ハルの素材収集冒険記・序章 出会いの工房
風が、ふわりと頬を撫でた。
その日、空は晴れているのに、妙に冷たい風が吹いていた。
家に帰ると母が、また目が少し見えにくくなったと言った。
「大丈夫よ、きっと疲れているのよ」
そう笑ったけれど、その目は、本当にちゃんと見えているのか分からなかった。
父が人探しに出たまま戻らなくなって、もう半年。
生きているのか、死んでいるのか、それすら分からない。
それでも、母は帰りを信じて、ご飯を三人分用意し続けている。
——その夜だった。
風の音が耳元で囁くように吹き抜け、
まぶたの裏に、見たことのない風景が映った。
冷たい石の床。焼け焦げた空気。
倒れた身体。血の匂い。動かない手。
そして——胸元で、光るポシェット。
“ああ、僕……あのとき、死んだんだ”
7歳のハルの中に、15歳で終えた一つの人生が怒涛のように流れ込んできた。
赤ん坊から始まったこの世界が、やり直しの人生だったことに気づいたのは、そのときだった。
「守れなかった……」
夢の中で呟いたその言葉が、目覚めた後も胸の奥に残っていた。
ハルは静かに立ち上がり、ポシェットをぎゅっと抱きしめた。
それだけは、今も昔も、ずっとそばにあるものだった。
今度こそ、母を守り、父を見つけ出すんだ。
小さな背中に風がそっと寄り添った。
******
町の外れ、林と草地が交わるあたり。
そこは、風がよく通る静かな場所だった。
ハルはしゃがみこみ、落ち葉の間から小さな葉っぱを手のひらに乗せると、風がふわりと揺れて草を撫でた。
「……風紡草。よし」
前世の記憶と風の導きを頼りに、今日も“拾い物”に出かけている。
——前回の人生の記憶が断片的に戻るようになったあの日から、もう三年が経ちハルは十歳になった。
ガルスの「精錬屋」を初めて訪ねたとき、彼はハルをちらりと見ただけで言った。
「子供からは、買い取らねえ。帰れ」
でもハルは、どうしても諦められなかった。
母の薬代が必要だったし、今の自分にできることは、これしかなかった。
このままでは、また——前世と同じことを繰り返してしまう。
次の日も、またその次の日も。
拾った石や草を、小さな手で握りしめて通い続けた。
そしてある日、ハルが差し出した光る欠片を見て、ガルスの眉が動いた。
「……どこで拾った」
「森の南の、風の通る場所です」
ガルスはそれ以上何も言わず、素材を受け取り、三万ルクを渡してくれた。
ハルが受け取ったお金を握りしめたとき、ガルスが低い声でぽつりと呟いた。
「……どうして、こんなことしてんだ」
ハルは少し躊躇いながらも答えた。
「母さんの薬代を……。それに、父さんは、帰ってこないんです」
ガルスは黙って、炉の火を見つめたまましばらく動かなかった。
そして、小さく鼻を鳴らして言った。
「……バカだよな、お前の親父は。心配ばっかりかけやがって」
「でもな、あいつは簡単にくたばるようなヤツじゃねえ。いつか必ず帰ってくる。俺が保証する」
ハルは驚いて顔を上げた。
ガルスはそのまま振り返らず、つぶやくように続けた。
「本当はよ……子どもに、こんな危険な真似はさせたくねぇんだ」
「お前が無理するたび、あのバカ親父の顔が浮かぶんだよ。
だが、お前はただのガキじゃねぇ。アイツ……カイルの息子だ。それに、アイツと同じで、風の通り道を知ってる目をしてる」
そして、一言だけ——
「……その代わり、危険な場所には行くなよ」
それが、最初の取引だった。
今ではもう、ハルが来るとガルスは黙って作業台の一角を空けてくれる。
素材を見て「これは高く売れる」「こっちは魔物素材と混ぜるといい」などと親切に教えてくれる。
ある日、ハルが拾ってきた月影石をじっと見て、ガルスがぼそりと言った。
「……やっぱり、お前、カイルの息子だな。アイツに教わったのか?」
ハルは嬉しそうに笑って、小さく首を振った。
その言葉に、ガルスは何も言わず、作業炉の火を見つめ続けていた。
けれど、ほんの少しだけ、口元が緩んだような気がした。
拾った素材の中でも、風が導いてくれるものは、たしかに価値があることが多い。
ハルは、それを偶然だとは思っていない。
風は、何かを伝えようとしている。
前世でも、今も、ずっと傍にいてくれているような気がしていた。
そんな風に背中を押されながら、今日もまた、小さな足で町を歩く。
いつものように、薬屋に立ち寄ると、見慣れた女店主がハルに声をかけてきた。
「今日は、いつもの薬でいいの?」
「うん。これで足りますか?」
ハルは薬の代金を差し出す。
「お母さん、調子はどう?」
「ゆっくり症状は進んできてるんだ。だけど……まだ、見えてます……」
「そっか。いつも偉いね、ハルくん」
包みをしまい、ハルはポシェットをそっと撫でた。
使い古され、もう擦り切れて、ほつれも目立つようになってきている。
——多分、今世に戻ってこられたのも、このポシェットのおかげだ。
そんな気がしてならない。
これだけは、絶対に失うわけにはいかない。
ハルは空を見上げながら思った。
(……今はまだ、進行を遅らせることしかできないけど。
いつかきっと、治す方法を見つける。
そのためにも……この手を、もっと強くしなきゃ)
次の日もいつものように薬を買い、家に帰る帰り道、ハルはふと足を止めた。
町の一角に、見慣れない店がある。
前回の人生のときには、こんな店はなかったはずだ。
古い木の扉に、温かみのある飾り窓。
入り口には、小さな看板が揺れていた。
——創術屋 ジン工房
(創術屋……?)
