4月
登場人物
満月 雅:才色兼備の優等生。
全校生徒の憧れの的。
感情をあまり外には出さない。
星空 数多:満月 雅の親友。
雅とは違い勉強が苦手。
でも、性格がいい。
闇空 覆:少し不真面目な雰囲気のある少女。
二年生になってから雅の友達になった。
鳶葦 伝:新聞部の少女。
雅の番記者を自称する。
陽光 欠:不思議な雰囲気のある少女。
かわいい。
注意
- この物語はフィクションです。
実在の人物、団体、建物とは一切関係ありません。
- 実在の新聞部は真面目な部活です。
- この物語には百合的要素があります。苦手な方はご遠慮ください。
また、ユリ小説ではありません。そのため、親友より上の関係に発展することはありません。ご了承ください。
- この作品を生成AIの学習等に使用するのはご遠慮ください。
日の出前の澄んだ空気の名残が残る早朝の学校。
すっかり花びらの散り切った桜の下を通り、一人の少女が校門を抜ける。
腰位まである艶やかな黒髪。凛々しさを含んだ整った顔立ち。無駄を紙一重までそぎ落としたスレンダーな長身。
彼女こそが全校生徒男女全ての憧れの的、神童 満月 雅である。
雅は校門を抜けると、二階の端の教室二年九組へと向かうため、第三校舎へと入った。
校舎の中はまだ電気がついておらず、他の生徒とすれ違うこともない。薄暗い廊下に雅の規則しいローファーのリズムだけが力強く反響する。
二年九組の前まで来ると雅は立ち止まった。足音が止み静かになる。教室の中からは紙がこすれる音と教卓の上の時計の音だけが微かに聞こえる。教室の窓はすりガラスのため中は見えない。ただ、教室の電気はついていない。
雅が教室の前方の引戸に手を掛けると、引戸はわずかに動いた。当然のことながら、引戸に鍵は掛かっていない。
雅は引き戸を開けて教室の中へと入る。教室の中は窓から入る光により明るかった。そんな教室の中に一人の少女がいた。
目が隠れるほどに長い左の前髪と、眉毛の上ぐらいまでの右の前髪のアンシンメトリーな髪型。不自然に長い左の前髪を留める月の飾りと太陽の飾りのついた二種類のヘアピン。前髪が持ち上げられ露わになった左目を隠す眼帯。高校生とは思えない小柄な体。
彼女は陽光 欠である。
欠は廊下側の一番後ろの席に座り、窓からの光を頼りにブックカバーのかかった本を読んでいた。
欠は本を閉じてゆっくりと立ち上がる。
薄暗い教室で、しかも二人の間には物理的な距離もあった。なのに、雅と欠の目は合わせ鏡のように合っていた。
雅の左目に欠の右目が映りこむ。欠の右目に雅の左目が映りこむ。
一瞬教室内が静かになった。欠がどこか嬉しそうに「雅。おはよう」と声をかけた。
雅はいつもの嬉しそうな笑顔を被って「おはよう。欠」と返す。
欠は雅と朝の挨拶を交わすと満足げに微笑んで、雅と入れ替わるように教室の後ろの扉から出ていった。
雅は欠が出ていくとすぐに電気をつけ、窓側の一番後ろの席へと座った。
席に着くと通学カバンの中から数学ⅡBの青色の参考書を取り出して自習を始めた。
雅が数学の自習を始めてから10分程たった。しかし、問題を解くための落書き帳は真っ白なままだった。雅のことである。もちろん問題が分からないわけではない。ただ、集中できていないのだ。
静かな場所に一人でいると考えたくもないことが頭に浮かんでしまう。そして、それは作業に集中しようとすればするほど深く考えてしまうのだ。
陽光 欠。
運動神経も学力も学年トップクラスの満月 雅。
そんな雅とは対照的に運動も勉強も苦手なことになっている少女。
容姿端麗な雅とは違い、眼帯の下に、一度見たら忘れられなくなるような、惨い刺し傷を隠した少女。
欠けることなき望月のような雅の人生に懸かった罪であり呪い。
欠のことが頭の中をめぐって数学の問題に集中することができない。
せめて誰か来てくれれば少しはましになるかもしれない。しかし、時計の針は重々しい音を立てながらやけにゆっくりと進んでいた。
そんな中でもしばらく数学の参考書と向き合ったのち、雅はため息をついた。
「雅。ため息なんかついてどうしたの?」
雅の重たいため息に呼応して優しい声が聞こえてきた。参考書から目線を上げると一人の少女が雅のことをのぞき込んでいた。
前髪を、左右それぞれ五本の星の飾りのついたヘアピンで、中央分けにしたショートカット。
顔つきに特徴はなく、身長は平均的、肉付程よく、制服は教師の鼻に突かない程度に着崩している。
雅の親友、星空 数多だ。
雅は星空の言葉に「なんでもないわ」と返した。
星空は「それならよかった」と言うと、雅の前の席の椅子を取り、雅と向かい合わせになるように座った。雅は机の端に置いていた筆箱を自分の方へと寄せる。星空はカバンから文庫本を取り出し、机の縁に立てかけるようにして開いた。
雅は星空から視線を下げ数学の問題集に向き直る。
二人はそれぞれの時間へと入り込んでいく。
星空が向かい側にいる安心感からか、時計の針は心地よく音を立てて進み、数学の問題も面白いように解けていく。数学の問題を3問解き終わると、雅は顔を上げた。
そのころには他の生徒達も順次教室に入ってきており、クラス替え後で関係は固まり切っていないながらも、生徒たちの話し声が聞こえてきていた。
星空は雅が顔を上げたことに気づくと、栞を挟んで本を閉じた。
「雅。今日の分終わった?」
「朝の分は終わったわ」
雅はそう言いながら数学の参考書と落書き帳を閉じた。
「毎朝3問数学の問題を解くんだっけ?」
「ええ。1年生の時からの私の日課よ」
雅は何でもない当たり前のことのようにそう返した。
「雅はすごいなぁ。数学の問題を3問も……。私のテスト期間の勉強量だよ」
星空は雅に感嘆の声を漏らした。雅からは思わずため息が漏れる。
「あなたはもう少し勉強したらどうかしら」
雅は呆れたようにそう言った。星空はその言葉に少しの間黙った。
自分のここ最近の成績を思い返す。
自分のことながら呆れてしまう。
……。
「そうよね。せめて雅の親友として恥ずかしくないようにもう少し勉強した方がいいよね」
星空は自分に言い聞かせるようにそう言った。
雅は「いい心掛けね」と星空を褒めた。
そして、朝の読書の代わりに一緒に勉強するのはどうかと提案した。
星空はそれに「今読んでいる本を読み終えたら、始めようかしら」と答えた。
星空は軽い気持ちで『もう少し勉強した方がいいよね』と言ったわけではないし、危機感も持っていた。
しかし、『勉強をする』という抽象的な目標が、『毎朝ホームルームまで勉強をする』という具体性を帯びた計画になったことで、大変なことだと気づいてしまったのだ。そのため、何とかして逃げたくなり、その第一歩として取り敢えず先延ばしにした。
もちろん雅にはそんなこと察しがついていた。
「そうね。約束よ」
雅は星空の退路を断つように、嬉し気な表情を作ってそう言った。
星空は一瞬ウグゥッと声を漏らすような苦い顔をした。雅の表情に良心が軋むように痛む。
そして、しばらくため込んだのち頷く。
