉しくないの?」と聞いた。

「嬉しいよ」と答えた。

嬉しくないはずなんてない。高薙は誰よりも新月 虚の苦労を知っているのだから。

新月 虚の異常なまでの努力も、執着心も一番近くで見て来た。

だから、新月 虚の1位は自分の事の様に嬉しい。

でも、でもだ。気がかりなことがあった。高薙はそれをぼそぼそと語りだした。

「徹碧はおかしいと思わないかい?

 虚様は今まで満月さんに勝てたことがなかった。

 それに、今回のテスト期間中は風邪をひいて十分な準備さえできなかった。

 それなのに、虚様は満月さんに並んだんだ」

高薙にとってはおかしいことだった。

新月 虚に有利な条件は何一つとしてない。普通に考えれば、いや普通に考えなくても、戦える要素なんてないはずなんだ。

なのに、新月 虚は引き分けにまで持ち込んだ。不利な状況下で今までにないほどの結果を出したのだ。

こんなのはおかしい。

「諦めないって強いな」

徹碧は満足げにそう言った。

「諦めない?」

高薙は聞き返した。高薙にはその一言では伝わらない。

徹碧はそんな高薙のために説明を付け加えた。

「新月さんは、風邪をひいても諦めなかった。

 諦めずに、風邪をひいてダウンしていた数日間をどうカバーするかを考えて考えて考えて考え抜いて、戦ったんだ。

 高薙みたいに勝てないなんて諦めず、高薙みたいに次があるなんて甘いことは言わず、今勝つ方法だけを考え続けたんだよ。

 だから、勝利の女神さまが微笑んだんだ。

 勝利の女神様は、形成が不利になると次があると言い訳して勝負を諦める娘よりも、今勝つことだけを考えている執着深く泥臭く汚い娘が大好きなんだよ」

徹碧はニヤッという笑みを浮かべた。高薙は自分への当てつけのように感じた。

それに高薙は苦笑いを返すしかなった。徹碧の言葉には自分に足りないであろうものがすべて詰まっていた。

「分かってはいるさ」

高薙は制汗剤のスプレーを吹きかけながらそう返した。

分かってはいる。分かってはいるけど難しい。

500mを全力で走り抜けと言われて、倒れるまで本気で走り切れる人間なんていない。

執着深くあろうとしても、泥臭くあろうとしても、汚くあろうとしても、何処かで楽な方へ楽な方へと手を抜いてしまう。

だらだら時間だけを増やして、やった感を出す方向へと行ってしまうんだ……。



テストの結果発表が終わってから、新月 虚は今まで以上に毎朝のランニングに真剣に取り組んだ。

テストはあと一歩で雅に勝てていた。その一歩が足りなかった。

リレーではそんなことは起こさせない。その強い思いが走りに出ていた。

高薙もそんな新月 虚の足を引っ張らないように練習に励んでいった。

直前の数回の練習で本番の結果が変わるのかは疑問ではあった。でも、それでも、練習量は増やすようにしていた。

新月 虚達において課題であったバトンパスについては体育の授業の中で徐々に上達していき、バトンパスが原因でタイムロスが発生することはなさそうだった。

体育祭が近づき放課後の時間にも体育祭が侵食してきた。

放課後には各チームに分かれて応戦合戦の練習をしていた。そんな練習の休憩の間にも新月 虚達はバトンパスの練習をしていた。

それに、他の2人も各々リレーのために練習をしてくれていた。

元々陸上部である隼飛はあまり変化が見られなかった。そもそも陸上部での練習で相当走っているので、追加の練習なんて誤差みたいなものだった。

でも、隼飛は裏で風的のフォローに回っていた。隼飛の指導のおかげもあり、風的の走りはどんどんと良くなっていっていた。

4人の中で1位になることが共通の目標として固まっていた。そのために一丸となっていた。



運動会当日の朝。

この日も新月 虚と高薙 敦の2人は走りに出た。

今日は何時もと違い新月 虚は全力で走らなかった。

本番に向けて体のコンディションを確かめる為に、流す様に走っていた。

そんな新月 虚の斜め後ろをを高薙が並走する。

「ねぇ。敦」

新月 虚は高薙に声を掛ける。

「はい」

高薙は乱れのない声でそう返す。

「もう1年近くこうして走っているわね」

新月 虚はそう言った。

高薙には新月 虚の言わんとすることが分かった。

「はい。今日こそ勝ちましょう」

高薙はそう返した。

「もちろんよ。そのために毎朝がんばってきたのだもの」