聞き慣れない言葉だったけれど、どこか気になる響きだった。
——この店、なんだか不思議な気配がする。
ハルは、かけているポシェットをそっと撫でた。
擦れもほつれも、もう限界に近いのは分かっている。
……もしかしたら、ここなら直せるかもしれない
そんな予感がして、ハルは扉に手をかけた。
チリン、と優しい音を立てて、扉が開く——。
「いらっしゃいませ!」
中から明るい声が響いた瞬間、ハルはびくっと肩をすくめた。
思わず扉の陰に身を引き、そっと中を覗き込む。
店の中は、想像していたよりも広く、木と布の温かみを感じる作業場だった。
作業机の奥にいた若い女性が、こちらを見て微笑んでいる。
その肩に、ふわふわとした……何か、丸いものが乗っていた。
毛糸玉? いや、顔がある……? 不思議な生き物が、こちらをじっと見ている。
(なんだろう……あれ)
ハルは思わず目を見張った。
けれど、その視線には敵意も驚きもなく、ただ——興味と、やわらかい光が宿っていた。
「どうしたの? 入っても大丈夫だよ」
店の女性が、優しい声でそう言った。
その言葉に背中を押されるように、ハルはそっと扉を開けた。
ハルは緊張で喉が詰まるのを感じながら、ゆっくりと中へと足を踏み入れた。
中に入ると、木の香りと少しだけ焦げたような匂いが混じった、不思議な空気が漂っていた。
あたたかい光に包まれた工房の奥では、工具や素材がきちんと並べられていて、どこか懐かしいような居心地の良さがあった。
ハルは足元を見ながら、ゆっくりと歩みを進めた。
胸の前では、いつものようにポシェットを抱きしめている。
擦り切れて、ほつれて、それでも大事に使い続けてきた宝物——自分のすべてだった。
「えっと……ここ……」
緊張で、喉がひりつく。
言葉を出そうとした唇が震え、かすれた声は空気に溶けて消えた。
自分でも、ちゃんと聞こえたかどうかわからない。
それでも、目の前の女性は――にこやかに、しゃがみ込んでくれた。
目線を合わせるために、わざわざ腰を落として。
「こんにちは。ここは『継ぎ屋』っていう工房だよ。何か、困ってることがある?」
その声は、火のそばであたためられた毛布のように、やわらかかった。
(……この人なら、大丈夫かもしれない)
ハルは、胸の前にぎゅっと抱えていたポシェットを、両手でそっと差し出した。
「……これ、直せますか?」
女性は驚くでもなく、急ぐでもなく、ゆっくりとポシェットを受け取った。
その手のひらが触れた瞬間、ハルの肩から何かがすうっと抜け落ちる。
「うん、大事に使ってたんだね。擦り切れてるけど……ちゃんと直せるよ」
その言葉が、まるで呪いを解くみたいに、心の奥をあたためていく。
「……お母さんが、作ってくれたんです。でももう……壊れそうになってて……」
ハルの声は小さかったけれど、それでもツムギは、きちんと頷いた。
「そっか。大事なものなんだね」
ツムギはポシェットをそっと作業台に置いた。
まるで、宝石を扱うみたいな丁寧さで。
「じゃあ、大事に直さなくちゃ。できれば、もっと使いやすくなるように」
そのひとことが、ハルの胸の奥に、静かに染み込んでいった。
(――この人なら、本当に、託せるかもしれない)
作業台のそばで、ツムギがポシェットを調べ始める。
ハルは離れた椅子に座って、それをじっと見守った。
(……使えなくなるのは、困る。失いたくない)
不安がまたせり上がってきて、ハルは思わず問いかけた。
「……直せそうですか?」
ツムギは顔を上げた。
ふわりと微笑むその表情は、まるで“答えなんて決まってる”とでも言いたげで。
「うん、大丈夫。しっかり補強して、もっと丈夫にするから」
その笑顔に、張り詰めていた気持ちがすこしだけほどけた。
涙がこぼれるほどじゃないけれど、ほんのすこし、呼吸がしやすくなった。
「でも……いまお金がなくて。今度もってきてもいいですか?」
ぽつりと落とした言葉に、ツムギは困ったように首をかしげる。
「そっか。もちろんそれでもいいし……お金じゃなくてなにか、代わりになるものあるかな? なんでもいいんだよ」
“なんでもいい”――その一言が、ハルの中のなにかを動かした。
大切にポシェットの中を探って、風紡草の小さな束を取り出す。
その中から、一番綺麗な一枝を、震える手で差し出した。
「……これじゃ、だめですよね?」
ツムギは、目をまるくして受け取った。
撫でるように指をすべらせて、ふっと微笑む。
「ううん。とっても素敵。ありがとう」
少し間をおいて、ハルは小さく名乗った。
「……ハル。ぼく、ハルっていいます」
「ハルくん、ね。かわいい名前
私はツムギ。この工房で、創術屋を目指してるよ」
「そうじゅつや……?」
看板は見ていたが、聞き慣れない言葉に、また首をかしげてしまう。
でも、ツムギがやさしく説明してくれた。
「ものづくりの魔法を使って、ただ直すだけじゃなくて、“想いをつなぐ” 仕事……かな?