星空は少し疲れた顔を浮かべた。
雅はそんな星空のために話題を変える。
「ところで、星空。今はどんな本を読んでいるのかしら?」
雅は星空にそう聞いた。雅の中の星空はかなりの読書家である。雅と二人でいるときは良く本を開いていた。そのため、本の話は話題を変えるときには最適であると思った。
「普通の恋愛小説だよ」
星空は淡白にそう答えた。それでは雅には何も伝わらない。
「普通?どんな内容かしら?」
雅は会話を広げようとそう聞き返した。
「小学生の頃に仲たがいした二人の少女が高校で偶然出会って徐々にやり直していくって感じの話なの」
星空はどこか悲しそうにトーンを下げながら言った。
「その本本当に面白いのかしら?」
雅は星空の暗い反応に思わずそう聞いてしまった。
「すごく面白いよ。ただ、主人公たちの過去に触れる話があるのだけど、描写とかに嫌にリアリティがあって、そのせいかどこか他人事とは思えず読んでて辛くなるけど……」
星空はそう言いながらさらに疲れが押しかかってきたかのように俯く。雅は何かフォローを入れようと考えた。しかし、雅がフォローを入れる前に星空はいきなりパッと顔を上げた。
「でも、その分主人公に感情移入できてる。だから、二人の関係が進展したときにはまるで自分のことのように嬉しくなるの。それに、なんて言うか、主人公たちには苦しんで苦しんでその上で幸せになって欲しいと本気で思えるの」
星空は勢いよくハイテンポでそう言い切る。そして、後から呼吸を整えた。
雅はそんな星空の様子に優しく微笑んだ。
「本当に好きな小説なのね。気になったわ。
私も読んでみようかしら。
タイトルはなんていうのかしら?」
雅がそう聞くと、星空は嬉しそうな顔をした。
「『白と黒の貴婦人の戯れ』だよ。『とののれ』って覚えておけばいいよ。
この前貸した『なとけた』の作者の作品なの」
星空はそうブックカバーを外して表紙を見せた。雅は机から手帳を出し、手帳の隅に忘れないようにタイトルを書いた。雅が手帳を仕舞うと、星空が思い出したように話を続けた。
「そう言えばこの本先週新刊が発売されたんだ」
「そうなの」
「うん。まだ買っていないから近々買いに行こうと思っているの。
今日の放課後暇なら付き合ってくれない?」
星空は誘いながら、ブックカバーを掛けなおした。
「いいわよ」
雅はそう答えた。偶には星空と遊びに行っても許してもらえるだろう。
「なら、ついでにお茶でもして帰らない?」
星空は浮かれ気味にそう提案する。
雅は間を置かずに「いい考えね」と返した。
そして、名案を閃いたというように「ちょうど二人で書店に行くのだから、ついでに星空用の数学の参考書も見ましょう」と付け足した。
「数学の参考書?」
星空は雅の言葉に首を傾げる。雅は説明を付け加えた。
「その本読み終えたら毎朝勉強するんでしょ。なら、一冊持っておいた方がいいわよ」
星空は先延ばしにさえすれば、毎朝勉強する話はまだ自然消滅する可能性があると思えていた。しかし、もし参考書を買ってしまうとその可能性は完全消滅してしまう。それによりによって数学の勉強をすることになってしまう。
だから、星空はこの提案だけは避けたかった。
「毎朝勉強するにしても、学校で使っているのがあるからわざわざ買わなくても大丈夫じゃない?」
星空はそう言って逃げようとした。
雅は脇に置いてあった学校指定の数学の参考書に左手を置いた。
「星空。これをやる気なのかしら?」
雅は真剣なトーンで聞き返した。雅は少し驚いている。
「うん。何か問題あるの?雅もいつもこれを使っているでしょ?」
星空は、雅のトーンの意味が分からず、素朴にそう聞き返した。
「手を出してくれるかしら」
雅は答える代わりにそう言った。星空はただ右手を出す。雅は星空の右手の上に参考書をおいた。
雅が手を離すと、星空の右手にずっしりとした重さが伝わってくる。辞書程の厚さのある参考書だけに重い。想像以上の重さに、星空の手は一瞬ガクッと下がった。
「星空。重いでしょ。
それだけ内容がぎっちりと詰まっているのよ。
そんなに頑張れるかしら?」
雅はそう言いながら、星空の手から数学の参考書を取った。星空の腕が急に軽くなる。
星空は少し想像した。あの本に載っているすべての問題を解くことが自分に可能なのかと。それは先ほどの手に伝わった重みよりもはるかな重荷に感じた。
「無理です」
星空はそう答えた。
「学校の参考書は校内の平均レベルに設定されていて、数学が苦手な人には厳しいわ。だから、星空、もう少し簡単な参考書を買ってそれを頑張りましょ」
雅はそう説明した。星空は「はい」と頷くしかなかった。
数学の参考書をついでに見ることが確定事項となってしまった。
ホームルームが終わった後雅の席に一人の少女がやってきた。
星空ではない。
身長は星空より少し低めだが平均的の範疇。
三回程折られたスカートに、結び目が第二ボタンの位置まで緩められたリボンタイ。
それとは対照的な、しっかりと閉められたブラウスの第一ボタンときれいに束ねられたポニーテール。
意識すると気づける程度に舞うフローラル系の香り。
瞳の奥の奥の奥の奥に輝きを放つ少女。
彼女が闇空 覆だ。
二週間前の始業式で偶々言葉を交わしたことをきっかけに、最近一緒にいる時間が増えつつある友人である。
「満月。一時間目の日本史行こうぜ」
闇空はあくびが出そうな声を作ってそう言った。闇空は日本史の授業に雅を誘いに来たのだ。
一時間目の社会科は選択科目である。雅と闇空、欠と後男子が二人程日本史を、星空やその他のクラスメイトは地理を選択していた。暗記量の多い世界史は、学校の方針で、理系の生徒には選択肢として与えられすらしなかった。
雅たちの教室では地理の授業を行い、日本史の授業は第二校舎の社会科室で行う。そのため、雅たちは教室移動をする必要があった。
「ちょっと待ってくれないかしら」
雅はそう言いながら闇空を待たせないように急いで日本史の教科書とノート、資料集を机から出し立ち上がった。
二人が教室を出ようとすると、星空が後ろから二人の元にやってきた。近づいて来た星空に二人は振り返る。
「星空。どうしたのかしら?」
雅は星空のことを不思議そうな目で見た。
星空は「まだ時間あるんだし、もう少しゆっくりしていかない?」と返した。
「星空。雅と移動教室で離れ離れになって寂しいんだな」
闇空は茶化すようにそう言った。
「そんなんじゃないわよ」
星空は慌てて返した。バレバレである。
闇空は何も返さない。かわりに、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
星空はそんな闇空に「なんか言って」と言って声を張り上げた。
闇空は星空に言われた通り何かを言おうとしていた。雅がそんな闇空の肩に手を当てて止めた。
「闇空。星空をからかうのはやめてくれるかしら」
雅は闇空の耳元で低めの声を出した。雅にしては珍しく。
闇空は「はいはい。わかりましたよ」と言って、星空から距離を取るように一歩下がった。