新月 虚は感慨深げに前を見据えた。

1年間毎朝走ってきた。それも、流す様にではない。全力でだ。

ずっと流す様に、そして、1年間ともに走って来た高薙にはその大変さが自分には想像できないほどのものだということがよくわかる。

そうやって頑張って来たんだ。

高薙は絶対勝たすという気持ちで「はい」と返す。

新月 虚は「何があっても絶対勝つわよ」と念を押す様に言った。

高薙は「はい」と鋭い返事を返した。



満月 雅はいつも通りの時間にM山駅に着いた。

M山駅の無人改札?(切符を回収するような機械があるわけではない)を抜けて、ホームへと入る。

ホームの中央にはいつもはいないはずの少女、陽光 欠が立っていた。

欠は雅を見つけると、雅の方へと歩み寄って来た。

「欠。今日は遅いのね」

雅はそう言う。

「うん。今日はお父さんが大学を休んで、運動会に来てくれるの。

 お父さんは9時代の電車で来るから、何時もみたいに早く学校に行く必要がなかったんだ。

 だから、雅の事待っていた」

欠はそう言う。

2人はホームのベンチに座るでもなく、立ったまま向かい合っていた。

「雅。今日だね」

欠はそう言った。

雅は「ええ」と返した。雅の表情は少し硬かった。

「緊張している?」

欠は少し心配そうにそう聞いた。

雅は「ええ」と返す。

「勝ちたい?」

欠は一方的に質問を続ける。

雅は「ええ」と返す。

何時もの勝負ごとに関心がない風を装う雅とは違う。

今日の雅は勝たなきゃいけないという追い詰められた眼をしていた。

「それなら、1つアドバイスをさせて。

 もし負けそうになったら、その時は、私に散々負けていた中学3年生の時のあの時の惨めな気持ちを思い出して。

 とっても嫌だったんでしょ。

 そしたら、きっと頑張れるから」

欠はそう言って眼帯の下の左目で雅のことを見た。

雅は何か弁明をしようとした。

それを遮断機の警報器の音と電車の音がかき消した。

「雅。それじゃあ、行こうか」

欠はそう言って電車の2両目に乗りこんだ。

雅は1両目に乗りこんだ。



晴天の秋空の下、運動会は予定通りに行われた。

各種競技が次々と終わり、昼休挟む。

昼休を終えると応援合戦が行われる。

その後、3つ程競技を挟み、最終競技である選抜リレーが行われる。

各チームの得点は示し合わせたかの様に横一列だった。

実質的に選抜リレーの結果で、運動会の優勝が決まる。観衆の注目度が最も高く、名実ともに運動会の花形競技となった。

リレーは1年男、女、2年男、女、3年男、女の順で行われる。

もちろんその中で一番注目度が高いのは最後の最後3年女子……ではなく、この学校の憧れの的、満月 雅と新月 虚、2人が直接対決をする2年女子である。

そんな注目の的である2人、満月 雅と新月 虚、は落ち着いた様子で体をほぐしていた。

その間に1年男子、女子が終わり、2人の対決が近づいてくる。

トラックの白線を引き直し2年男子のリレーが行われる。

それが終わると、また白線を引き直しいよいよ2年女子の番である。

隼飛がスタートラインに着く。

左には陸上部のエース、貫 美実がいる。

右には後2人。選抜リレーの選手だけあり、2人とも陸上部でも上位の短距離走の実力者だ。

4人が一直線に並ぶ。

審判の掛け声とともに、腰を上げていつでも走りだせる姿勢になる。

審判が右手に持ったピストルを空へと向ける。右目を閉じて引き金を引く。

カラッとした空の下にピストルの音が鳴り響く。

それを合図に一斉に走り出す。

隼飛は身体の前に体重をかけ左足を思いっきり踏み出す。そのままの勢いで次の足を踏み出す。

理想的なスタートダッシュに成功した。

しかし、他の3人も全員陸上部。それも短距離走の選手達だ。

皆当たり前の様にスタートダッシュをきめた。

スタートでは差は出ない。

それから、4人は徐々に加速していく。

そんな中で隼飛が他の3人を突き放し前へと出た。

隼飛は200m走を主とした選手である。そして、貫を含む3人は100m走を主とした選手達であった。

200m走にはあって100m走にはないものがある……。

そう、コーナーだ。

コーナーを曲がり慣れている隼飛と違い、他の3人は直線状のコースしか走ってこなかった。そのため、コーナーを曲がる際の姿勢制御に不安があり、どうしても速度を落としてしまう。