まだまだ修行中だけどたまに不思議な変化をすることもあるんだよ!」
「じゃあ、せっかくだし――ハルくんにとって、いちばん大事なポシェットにしよう!」
ツムギがノートとペンを取り出し、笑顔でハルを見た。
「どんなものを拾う?」「壊れやすいのは?」「濡れて困ったことは?」
矢継ぎ早に出てくる質問に、ハルは少しずつ言葉を返していく。
木の実、とげとげの枝、ふわふわの羽、透明な花――
そのたび、ツムギは「なるほどね」と言って、全部ノートに書き留めた。
そしてできあがった設計図を見て、ハルは思わず見入った。
(これ……ほんとに、ぼくだけの……)
「修理には、一週間くらいかな」
ツムギがそう言ったとき、ハルは目を伏せた。
(本当は、離したくない。でも――)
この人なら、ちゃんと返してくれる気がする。
ただ“直して返す”だけじゃなくて、“もっと強くして戻してくれる”気がした。
「……お願いします」
小さく頷きながら、ハルはポシェットをそっと差し出した。
帰り道、ハルの足取りはとても軽かった。
空はすっかり夕暮れで、風が街路のあいだを静かに通り抜けていく。
でもその風が、なんだか今日は心地よく感じられた。
(……ツムギさん、すごかったな)
“想いをつなぐ”って言葉が、ずっと心に残っている。
ポシェットの中身や使い方の話をしている間、
まるで、自分の気持ちごと受け取ってくれたようなあの時間が、嬉しくてたまらなかった。
「ただいま!」
扉を開けると、家の中は夕暮れの明かりに包まれていた。
テーブルのそば、椅子に座っていた母が、ハルの声に気づいて顔を上げる。
「おかえり、ハル。今日も……ありがとね」
視線は少しだけ外れている。
見えづらくなった世界の中で、それでも母は、いつものように穏やかな笑顔を向けてくれた。
「ううん、今日はね——すごくいい日だったんだ!」
ハルはそう言いながら、薬屋でもらった包みを取り出して、母の手にそっと乗せる。
そして、じっと見つめながら話し出した。
「町の中でね、なんだか気になるお店を見つけたんだ。“創術屋”って書いてあって、
前の人生——じゃなくて、昔はなかった場所に……!」
(……危ない)
言いかけて、慌ててごまかす。
母は特に気にした様子もなく、ただ静かに頷いてくれた。
ハルは内心、少しだけ息をついた。
言ってはいけないことは、ちゃんとわかってる。
この人生で、母には“何も知られないまま”でいてほしい。
(今度こそ、守るんだ)
ハルの声はどんどん明るくなっていった。
ツムギさんのこと、ふわふわの相棒ぽて、
ノートに描いてくれた新しいポシェットのアイデア——
そのひとつひとつが、ハルの胸の中で風みたいにやさしく踊っていた。
「……ふふ、なんだか、本当に嬉しそうね」
「うん……楽しかった。すっごく、楽しかったんだ」
心から出たその言葉に、母の表情がゆるんだ。
この数年、ずっと苦しそうな顔ばかりだった息子が、こんなにも生き生きと話すのは、本当に久しぶりだった。
ほんの少し、目元に潤みをにじませながら、優しく微笑む。
ハルは何も言わず、その手を包み込むように握った。
(……きっと大丈夫。今度は、ちゃんと変えられる)
自分だけが知っている過去。
それを抱えたままでも、こうして笑える時間があるなら——
この世界でもう一度、ちゃんと生きていける気がした。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
このお話が、少しでも何かを感じる時間になっていたら嬉しいです。
もしハルのその後や、ツムギたちの日常にも興味を持っていただけたら、同じ世界で綴られている物語『ものづくりの魔法 〜創術屋ツムギ〜』と『僕だけ戦う素材収集冒険記』も、のぞいてみてください。
物語のどこかで、またお会いできますように。
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