雅は今度は星空の方を向く。
「星空。今日の日本史、小テストがあるから早く教室に行かないといけないの。
だから、ごめんなさい。もう行くわね」
雅の言葉に星空は「分かったわよ」と渋々返した。
雅と闇空は教室の外へと向かった。星空はそんな二人の後姿を寂しそうに見ていた。
突然、雅が星空の方を振り返った。
星空は振り返った雅を期待を含んだ目で見た。
「星空。そう言えば、地理も小テストがあるんでしょう。
今のうちに勉強しておきなさい。」
雅は思い出したようにそう言った。その言葉に、闇空の背中が小刻みに揺れた。きっとクスクス笑っているのに違いない。星空は恥ずかしさか、それとも闇空への苛立ちからか頬を少し染めた。それを隠すように闇空の背中を睨みつける。
二人はそれに気づかずに教室の外へと出て行った。星空は仕方なく自席へと帰り、地理の教科書を開いた。
初めましての用語たちが目の中に入り込んできた。まぁ、小テストだし悪くても問題はない……はず。
雅と闇空の二人は教室を出て社会科室へと歩き始めた。
教室を出てすぐ闇空は何気なしに雅に話しかけた。
「満月と星空っていつも一緒にいるよな?」
「まぁ、親友だから当然じゃないかしら」
雅はそう返す。
「うん。まぁそう言われればそうだけど……。
なんか満月と星空って全然違うだろう。
二人が一緒にいると不思議な感じがする」
闇空は雅の言葉に納得いかないようにそう言った。
「それをあなたが言うのかしら」
雅はそう言って闇空の顔を見た。雅の返しに、闇空は微かに眉を寄せた。
闇空にはその意味がすぐには理解できなかったのだ。
闇空は無意識に自分は雅に釣り合っていると思っていたから。
だから、「どういう意味?」と聞いた。
雅は答える代わりに闇空の胸元へと目線を落とした。緩められただらしないリボンタイが揺れている。
闇空は雅の首元を見た。キュッと引き締まったリボンタイが凛として佇んでいる。
雅の言葉の意味が分かった。
「そう言われると返す言葉がないな……」
闇空は困ったようにそう返して話を合わせた。そして、日本史の道具を、リボンタイを隠すように胸の前で抱え持つ。
闇空は納得いかないような口調で「でも、なんか二人の関係は不思議な感じがするんだよな」とオブラートに包んで言った。
「不思議かも……知れないわね。
でも、星空は一緒にいてとても心地がいいわよ」
雅は闇空の疑問に答えるようにそう言った。闇空は「心地がいい?」と相槌を打った。
「ええ。星空と一緒にいるとなんだか安心するのよ。
それに、一人でいたくないときには必ず現れてくれる」
雅は朗らかな表情でそう言った。闇空はやっと納得できた。
「星空は優しいからな」
闇空は雅に同意した。そして、少しトーンを下げて「雅にだけはな……」と付け加えた。
雅は星空を弁護するように「みんなに対して優しいわよ」と闇空の言葉を否定した。
闇空は「そうか……?」と首を少し傾けた。
雅はよく考えてみた。
星空の自分以外とのやり取り、特に闇空とのやり取りを思い出してみる。
闇空が星空を茶化すせいもあるのだろうけど……。考えてみると星空は闇空へのあたりは強い気がする。
他の人は……。鳶葦にもあたりが強い……。黒白に対しては攻撃的とさえ言える……。
……。
雅はだんだんと自信がなくなってきた。
「まぁ、何人かには少しあたりが強いかもしれないわ」
「そうだよな」
闇空は納得したようにそう返した。雅は星空へのフォローを入れる。
「でも、闇空とは会って二週間の付き合いだから……。
一学期中には仲良くなれるわよ」
「それならいいな」
闇空は他人事のようにそう返した。
社会科、現代文、英語、数学Ⅱという午前中の授業をこなして昼休みになった。
雅の元には一緒に昼食を取ろうと星空と闇空がやって来ていた。
雅は自分のお弁当を机の右手前に広げる。
星空は、前の席を雅と対面になるように動かして座り、左手前に弁当を広げる。
闇空は窓際の壁にもたれかかって立ち、雅の机の空いたスペースにコンビニの袋を置いた。
「今日も一日耐え抜いたー」
星空がそう言いながら大きく伸びをした。雅は弁当箱を開けながら「まだ半日しかたっていないわよ」と突っ込む。闇空は雅に同意するように頷いていた。
「今日は午前中の授業が重めだったから、ほぼ一日終わったようなものなの」
星空は雅にそう返しながら、弁当を開けた。雅は「なるほどね」と小声で言って頷いてしまった。その後でよくよく考えて首を傾げる。
そんな中、闇空がハァとため息を吐いた。
星空は闇空に向けて「何よ」と言って、視線を向ける。
闇空はおにぎりの包装を開きながら、「私は午後の方がよっぽどしんどいと思うけどな」とこぼした。
星空は卵焼きを持った箸で闇空を指した。
「闇空は解っていないな。
午後は疲れている。それにこのお弁当が私のお腹を満たす。だから、午後の授業はどうせ寝てしまう。
つまり、どんなに重めの授業でも、午後なら問題ない」
星空は得意げに断言した。そして、勝ち誇ったような笑みを浮かべて、箸に持った卵焼きを口へと運んだ。口の中に出汁とたっぷりの砂糖の甘みが広がる。
闇空は、相手にするだけ無駄と言わんばかりに、星空を無視しておにぎりにを食べ始めた。具は紅鮭である。塩が効いている。雅は思わず左手で自分の額を押さえる。ため息が漏れそうだ。
星空は卵焼きを飲み込むと微妙な反応を示した二人を交互に見た。闇空は淡々とおにぎりを食べ、雅は疲れたような表情を浮かべている。
「二人ともどうしたの。そんな微妙な反応して」
星空はそう声を上げた。
闇空は言葉の代わりに、雅にアイコンタクトを送った。恐らく「満月から何か言ってやれ」と言う意味だ。雅はため息をつく。そして、箸を置いた。
「星空。そんなことでは今年こそ本当に留年するわよ」
雅は真剣な声色で星空にそう言った。
星空は雅を刺激しないように箸をおき、両手を膝の上に置いた。それを見て、雅から星空への説教が始まった。
星空はひたすらに「はい」と言って頭を下げた。
雅は星空の成績のことでよっぽど頭を抱えていたのか、説教は終わる気配がなかった。
ある程度時間が経つと、星空が可哀想になったのか闇空が動いた。
「満月。星空も反省している。それくらいにしておいてやれ」
闇空はそう言って雅の説教を中断した。雅は何か言いたげに闇空を見る。闇空は星空の方を見る。星空は感謝のこもった眼差しを向けていた。
「星空。五時間目の古典は寝ないように頑張ろうな。
先ずはそこから始めよう」
闇空はそう言ってポケットからかなり強めのミントタブレット取り出し、星空の前に置いた。
「ありがとうございます。頑張ります」
星空は低めのテンションで定型文のようにそう言って、ミントタブレットを受け取る。ミントタブレットのケースの中にはまだまだぎっちりミントタブレットが詰まっていた。
闇空は雅に目線を送る。雅はまだ何か言いたげだったが、はぁとため息をついて箸を手に持った。