だから、3人はスタートから最初のコーナーを曲がるまでは全力を出さない。コーナーを曲がってからもう片方のコーナーまでの直線を全力で走る。

そう言う作戦で挑んでくる。

隼飛はそれを知っていた。だから、最初っからフルスピードを出し、コーナーで貯蓄を作る作戦に出たのだ。

隼飛は速度を緩めることなく、そのままコーナーへと突入する。

身体が振り飛ばされそうな遠心力を感じる。速度を出しつつ、姿勢を制御する。遠心力に必死で逆らう。そして、白線のより近いところギリッギリッをぬける。

観客の、チームの声援が聞こえる。チームメイトが盛り上がっている。

後は見えないがわかる。後続との距離を稼げているのだろう。

貫の、3人の得意とする直線に向けて、少しでも距離を稼ぐ。こけないように注意しながら速度を上げる。

隼飛は後ろの3人と7m程の差を開けてコーナーを抜けた。

魔の直線へと入る。

後続の3人はコーナーに抜ければ全力を出してくる。急加速してくる。だから、それまでに少しでも距離を稼げる様に必死に走る。

『何も考えるな。相手は貫だ。

 何を考えても追い抜かれることしか頭に浮かばない。

 そんなことより、ただただ前へと両足を交互に出せ。

 頭を動かすな、足を動かせ』

貫のチームから歓声が上がった。絶望的な程の歓声だ。

隼飛には後が見えなくたってわかった。貫が本気を出したのだ。

貫に差を詰められている。

その感覚が伝わってくる。

貫の靴の底と運動場の砂がこすれあうグリップ音が聞こえる。力強く砂を巻き上げ貫が迫ってくる。

音が大きくなっていく。音が近くなっていく。

貫はもうそこまで……いや、貫は隼飛の横にいた。

隼飛が視界のすみに貫を収めた瞬間、貫は隼飛の前へと出た。

比喩ではなく現実に風を切る音が聞こえた。

自分が静止してしまったかのように、貫の背中だけが遠ざかっていく。

女子陸上部最速だけあり、貫は無茶苦茶に速い。

コーナーで作った差なんて初めからなかったかのように貫は前を進む。

隼飛には、いや学内の誰も、貫には勝てないのだ。でも、それでもいい。

新月 虚や高薙、それに風的が何とかしてくれる。

これはチーム戦なのだから。

そして、そうチーム戦なんだ。

勝った負けたで終わりじゃない。

隼飛のバトンを受け取る人がいる。

だから、貫に負けて終わりじゃない。負けた中でも少しでもいい状態でバトンを渡さなければ……。

隼飛は奥歯にぐーっと力を入れる。

貫の背中をじっと睨みつける。そして、スライドを意識して足を動かす。

少しでも、ほんのちょっとでも、喰らい付けるだけ喰らい付け。

確実に貫との差は広がっていく。それでも、足を動かす。

そんな時間も終わりに近づいた。貫がわずかだが減速し始めた。

コーナーに突入する。

隼飛にとっての最後のチャンスである。

直線で作られた差をコーナーで少しでも、ほんの少しだけでも、詰める。

隼飛は速度を維持したままコーナーに入る。

そして、そのままコーナーを抜ける。20mはあった貫との距離が15mまで縮んだ。

さっきよりも貫の背中がはっきりと見える。

そして貫の先に風的が見えた。風的と目が合った。

風的は確認するように頷くと、ゆっくりと助走をつけ始める。

隼飛はそんな風的めがけて最後の力を振り絞った。

風的に残りの力ごと託すように、バトンを思いっきり風的の手へと向けて振り下ろした。

しかし、バトンは風的の手ではなく、(くう)を切る。400mを走り抜いた疲れからか、手元が狂ってしまった。

風的の手に渡るはずだったバトンは、そのまま隼飛の手から零れ落ちる。そして、初速と重力に従って曲線を描きながら地面へと落ちていく。

隼飛は重力に引きずられるようにそのまま倒れた。

その間を他の2人がバトンパスを成功させて先へと行く。

風的は、何も考えず、隼飛が落としたバトンを拾い走り始めた。

隼飛は遠ざかる風的ともう一度目が合った。

風的はすぐに前へと向いたため一瞬だった。その一瞬、隼飛の瞳に写った風的の瞳は、今までで一番研ぎ澄まされて美しかった。


バトンパスの致命的なミス。

そのせいで新月 虚達は3位から10m程差を付けられていた。

そんな中でも風的は懸命に走る。

自分がバトンを受け取れなかった分を何とか取り戻そうと懸命に走る。

隼飛はそんな風的を祈るような眼で見ていた。

高薙は……そんな風的の事を冷めた目で見ていた。

全てが上手くいけば、1位になれる可能性があった。

全てが上手くいっても、可能性は50%ぐらいだった。

それなのに、大きな失敗をした。

もう無理だ。

そんなことは明白であった。

それでも懸命に走る風的が惨めで可哀そうに見えた。

「敦っ」

そんな高薙の後ろから鋭い声がかかる。振り返らなくてもわかる。新月 虚だ。

新月 虚は高薙の横に並んだ。

高薙は下唇を軽く噛んだ。