それを見て星空は恐る恐るご飯の上の梅干しを箸で切って口へと運ぶ。特に止められることなく梅干しを口の中へと入れられた。梅干しは口がすぼみそうになる程酸っぱい。星空は安心した。
闇空はそんな星空の肩をポンポンと叩いた。
「これで午後の方がしんどいな」
闇空はいい笑顔でサムズアップをした。星空は何か言い返したかった。でも、説教の仲裁に入ってもらった後で気が引ける。それに、雅も見ている。代わりに、重いため息をついた。
星空は気分を切り替えるようにぎゅっと目を閉じて開いた。
「しょうがない。午後も頑張ろう。
放課後は雅とデート。そう思えば頑張れる」
星空はそう言いながら両手で小さくガッツポーズをした。頑張れる気がする。
「そうか。それなら後三時間頑張ろうな」
闇空はそういいながら、目線だけを雅の方へと向けた。
雅は少し頬を染めながら「デートじゃないわよ。二人で書店に本を見に行くだけよ」と訂正した。
星空は「二人っきりで買い物に行くのだから、それはもうデートでしょ」と反論した。
雅は二人から顔を背けるように廊下側を見た。そして、闇空の方を見る。
「勘違いしないでね。別にそう言うのではないわよ。
ただ、二人で書店に行く、そしてお茶をするだけよ。
今日暇だったら闇空もついてこないかしら?」
雅は少し慌てながらそう言った。星空はホォと息を吐く。
闇空は、お伺いを立てるように星空をチラチラとみた。
星空は特に何気なしに「別にいいわよ」と言った。口と態度では……。
闇空は少し考えた。
「悪いな。今日は私もデートの約束があるんだ。また誘ってくれ。
今日は二人で楽しんで来い」
闇空は思い出したようにそう言って断った。闇空の言葉に雅は「残念。いい機会だと思ったのだけど、予定があるなら仕方ないわね」と返した。
星空はどこか安心したような笑みを浮かべ、闇空に今度缶ジュースでも奢ろうと思った。
雅は「闇空に恋人がいたのね。意外だわ。どんな人なのかしら?」と珍しく関心ありげに聞いた。
闇空は少し驚いた。雅はいつも淡々としていて、何かに関心を示したところを見たことがなかったから。そして、雅が色恋事に関心を示すとは思っていなかったから。
闇空は雅にこういう一面もあるのだと思いながら、「いないよ。残念ながら、ただの友達」と軽く返した。
雅は「闇空の友達ってどんな娘なのかしら?」とさらに関心を示した。
闇空は一呼吸分考えてから、答えた。
「すっごく美人で、すっごく才能に溢れている。」
「雅みたいな感じ?」
星空が割り込んでそう相槌を打った。雅は少し照れくさそうに黙る。闇空は首を横に振って付け加えた。
「でも、満月と違って致命的なほど人付き合いが苦手な娘だな」
「なんか説明の仕方に悪意を感じるのだけど……、それって本当に友達なのかしら?」
雅は疑い気味にそう聞いてしまった。闇空はまた一呼吸分考えた。
「まぁ、なんやかんやでよく一緒にいるし……友達なんじゃないかな」
闇空は少し楽しげにそう返した。雅は安心したように「それならよかったわ」と言葉を漏らした。
闇空は「よかった?」と聞き返す。
「ええ。闇空って少し浮いているでしょ。人当たりもきついし、友達がいないのじゃないかと思っていたわ。
それに、さっきの説明が友達に対するものとは思えなかったから、本当は友達が欲しいけどできなくって、それで想像の友達の話をしているのかと……。
でも、その顔を見るに、一人ぐらいは本当に友達が居たのね。安心したわ」
雅はそう返した。闇空は、雅の本当に安心したような様子に、息が漏れそうになる。闇空が星空の方を見ると憐れむような眼を向けていた。
「闇空。私と雅は闇空の友達だよ」
星空は闇空にそう言った。闇空は恥ずかしさに思わず顔が赤くなる。
闇空は二人の方を向いて弁明を始めた。
「私、そう思われていたのか。これでも、後二人も友達いるからな。
小さくて偉そうな娘とか、背の高くて口数の少ない何考えているかわからない娘とか……
三人が昼食を食べ終わるころを見計らって一人の少女がやってきた。
身長は雅と星空の間で少し高め。髪型はまとまったストレートのショートカットで、枝毛やアホ毛はない。顔つきは地味だが整っている。
知的な雰囲気を漂わせるシャープな輪郭の眼鏡。糊のきいたカッターシャツ。アイロンのかかったスカート。恐らく毎朝磨いているのであろうローファー。爪は切っているのではなく削っている。身だしなみだけを見れば満点の少女。
そんな少女が来るなり、星空が、先制攻撃とばかりに、声をかけた。
「鳶葦。何しに来たの?」
星空の言い方はきつめである。
それに対して鳶葦は得意の営業スマイルを浮かべて、
「遅れましたが、今日はお二人に、新学期のご挨拶に伺いました」と返した。好感を覚えずにはいられないお手本のような聞き取りやすい発音である。
星空は「で、本当の要件は何?」とさらにきつめに返す。
鳶葦は「お二人に新しいお友達ができたとお聞きしたのでご挨拶に伺いました」と答えた。星空は素っ気なく「そう」と返す。
闇空はいきなり始まった二人のやり取りに戸惑っていた。自分に対するときよりも攻撃的に話す星空と、感情の読めない笑顔と発音でそれに返す鳶葦という少女。変な緊張感すら感じられそうだ。
闇空は仲裁に入るべきか迷って雅の方を見た。雅は気にするそぶりもなく古典単語帳を見ていた。それを見て闇空はほっておいても大丈夫だと察した。
鳶葦は星空を無視してそんな闇空の方を向いた。星空は鳶葦に後から鋭めの視線を送っていた。
「闇空さん。自己紹介が遅くなりました。
私は星空さんの小学生時代からの親友の鳶葦 伝と申します」
鳶葦は一切乱れないきれいな発音でそう言った。まるでそれが真実であるかのように……。
そんな鳶葦の嘘を星空が訂正した。
「闇空。こいつは雅のストーカー鳶葦 伝よ」
鳶葦は、自身の冗談を訂正した星空の嘘を訂正した。
「違いますよ。私は新聞部の鳶葦 伝。満月さんの番記者をしています」
そして、鳶葦は星空の方を向き「少し星空さんを和ませようと冗談を言っただけなのに、ストーカーとは失礼ですよ」と忠告した。星空は「でも、新聞部の部則で禁止されているのに、雅のこと付け回したりしているでしょ」と返す。
鳶葦は、番記者と言うよりパパラッチ気味の部分がある。それは雅の寛容さゆえに許されているだけで、新聞部内では大問題になっていた。そのため、鳶葦はそれには何も言い返すことができなかった。
鳶葦は逃げるように闇空の方を向いた。
「闇空さん。まぁ細かいことは気にしないでください。満月さんの元へはよく訪れるので、以後お見知りおきを……」
鳶葦はそう言いながら新聞部交付の名刺を闇空に渡した。
闇空は少し戸惑いながら「私は闇空 覆だ。よろしく」と言って名刺を両手で受け取った。
鳶葦は「よろしくお願いします」と言って頭を下げ、闇空ではなく雅の方を見た。雅はそれを気にせずに古典単語帳を見ていた。
「流石は満月さん。新しい友達が闇空さんとは……
話題性に事欠かないので大変助かります」
雅は古典単語帳越しに「それは良かったわ」と素っ気なく返した。
「でも、闇空と私が一緒にいるぐらいでそんな話題になるかしら?」
と疑問を付け加えて、ページをめくった。
「なりますよ。だって、あの闇空さんと満月さんですよ。
一年の初めの闇空さんを思い出してください」
雅の疑問に鳶葦はそう答えた。
雅は単語帳から意識を離し、約一年前の闇空との出会いを思い浮かべた。そのころの闇空は今とは違いギラッギラッとしていて、雅に対しての、いや周りに対しての軽蔑と敵対心のようなものが溢れ出ていた。そのころを考えると、闇空と誰かが一緒にいるだけでも話題になりうるのかもしれない。
雅は納得して「なるほど」と頷いた。星空は納得した雅を見て首を傾げた。
星空は、雅と鳶葦の会話に、雅に話しかける形で入ってきた。
「雅。一年の初めの闇空ってどんなのだったの?」
星空は高校入学直後のあの闇空を知らなかった。去年も雅と星空、闇空は同じクラスだったのだが……。
まぁ、仕方はないかもしれない。あの頃の闇空は今のように目立つ格好ではなかった(ある意味では異様な格好ではあったが)。代わりに目に着く性格だった。ただ、あまり接点のなかった星空にはそれが見えなかったのだろう。そのため、星空には自分と接点のないクラスメイトの一人程度にしか映らなかったのだ。そして、冬休み明けの闇空の印象に塗り替えられて、星空の記憶から入学直前の闇空は消えてしまったのだろう。
雅がそんな星空に一年次の闇空について語ろうとすると、それを察知して闇空が雅に目線を送った。目線に気づいた雅が闇空を見ると、闇空は唇の前に人差し指を立てていた。
闇空は自分の過去についてあまり触れてほしくないらしい。仕方ない。
雅は星空に「すごかったわ。詳しくは本人から聞くといいわ」と曖昧な返しをした。星空は闇空の方を見た。闇空は星空の期待に答えない。
そんな二人の代わりに鳶葦が星空の疑問に答えようとした。闇空はそんな鳶葦を入学当初のような冷たく鋭い目で睨みつけた。
鳶葦は「すみません。闇空さんのことより、満月さんに用事があったのでした」と言って不自然に話題を変えた。
「用事って何かしら?」
雅もそれに乗った。闇空は安心して表情を和らげる。
それを見て鳶葦は話を続ける。
「まずは課題テスト学年一位おめでとうございます」
鳶葦は雅にそう言って拍手をした。
雅は「ありがとう」と素っ気なくお礼を言う。そして、「どうして知っているのかしら?」と当然の疑問を浮かべた。課題テストは、中間テストや期末テストと違い成績上位者の張り出しは行われない。そのため、鳶葦が確定情報として雅の順位を知れるはずがなかったのだ。
鳶葦はチラッと闇空を見ながら、雅の疑問に答えた。
「ここに来る前に新月さんのところへ寄ってきました。
新月さんが二番だったと言っていたので、一番は満月さんかな?……という推理です」
そして、「雅さん。いつも思うのですがもう少し喜んだらどうでしょうか?嬉しくないのですか?」と疑問を付け加えた。
雅は「とっても嬉しいわよ。たぶん……」と返した。
鳶葦は「そうですか」と少し残念そうに言った。そして、「後、新月さんのところに行った時に伝言を授かったのですが、いいですか?」と聞いた。
「伝言?いつものやつかしら?」
雅はそう聞き返す。鳶葦は「はい」と答えた。
雅は「いいわよ」と言って、古典単語帳から目線を上げて聞く姿勢になった。
鳶葦は「では、いきます」と言うとゴホゴホと咳をした。「あーあー」と2、3回言って声の調子を確かめる。
そして、微妙に似ている新月の声真似をして伝言を伝え始めた。
「私のライバル満月 雅。
先ずは課題考査学年一位おめでとう。
口惜しいけど今回はあなたに勝ちを譲ってあげる。
ただ、次の中間考査では私が学年一位になるわ。
覚悟しておきなさい」
鳶葦は伝言を伝え終わると、いつもの聞き取りやすい発音で「と言っていました。何か新月さんへの返しの言葉などはないですか?」と聞いた。
雅は「特にないわ」と答えながら古典単語帳に目線を落とす。鳶葦は残念そうに「そうですよね」と返した。そして、「中間考査、二人の戦いを楽しみにしています」と付け加えた。
星空は午後からの古典、英語、数学Bと言った授業を、闇空に授かったミントタブレットに頼りつつ、何とか乗り切った。
放課後になると約束通り、雅と二人っきりで近くの大型書店に行った。欲しかった小説の新刊を買うことが出来た。が、結局数学の参考書も買ってしまった。これで星空は毎朝の勉強から逃げられなくなった。しかも教科は数学である。普段ならため息の一つもつきたくなる。
しかし、今はそんなことどうでもいい気がした。これから雅と約束通りお茶をするのだから……。
二人は、書店の近くの、大通りに面したチェーンのコーヒーショップへと入った。コーヒーショップに入ると、雅は二人分の荷物をもって席の確保に向かった。その間に星空がカウンターに並んで雅の分も注文を済ませる。
星空がカウンターで商品を受け取って雅の元へと向かうと、雅は窓際の二人席を確保していた。窓からは傾き始めたばかりの夕日が差し込んでいて、温かい黄色に雅を染めていた。夕日に染まった雅は儚げで美しかった。
近づいても雅は星空に気付かなかった。誰かとのメッセージのやり取りに集中していたのだ。
「本屋に入る前も連絡してたよね。親?」
星空はそう声をかけながらアイスコーヒーを雅の前に置き、対面に座る。
星空に気づいた雅は「まぁ、そんなものよ」と言ってアイスコーヒーを受け取った。
星空は自分の分のカフェオレに口をつける。
コーヒーの香ばしさと牛乳のコク、砂糖の甘みが口の中に広がる。安心する味がする。
ほぉと息を吐いた。自然と背もたれに体重がかかる。
「なんか雅とこうしてお茶をしていると落ち着くなぁ」
星空はコーヒーカップを両手で持ち、独り言のようにそう呟いた。雅は優しい声で「それは良かったわ」と言った。星空は、もう一度味わうように、カフェオレに口をつけた。
「最近二人の時間が少ないでしょ」
星空はコーヒーカップを置きながらそう言った。星空は雅に同意して欲しかった。
雅は「そうかしら?」と言った。雅はそう言う風に感じていないのだろう。いや、そもそも二人の時間などというものを考えたことなかった。
「そうでしょ。去年は学校ではほとんど二人っきりだったのに、二年生になってからは闇空も加えた三人でいるでしょ」
星空はそう説明を加えて雅の方を見つめた。
雅は同意するわけではなく、「賑やかでいいわね」と落ち着いたそぶりで微笑んだ。雅は何でもないようにアイスコーヒーを手に持って口をつける。
星空はカフェオレを覗き込むように俯いた。星空は、雅の言葉や様子に何故か苛立ちを覚えた。
「いつもは……賑やかでいいわよ。
でも、たまにはこうして二人っきりで過ごしたいの……」
星空は堪えるような声でそう言っていた。雅はアイスコーヒーをおいて星空を見た。星空も雅を見る。雅は少し俯きがちで表情に影を作っていた。
「星空はそう思っていたのね。