チームメイトのバトンパスで勝つ可能性を断たれた。1年間必死に頑張ってきてその結末がこれである。

高薙は横を見れなかった。そんな新月 虚の顔を見れなかった。

「来年は……」

高薙は慎重に言葉を選びながら、慰めようとした。

「何を言っているの?」

新月 虚がいつもとは違う長ドスの効いた声でそう言った。

高薙は新月 虚の方を見た。

新月 虚は切れ味抜群の鋭い視線を高薙に投げかけていた。

高薙はそんな新月 虚の表情に何も言えなかった。

「風的が1人抜く。敦が1人抜く。そして、私が雅を抜く。

 楽勝ね」

新月 虚はそう言って笑顔を見せた。先程までの眼差しが嘘のような無邪気な笑顔を……。

高薙は目を逸らした。

無理だ。

1人抜くと言われると簡単に思えてしまう。

でも、相手は各チームの精鋭。満月や徹碧、貫以外も相当に速い。

そんなのは現実的ではない。

高薙はそう思っていた。

幼馴染だ。新月 虚にそう言う気持ちは抜けていたのだろう。

新月 虚はため息をついた。

「敦。

 私は今日までの1年間毎日この日のために本気で走って来た。

 走った後は、心臓が私を拒絶しているように苦しいし、肺がひび割れているように痛い。

 それでも、私は今日勝つために、今日勝てると信じて、耐えて来たの」

新月 虚はそう語った。

高薙は病み上がりの新月 虚と本気で走った。だから、本気で走った後がどれだけ辛いかわかる。

「それなのに、まだ走っていないのに、勝負を諦めるなんて私にはできない。

 敦。あなたも一緒に走って来たでしょ。

 あなたは大したことないと思っているかもしれない。

 でも、例え流しで走っていたとしても、あなたも毎朝7kmも走って来たのよ。

 それに、最近は夜こっそり走しっていたでしょ。

 その頑張りがこんな形で終わっていいの?」

新月 虚はそう続ける。高薙はギュッとこぶしを握りしめる。

「全力ではなくっても毎朝7km走るのはしんどかったでしょ。

 部活もあるのに夜走るのは大変だったでしょ。

 私はそんなあなたの頑張りが報われて欲しいと思っているの。あなたが私に思っているように……。

 だから、高薙にも走る前から諦めて欲しくない。

 全力で走ってきなさい」

新月 虚そう背中を叩いた。

「虚様。私が2位でバトンを渡せばあなたは満月さんを抜いてくれますか?」

高薙は力のこもった、痙攣する声を出した。

「当たり前でしょ。

 私の1年はそのためにあったのだから……」

新月 虚はそう答えた。

その言葉を聞くと高薙ぎは何も言わずにスタートラインへと向かった。


スタートラインに立つ

隣には徹碧がいた。

徹碧と目が合った。徹碧は高薙の目を見て驚いた表情をした。

「私達に勝てると思っているの?」

徹碧はそう聞いた。

高薙は「分からない」と答えた。

徹碧は「それでも、本気で走れるんだ」と言って嬉しそうに笑った。

そして、助走を始めた。徹碧が1位のままバトンを受けて走り出した。

それに少し遅れてもう1人、バトンを受けて走り出す。

2人がもう前へと走り出している。

高薙は焦る気持ちを胸に感じた。心地いい感覚だ。まだ、諦めていないから焦れるんだ。

風的が第2コーナーを超えて高薙の元へと向かってくる。

風的は3位で高薙にバトンを渡した。風的はちゃんと1人抜いたのだ。

高薙は風的から受け取ったバトンを手に精一杯力を込めて走った。

180cmを超える長身とバレー部や朝のランニングで鍛えに鍛えた脚力。スライドは反則クラスに広く、ピッチもそこそこ速い。

でも、2位との差が狭まる気配はなかった。2位の娘は陸上部の1人だった。

身体は小さく足が短い。高薙の様に恵まれた体格ではない。スライドは高薙の3分の2程。

でも、陸上部として高薙以上に走って来た。短いスライドを速いピッチで補っている。

2位の娘の小さな背中は小さいままトラックの半周が終わってしまった。

『私はこのまま2位に追いつけず、3位としてバトンを繋いでしまうのか』

そんな嫌な考えが高薙の中を支配した。

結局、バトンパスでできた差を埋めることはできなかった。

高薙はそう納得しようとしていた。

(あづぅっ)。じっがり(ばじ)りなざい」

そんな高薙の鼓膜(こころ)を絞り出したような鋭く汚い声が揺らした。

高薙は声をのする方を流し見した。トラックの反対側で新月 虚が高薙を睨んでいた。

高薙 敦。納得していいのか?

新月 虚なら、最後の最後まで諦めない。

だから、新月 虚は強いんだ。

どんな不利な状況でも足掻き苦しんで結果を出す。

今回の中間テストだって諦めなかったから、新月 虚は雅と同率1位になったんだ。

諦めなければ結果は出るかもしれないんだ。

其れなのに、諦めていいのか?

高薙 敦。

まだ、新月 虚は諦めていないのに、お前は諦めるか?