今日の買い物に闇空を誘ったりとか、かなり無神経な言動をしていたかしら。ごめんなさい」
雅はそう星空に謝った。雅の謝罪は星空の胸がズシーンッと重く響いた。
「雅は悪くないよ。
今日闇空に声をかけたの、私は嫌だった。
でも、闇空は私たちの友達だし、雅は闇空のこと心配していたから当然だと思う。
それに、私闇空のこと嫌いなわけじゃないし、いつも三人でいるのは当たり前だよ。
悪いのは私」
星空は、満天のつもりの作り笑顔を張り付けて顔を上げた。
悪いのは私。そう、それでいいのだ。自分が二人っきりがいいからって、それを雅に言うのは間違えている。それを強要するのはもっと間違えている。その上、そのことで雅に謝らせるのは最低な人間だ。
私は雅を利用している。だから、雅に合わせるのは当然なんだ。私の考えを雅に押し付けるなんて間違っている。
「本当に大丈夫かしら?」
雅はそう言いながら星空をじーっと見た。
星空は「大丈夫だよ」と返した。
雅は「大丈夫な顔じゃないわよ」と返した。雅にはお見通しだった。きっと、星空の作り笑顔は一目でそれと分かる程酷いものだったのだろう。
星空は「ごめん。偶には二人っきりの時間が欲しい」と白状した。
「なら、月に1、2回はこうやって二人っきりでお出かけしましょう」
雅はそう提案した。星空は雅の言葉に今度は自然な笑みが浮かぶ。
星空は雅の手を取りながら、「ありがとう。約束ね」と返した。
雅は「もちろんよ」と返す。そして、申し訳なさそうにそっと星空の手から自分の手を抜こうとした。
それに気づいて、星空は「ごめん」と言って雅の手を離した。
雅は頬をすこし紅潮させて「私こそごめんなさい」と謝った。
雅はすぐにアイスコーヒーに口をつけた。苦みの中に僅かな酸味があって口の中がすっきりする。
星空はしばらく手に残る雅のやさしさの余韻に浸っていた。
しばらくして、カフェオレに口をつけた。優しい甘みが口の中いっぱいに広がるようだった。
学校の近くの商店街。アーケードのかかった商店街のメイン通り、その中程店と店の間に一本の小道がある。その小道を奥に進むとステンドグラスをはめ込んだ木製の扉に突き当たる。その先には、時間の流れから隔離されたレトロチックな喫茶店があった。
雅と星空が書店で買い物をしていた頃、二人の少女がその扉を開けて、軽やかな鈴の音を背に喫茶店へと入っていった。
喫茶店の中は手狭だが外見から想像できるよりかは広い。その中を黄色味を帯びた薄暗い照明の光と香ばしいコーヒーの香りが満たしていた。そんな店内にはダークブラウンを基調としたアンティーク調の椅子やテーブルが数組あり、少女たちはその中でも奥の二人席へと向かった。床には装飾として木の板が張っていたため、一歩ごとにギシィィと言う床の軋む心地の良い音がした。
二人が腰を下ろすと、カウンターの奥で新聞を読んでいたマスターが、二人の元へとおしぼりと冷水を持ってきた。マスターは、二人の間正方形の机におしぼりと冷水を置いた。それを待って、二人は一番オーソドックスなブレンドコーヒーを注文した。
マスターは注文を取り終えるとカウンターの奥へと戻った。そして、マッチを擦り、アルコールランプに火をつけた。
マスターが居なくなり二人っきりになると、少女のうちの一人が浮かれ気味に話し始めた。
「闇空さんが私にお声をかけてくださるなんて光栄ですわ」
店内には三人以外誰もいない。そのため、声は良く響き浮かれ加減を増長していた。
少女のうちのもう一人、闇空 覆は冷水に口をつけてから返す。
「私としては暇そうという理由で麗音に声をかけたのだけど……。
喜んでもらえてよかったよ」
闇空は平然とそう言った。言いにくそうなことを言っているような素振りはない。かなり失礼なことを言っているのだが……。
「暇な人ならだれでもよかったのですか?
私は闇空さんが思っているほど暇ではありませんわ」
麗音は少し不機嫌そうに闇空に問い詰める。
「もちろん、友達じゃないとダメだぞ。
ただ、あの二人は練習で今忙しいだろう」
闇空は左手で麗音をなだめるような手ぶりをしながらそう言った。麗音は自分をなだめるように冷水に口をつける。冷たく澄んだ水が喉を透り、気持ちが落ち着く。
「そういうことならいいですわ。
ただ、闇空さん。私本当に忙しい身ですからね。」
麗音はそう言いながら机の下で軽く足を組んだ。
「誘って断られたことがなかったから、暇なのかと思っていたのよ」
闇空はそう弁明した。
「私、これでも音楽家の家系に生まれた身ですから、
将来はピアニストになる運命なのですわ。
それに一族の中でも有数の才能を持ち、周りからも期待されています。
基本毎日レッスンが入っています。当然ですわ」
麗音は豊かな胸を張ってそう言った。
闇空は麗音の自慢に「はいはい」と少し鬱陶しそうに返した。そして、「なら、私はよっぽど運がいいんだな」と言った。
麗音は「運がいいですか?」と疑問を浮かべる。闇空はそれに説明を付け加えた。
「だっていつも練習が入っているのに、私が誘った時には絶対に来てくれるだろ。
都合よく麗音の練習がない日に声をかけているなんて運がいいとしか言いようがないだろ」
「違いますわよ。闇空さんに誘われた日はピアノのレッスンをキャンセルしているんですわ」
麗音はさも当然のことのようにそう答える。闇空は少し戸惑い気味に聞き返した。
「将来プロになるのだろう。そんな軽い理由で練習休んでいいものなのか?」
「軽い理由ではありません。
私の数少ないお友達からのお誘いですよ。
ピアノのレッスンなんかよりも大事に決まっているじゃありませんか」
麗音は身を乗り出しそうな勢いでそう力説した。闇空にはよくわからない。闇空の価値観ではピアノのレッスンの方がはるかに大事なはずだ。学生は……いや人間は……やるべきことがあって、その下ににやりたいことがある。麗音にとってやるべきことはピアノのレッスンのはずだ……。
「なわけないだろ。
何も知らなかったから誘っていたが、私はそんな大事な時間を奪っていたのか。
今度から、麗音を誘うのは自重するよ」
闇空は麗音の答えに反論を唱えるような形でこう言った。麗音は慌てて付け加えた。
「闇空さん。大丈夫ですわ。
ピアノの先生はあれですが……お母様だってレッスン休みたいって言うと喜んでくれますから」
「それは本当に大丈夫なのか?それ母親に嫌われているのじゃないのか?」
麗音は闇空の疑問に少しむきになったように「違いますわ。」と返した。
「お母様は私に友達が居ないことを心配なさっていて、『友達に誘われたから休みたい』って言うと、『麗音ちゃん友達が居てお母さん安心したわ』って言って泣いて喜んでくれるんです。
決して、嫌われてなどいませんわ」
麗音は何故か自信満々にそう言った。自信満々に言っていいようなことではないはずだが……。
闇空は何とも言えない悲しい気持ちになる。闇空は、失礼なことかもしれないが、同情からもっと麗音を積極的に誘ってあげたい気分になった。
「なぁ、麗音。ピアノのレッスンが休みの日は教えてくれないか?