「まだだ」

高薙はそう口にすると精一杯の力でギュッとバトンを握った。

足に力を込めて必死で走る。

心臓が水風船のように割れて、肺胞がプチプチと音を立てて弾けそうになる。

右の横腹と左肩のあたりが鈍く強く痛い。

少し油断すると、唾液と胃液が血と混ざりあって口から出そうな感じがする。

それでも、必死で足を動かす。

今まで遠いと思っていた2位の背中は吸い込まれるように高薙へと近づいてくる。

コーナーへと入り込む2位の背中を引きずり込むように、高薙もコーナーへと入る。

遠心力を利用して外側から2位に並ぶ。

2位はそこで高薙を振り払う様に加速する。しかし、高薙は振り払えない。

高薙の加速の方が上だった。高薙の視線は、ゴールへと近づく徹碧の背中をとらえていたのだから。

よりいい状態で虚様にバトンを……。

2位を抜いた高薙は残り数10mの直線を徹碧を追い詰める様に全力で走る

しかし、徹碧との差を縮めることはできても追いつくことはできなかった。徹碧のバトンは1位のまま満月 雅の手へと落ちた。

雅が5m程走り出してから、高薙のバトンは新月 虚の手へと渡った。

バトンはハイタッチのような心地の良い音を立てて、新月 虚の手へと吸い込まれた。

新月 虚が雅の背中を追って走り出す。

それを見届けて高薙はその場に倒れた。

主賓席の真ん前で仰向けに倒れ、汚らしく息を整える高薙。

そんな高薙に手が差し伸べられる。

徹碧だ。

「高薙」

徹碧はそう言って笑った。

高薙も満足げに笑い返し、徹碧の腕に体重をかけた。


始めのコーナーを抜け直線へと入る。

依然として雅が1位で、新月 虚が雅を追いかけていた。

新月 虚の息は獣の様に荒い。

その荒い息が雅を追い詰める様に後ろから迫ってくる。

徹碧から受け継いだ時は5m程あった差はもう3mにまで縮んでいた。

まるでテストの結果の様に2人の差は少しづつだが確実に縮んでいく。そして、その差が広がることは決してない。

そんな中で雅は祈るように腕と足を動かす。

どうかゴールまで持ってくれと……。

新月 虚はそんな(えもの)を逃がさない。

隼飛も、風的も頑張った。

おまけに高薙も今日は本気を出してくれた。勝負を投げ出さず私を信じてバトンを託してくれた。

チームメイトが全員新月 虚の執着心を信じて、お膳立てをしてくれたんだ。

今度こそ勝つ。

少しずつ、でも、確実に(えもの)を追い詰めていく。

虚勢(どりょく)で満たしたその(うろ)(えもの)を捕らえようとしている。

(えもの)も覚悟を決めていた。

もう無理だと分かっていた。

胸が苦しくなる。どんどんと胸に巻き付いた縄が強く閉まっていく。

何故かわからないが……。

そんな(えもの)の目に一人の少女が写った。

チームの応援席から見ていた一人の少女。陽光 欠。

欠は(みやび)のことをじっと見ていた。

欠の温かい手に包まれるように顔が熱くなってくる。

全身が熱くなってくる。

負けるのは怖い。

負けたくない。

嫌だ。

雅の心の奥の奥。しっかりと鍵をかけた秘密の小箱。普段は鍵穴から姿をのぞかせる事さえ許さない負の感情が溢れて来る。

この時隣に並んだ新月 虚は普段とは全く違った雅の顔を見たことだろう。

普段は冷静さ(かめん)の奥に隠して、隠し通した闘争心(じょうねつ)嫉妬心(ほこり)

それが冷静さ(かめん)を突き破り前に出ていた。