一緒にどこか行こう」
闇空はそう言った。麗音は闇空に同情されていることには一切気づかずに、嬉しそうに「本当にいいんですか」と言った。麗音は予定を確認しようと手帳を開く。そして、苦い顔をした。
麗音のスケジュールは三か月先まで埋まっていた。それに、三か月後の予定はこれから埋まる。
「ごめんなさい。
最低でも三か月先までは予定が入っていますわ」
麗音は悲しげにそう返した。
しばらくするとマスターがコーヒーを運んできた。
闇空は真っ暗なままコーヒーを一口飲んだ。
麗音は黒いコーヒーに付属の白いミルクを入れた。ミルクの白とコーヒーの黒が熱対流で混ざり合っていくのをゆっくりと眺めていた。ある程度混ざり茶色になると口をつける。
「ところで、闇空さん。悩みって何なのですか?」
麗音は気品あふれる所作でコーヒーカップを置きながらそう聞いた。
「悩み?」
闇空はそう言って首を傾げる。麗音は落ち着いた動作でコーヒーをもう一口飲んだ。そして、リラックスしたように背もたれに体重をかける。
「闇空さん。悩みがあるのでしょう。わかりますわよ。
それで、誰でもいいから話を聞いて欲しくて、私を誘ってくれたのでしょ」
麗音は意識的な落ち着いた口調でそう言った。闇空が話しやすいように、少しでも安心感を出そうとしたのだ。麗音は完全に闇空に誘われた目的を勘違いしていた。
闇空は「別にそう言うわけで誘ったわけじゃないぞ」と淡々と麗音の勘違いを否定した。麗音は「それなら、どうして私を誘われたのですか?」と聞いた。まったくわからないと言った顔である。
闇空は「友達と遊びに行く理由って、悩みを聞いてもらうだけじゃないだろ。そもそも、友達と遊びに行くのに目的が必要なのか?」と聞き返す。
麗音は訳が分からないという顔をして黙った。麗音は交友関係がなさ過ぎて、友達と学外で行動を共にするということを大事のように考えていたのだ……。
しかし、麗音は少しの時間考えていると自身の中での解釈を付け加えることが出来た。
「要するに闇空さんは放課後一人でいるのが寂しかったのですね。その気持ちわかりますわ」
麗音は胸の前で指を組んで嬉しそうにそう言った。闇空と共感できることがあって嬉しいのだ。それに自分がいないのを寂しいと思ってくれている……。
そんな麗音に闇空は「ごめん」と謝った。麗音はキョトンとした顔で一瞬固まった。
「私は麗音と遊びに行くのに目的はいらないと思っている。だけど、今日はちゃんと目的があるんだ」
闇空はそう言いながらごまかす様に冷水に口をつけた。
麗音は「そうですか。闇空さんのお役に立てるのは私としても嬉しいことなので気にしないでください」と言って冷水に口をつけた。麗音はコップを置くとスゥと息を吸って、肺の空気を入れ替えた。
「で、その目的とは何なのでしょうか?」
麗音は真剣そうにそう聞いた。闇空は気恥ずかしそうに答え始めた。
「今日、満月に遊びに行かないかと誘われたんだ」
「そうですか」と麗音は相槌を打つ。
「それを断るために友達と遊びに行く予定があると言ってしまったんだ。言ってしまったからにはまっすぐ家に帰ると私が嘘をついたことになるだろ」
「……」と麗音は黙る。頷きもしない。
「だから、こうして誰かと遊びに行く必要ができたんだ。以上」
闇空の回答を聞いた麗音は呆れた様にため息をつく。
「闇空さんは変われないんですね」
麗音は少し残念そうにそう言った。
闇空は反論の余地がなく、顔を隠すようにコーヒーに口をつける。苦い。
「そもそも、嘘を本当にするためだけに私なんかと遊びに行くぐらいなら、
満月さんと一緒に行けばよかったのではないでしょうか?
せっかく満月さんと仲良くなれるチャンスだったわけですし、どうして断ったのですか?」
麗音は呆れが止まらないという風にそう言った。
「最初は満月ともう一人の友達の二人で買い物に行く予定だったんだ。
私はそこに誘われたんだが、もう一人の友達が私のことを不機嫌そうに見ていたから……」
闇空はコーヒーをおいて麗音に答えた。
麗音は「その人が不機嫌そうだったから何なのですか?闇空さん何か失礼なことでもしたのですか?」と聞いた。交友関係の少ない麗音には闇空の言おうとすることがわからなかった。
闇空は「何もしてないよ。ただ、その娘としては満月と二人っきりで遊びたかったのだろう。だから、私が邪魔だったんだよ。だから、今日は引いておこうと……」と説明を付け加えた。
麗音は闇空の言葉の意味が分かった。でも、闇空の行動は理解できなかった。
「闇空さんは満月さんにちゃんと誘われたわけですし、そういうこと気にしないでいいと思いますわ」
麗音は「満月さん」にと言う部分を強調してそう言った。
闇空は「でも、こういう時に引かないと、その友達からの印象が悪くなるだろ」と反論した。
「闇空さんの役目は満月さんと仲良くなることですわ。
満月さんと仲良くなれれば、その友達から嫌われても問題ありませんわ」
「……」
麗音の言葉に闇空は少し考えるように黙った。麗音は畳みかけるように真剣な顔つきで言葉を続けた。
「それに闇空さん。
闇空さんがまた満月さんに誘われたとして、その時その友達はきっと闇空さんのことをよく思わないでしょう。一度引くということは、次も引いてしまうということなんですよ」
「……」
「私はよくピアノのレッスンのために友達の誘いを断って来たんです。
何回か断ると誘ってもらえなくなりますよ」
麗音の言葉は闇空を困らせた。交友関係の希薄な麗音の言葉なのに。いや、交友関係の希薄な麗音の言葉だからこそ。
「……」
闇空は頭を抱えるように黙ってしまった。そんな闇空に麗音はこれを最後にと言いたいことを言った。
「後、闇空さん。
私の想う星空さんは、闇空さんが邪魔だからと言うだけの理由で嫌いになったりするような人間ではないですわ。星空さんのことですから、闇空さんが二人に着いて行っても快く受け入れてくれるはずですわ。
だから、次からは誘いに乗ればいいのですわ」
言い終わると話がひと段落したようにコーヒーに口をつけた。
「まぁ、いろいろな言いたいことはありますが、いいですわ。
闇空さんのそのどうしようもない性格のおかげで、私はこうしてお茶ができているのですから。
この話はやめましょう」
麗音はこれ以上闇空を悩ませないようにそう言った。
闇空は安心したように「そうだな」と言った。
「では、話題を変えて尊敬する音楽家の話でもしませんか?」
麗音は名案を思い付いたかのように、今までの重い空気を吹き飛ばすように、胸の前で手をファンッと叩いてそう言った。
闇空は「済まない麗音。私あまり音楽に詳しくないんだ……」と返した。麗音は「そうですか……」と残念そうに言う。それに対し、闇空は「だから、教えてくれないか?」と言った。
麗音は嬉しそうに「分かりましたわ」と返した。そして、少し早口気味に尊敬する音楽家達の話を始めた。
星空とのお茶を終え雅が市駅まで戻ってくると駅の周辺は部活終わりの生徒たちで賑わっていた。
そんな生徒たちに交じって地下の改札口を抜け、一人幅のエスカレーターで二番ホームへと出る。時間帯だけに二番ホームは高校生で賑わっている。雅はあたりを見回しながら二番ホームの奥まで進んだ。
ホームの先頭の方まで来ると雅は「次の電車に乗るわ」という短めのメッセージを送る。すぐに「分かった」という返信が来た。
雅はもう一度あたりを見まわした。そしてホームの電光掲示板を見た。
次の電車が来るまでにはまだ7分ほど時間がある。雅はカバンの中から日本史の参考書を取り出した。
日本史の参考書を見ていると7分という時間はすぐに過ぎ、ホームにオレンジ色の三両編成の電車がやってきた。
電車のドアが開くとホームにいた人の三分の一ぐらいが電車へと乗り込んだ。
雅は座席を確保すると日本史の参考書をまた開いた。電車の中は、ロングシートの座席が埋まり、各車両二十人ほどが立っているような状態だった。乗客の大半は部活終わりの高校生であり、彼らの話し声があちらこちらで聞こえとても賑やかだった。