それは(じぶん)のような(うつくし)い顔だった。

その(うつくし)さに見惚れてしまった一瞬に、雅は虚の先に行っていた。

超えるべき壁は思っていたよりも高かった。

でも、新月 虚は喰らい付く。

引き離されながらも足掻く。

そうやって何とかついて行く。

第2コーナーを曲がりゴールまでの直線に突入した時、2人の差は僅か3mだった。

新月 虚は最後の10mにすべての力を出しきり雅を抜く作戦を考えた。

それまで、距離を保ちながら雅を油断させる。

そして、最後の最後で急加速する。雅が虚の急加速に対応しきる前にゴールインしてしまう。

全力で走って来た。でも、ぶっ倒れようと思えばまだ上をだせる。

それに賭ける。

新月 虚がゴールまで残り10mのところで急加速した。

このまま勝てると思っていた雅の横を通り抜ける。

後はこのままゴールをするだけだ。

新月 虚はすべての力を振り絞ってゴールテープに向かって倒れ掛かった。

しかし、満月 雅は負けたくない。

新月 虚に抜かれる一瞬、雅はとっさに地面に接地していた右足に思いっきり力を込めた。

雅もそのままゴールテープへと飛び込む形となっていた。

お互いがお互いの顔を見ながらゴールテープをきり、そのまま地面へと落ちていく。

2人とも地面に顔からつき、顔は泥で汚れ(うつくし)かった。

2人は起き上がると審判の方を見た。

審判は2人の気迫に押され気味になりながらビデオを確認した。

ビデオ判定の結果……僅差で雅が勝った。


新月 虚は体操服についた砂を払いながら、高薙の元へと向かった。

まだ呼吸の荒い高薙が新月 虚の前に立ち止まる。

「敦。ごめ」

新月 虚が謝ろうとしたのを遮って、高薙は「ありがとうございます。虚様」と言った。

新月 虚は何も言い返せなかった。

高薙はそんな新月 虚に歯を食いしばりながら満足げな笑顔を見せた。

新月 虚の頬を一筋の涙が伝う。

「虚様。大丈夫ですか?」

高薙はそう言って新月 虚の涙を右手の薬指で拭う。

「敦。何泣いているのよ」

新月 虚はそう言った。

高薙の目にも涙が溢れていた。

普段の高薙なら、そんなことはなかったはずだ。

負けても何も思わない。次どう勝つかを考える。

何時もの高薙なら「また、来年頑張りましょう」とか言って慰めていたはずだ。

でも、そんな高薙は今は泣いていた。

小さな新月 虚の泥まみれの体操服に顔をうずめて泣いていた。

新月 虚はそんな高薙の頭をそっと撫でた。

読んでくださりありがとうございます。

面白ければ次回も読んでいただければと思います。

次回はほぼ3ヶ月後の1月25日に投稿する予定です。


[今回の話の感想]

今回の話では久しぶりに雅と欠のやり取りを書いた気がします。

この作品は群像劇ではあるものの、雅が主人公、欠がヒロインという構成で書いているつもりです。

ですが、最近は新月 虚周りの話が続いて、雅と欠の影が薄くなっている気がします。

文化祭編ではさらに薄くなる可能性もありますが、その後の話でしっかりと出番を増やし、2人を主人公とヒロインに返り咲かせて見せます。


[次回予告]

次回から文化祭編になります。

その中でも文化祭までの準備の話になります。

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