そんな賑やかさも電車が駅に止まるたびに減っていき、車内はどんどんと静かになっていく。静かになるにしたがって雅は考えたくないことを考えてしまいそうになる。その分日本史の参考書に集中しようとするが、そう上手くは行かない。
そんな中車掌の声が響いた。
「次はK山、K山に止まります。右側のドアが開きます」
雅が日本史の参考書と向かい合っているうちに電車はK山駅近くまで来ていた。
電車がK山駅に着きドアが開く。乗客のほとんどはこの駅までに下車する。
電車の中は各車両ごとに二、三人といった状態になる。特に雅の座っていた一両目は雅一人だけになった。
雅は日本史の参考書を閉じて、顔を上げた。誰もいない向かい側の席の窓には自分の姿が風景に混じって映っていた。無機質で疲れた様な顔をしている……気がした。
ドアが閉まり、電車が動き出した。雅は日本史の参考書をカバンの中へとしまい、膝の上に置いていたカバンを自分の右側へとおいた。
線路の継ぎ目を車輪が越えるガタッ ガタッと言う音に混じって、微かだがタッ タッと言う足音が聞こえてくる。雅が二両目の方を見ると、車内明るい蛍光灯に照らされて一人の少女が歩いてきていた。
左目に眼帯をつけた小柄な少女陽光 欠だ。
欠は揺れる車内でも安定感のある足取りで雅の前まで来た。
そして、当たり前のように、断りさえせずに雅の左に座った。
雅はわざとトーンを一段上げて「待っていてくれたのね」と言った。
欠は嬉しそうに「もちろんよ」と返して、シートの上雅の左手に自身の右手を重ねた。雅は抵抗できなかった。
雅の手は月のように冷たく、欠の手は太陽のように温かい。でも、二人の体温が混じりあうことは決してなかった。
「雅。今日は楽しかった?」
欠は身体を重ね合わせるように雅の顔を覗き込んだ。欠の顔が自身の視界に入り雅はドキッとした。雅は欠から目線だけ逸らす。欠はその目線を追いかけない。
雅は「ごめんなさい。楽しかったわ」と申し訳なさそうに謝った。欠は不思議そうな顔をして「いつも言っているけど謝らなくてもいいのよ」と返した。そして、笑顔になって「雅が楽しいなら私は嬉しい」と言った。
そんな欠の笑顔に、雅は心臓を絞られるような後ろめたさを感じた。欠は本当に嬉しそうだったから……。
雅は欠の笑顔から逃げるように目線を泳がせる。反対側の窓に映った自分と目が合った。色がわからなくても自分の顔色はあまり良くないだろうことが分かる。
「欠は放課後何をしていたのかしら?」
雅は自分の苦しさを誤魔化そうと欠にそう聞いた。
「学校が終わった後は、雅から連絡が来るまで市の図書館で時間を潰していたわ」
「一人でかしら?」
雅は恐る恐るそう聞いた。
「もちろんよ。一人に決まっているでしょ。
私の親友は雅だけなのだから……」
欠は少しずつ右手に力を込めていった。雅の左手の甲に感じる欠の手の感触が強くなっていく。そのたびに心臓を絞り上げる力が強くなっていった。
「欠。高校に入ってからもう一年もたったのよ。
このままでいいの?」
雅は欠の目をしっかりと見て自分に言い聞かせるように言った。
「私は何故か今までずっと一人だったの。一人が好きなわけじゃない。ずっと友達が欲しかった。
でも、どんなに頑張っても誰にも理解してもらえなかった。どんなふうに振舞ってもみんなから疎まれて嫌われてきた。
そして、最後には必ず孤立した。友達を作るのは小学生の時に諦めたの。
何故かそんな私にも雅という親友ができた。私はそれだけで満足だよ」
欠は満面の笑みでそう答えた。それは雅が欠に向けるような作り物の笑顔ではない。本物の笑顔だった。だから、その笑顔は雅を苦しめる。
雅は困ったように欠を見つめた。欠はそんな雅の右頬に左手を当てた。雅の顔の右側を欠の左手が包み込む。
「雅。嫌われ者の私なんかのこと心配してくれているんでしょ。ありがとう」
欠の言葉に雅はなにも返せなかった。雅には顔を歪めることしかできない。
雅は欠を心配しているわけではない。ただ、欠に少しでも幸せになって欲しかった。そうすれば、少しは自分の重荷が下せると思っていたから……。
欠は無自覚にそんな雅を苦しめる。
「私は今のままでも十分幸せだよ。
大好きな親友が学校の人気者で、幸せでいてくれて。
そんな親友と毎朝二人だけの挨拶を交わす。
帰りは電車の中でこうやって二人っきりで過ごす。
休日は偶に二人でお出かけする。
私なんかには贅沢すぎるぐらいだよ……」
欠は雅の右頬から左手を離し、その手で雅の右手を握った。そして、雅の右手を自分の左目へと当てた。
欠の皮膚に雅の右手の青白く冷たい感触が伝わってくる。
雅の右手には、眼帯越しでもわかる眼球のガラス玉のような硬さと丸み、温かい体温が伝わってきた。
雅は今度は無意識に手を離そうと力を入れていた。そんな雅の右手を欠は左手でしっかりと押さえていた。
「雅は私と一緒にいるのは嫌?」
欠はポツリとそうこぼした。
「そんなこと……ないわよ。どうしてそんなことを聞くのかしら?」
雅はそう聞き返した。欠は何も言わずに自身の左手に力を込めた。雅は「そう」と言って右手の力を意識的に抜いて、欠に委ねた。
欠は雅の右手に特に何もしなかった。代わりに雅のことを湿った目で見た。
「それに雅は星空さんや闇空さんといるときに、私といるときよりも自然に笑うでしょ」
欠は今までと違って寂しそうに言った。
雅はドキッとして、黙ってしまった。雅の返事を待つように欠も黙った。
黙って見つめあう二人の間には、車輪が継ぎ目を超える単調な音がひたすら響いた。
しばらくして雅が口を開いた。
「そうかもしれないわね。
星空と一緒にいるととても心地いいのよ」
雅はそう白状した。欠は躊躇いがちに雅の両手を解放した。
雅の両手が欠の両手から解放される。さっきまで欠に押さえつけられた部分が変に涼しく、喪失感を覚える。
「雅も私といるのはやっぱり嫌なのでしょ。明日からは別々に帰ろうか?
そうしたら、雅は私のことを気にせず好きなだけ二人と遊べるでしょ」
欠は目を潤ませながら、口角を上げてそう言った。
雅は欠の右手の上に自分の左手を重ねていた。欠の左手を右手でつかみ自分の頬に当てていた。
欠は戸惑い気味に雅を見た。
「欠、ごめんなさい。星空といるときの方が欠といるときよりも心地いいわ。
でもね、星空とは会わなくても我慢できるけど、欠と会わないと胸が締め付けられて苦しくて死にそうになるの。だから、一緒に帰るぐらいはしたいわ」
雅はそう言いながら、欠の目をしっかりと覗き込んだ。
欠は涙をごまかす様に一度瞬きをして、「ごめんなさい。それなら一緒に帰って欲しい」と返した。
雅は「もちろんよ」と言って自然な笑みを張り付けた。
二人はM山駅で降りると別れの挨拶を交わし別々の方向へと歩き始めた。
寂れた港町の線路沿いの道。
上りと下りで二車線あるが、この時間でさえあまり車が通らない。
街灯の間隔は広く、歩くには問題ないが暗く感じてしまう。
欠は駅の光が見えなくなるほどの場所まで歩くと、ふと空を見上げた。
数多の星々に紛れて何一つ欠けることのない満月が浮かんでいた。
欠は手を伸ばした。届くはずのない満月に。
そして、ため息をついた。
読んでくださりありがとうございます。
面白ければ次回も見ていただければと思います。
次回は5月25~27日の間で投稿する予定です。
以下、次回予告と今回の話の感想を書きます。
[今回の話の感想]
私は純喫茶でお茶をするのが好きです。
すこし薄暗い、アンティーク調を意識した空間の純喫茶で飲むサイフォンコーヒーが好きです。
そんなシーンを書ければと思い、闇空と麗音の会話シーンを書きました。
次回も純喫茶でお茶をするシーンは書こうと思います。
できれば毎回書きたいです。
[次回予告]
次回は中間テスト回です。
勉強があまりできない星空は、補習を回避するために雅と一緒に勉強をします。
星空は無事補習を回避できるのでしょうか?
また、誰かと誰かがデートをします。
お楽しみに!