セレス編完結
彼は公爵家だが家督を継がない次男だ。私は侯爵家だが後継で婿入りを求める立場。
セレスティアは彼を自分のものにしてもいいかもしれないと考えていた。
(きっと婿入りを望んで私に近づいたのよね?いいわよ、もっと私を夢中にさせてみなさい。)
セレスティアは彼とデートする度に、このように心の中で思いながら、完璧な彼より優位な立場にいるようで優越感に浸っていた。
ーーー
本日は王都の老舗カフェテリアでのデートだった。その日もヴィクターはいつも通り完璧な身のこなしだ。彼の立ち居振る舞いはどこまでも洗練されいる。彼の姿勢、声、そして目線のすべてが、無意識のうちにセレスティアをその支配的な世界に引き込んでいく。そんな彼の傍に立つと、まるで彼に支配されてるような感覚に陥る。
ヴィクターは優雅に彼女を個室へと案内し、セレスティアをソファへ座らせると、すぐに彼女の隣に腰を下ろした。以前よりずっと距離は近く、最近ではこうして肩が触れるぐらい近くに座ることが増えた。触れそうになる肩を気にしつつ、セレスティアはテーブルを見ると美しいスイーツが並べられ、全てが完璧に整えられていた。
「セレスティア」
低く柔らかな声が耳に届いた瞬間、セレスティアは背筋がわずかに震えるのを感じた。ヴィクターの手がそっと彼女の腰を撫でる。
彼の手の温かさがドレス越しに伝わり、胸の奥がざわつく。
ヴィクターはさらに身を寄せ、彼女の耳元に顔を近づけた。彼が愛用しているムスクの香水がふわりと漂う。
「……婚約のこと、もう大丈夫ですか?」
その問いに、セレスティアは軽く微笑んだ。
ヴィクターから婚約破棄のことを話題に出されたのは初めてのことだった。
「何を今さら。それはもう過去のことですわ。今の私にとっては、あの出来事もまた一つの経験にすぎません」
そう言い切ったものの、セレスティアはユージンとエリーナが学院で思った以上に蔑まれることなく過ごし、卒業していったことは少し気になる。そして…彼のことを思い出していた。
ヴィクターはその返答を静かに受け止めながらも、瞳は鋭く彼女を見つめている。
「では今誰の事を思い出していたんです?」
「……誰のことだなんて、どうして貴方がそんなことを」
セレスティアは微笑みを保ちながら、余裕のある声を装って返した。だが、その声にはどこかわずかな緊張が滲んでいた。
ヴィクターはその様子を見逃さなかった。彼の唇にはわずかな笑みが浮かび、声を低く抑えて続ける。
「やはりアルト・ヴァレンシュタイン伯爵令息のことを考えていたのですね」
その言葉に、セレスティアの胸が一瞬ざわついた。アルトの穏やかな瞳、優しい言葉、そして自分から離れていったこと――。思い出は一瞬で頭の中を駆け巡り、彼女の内心をかき乱した。
「……そうだとしたら、何か問題がありますの?」
セレスティアは冷静を装いながらも、目を伏せて視線を逸らした。だが、その表情の硬さを、ヴィクターは見逃さない。
「いいえ、問題などありません。ただ、貴女が彼にまだ思いがあるのか興味があるだけです」
「なぜそのことを?」
扇子を開き、顔を隠すようにしながらそう返すセレスティア。
「…二人でいるところを何度か目撃しましたからね」
「別に、アルト様のことなど今はよろしいではありませんか」
一瞬の沈黙の後、ヴィクターが再び口を開いた。
「分からないのですか?」
彼は少しだけ距離を縮め、ゆっくりと手を伸ばし、セレスティアの顎をそっと持ち上げた。きめの細かい白く輝く肌、金色の髪が輝く。
彼のエメラルドグリーンの瞳は、宝石のように深邃で、セレスティアを捉えて離さない。
「セレスティア…」
セレスティアは、彼の視線の熱を感じ、わずかに顔を赤らめた。
「貴女の瞳に映るのは、私だけがいい」
彼は、セレスティアの耳にキスをするように囁いた。
彼の言葉にセレスティアの胸はざわつく。彼の声が心の奥深くに染み渡るような感覚に、彼女は戸惑いと興奮を隠しきれなかった。
彼の低い声は熱を帯びているようだった。その響きが耳に触れるたびに、まるで体がしびれるような感覚がセレスティアを襲った。
セレスティアは冷静を装いながらも、ヴィクターの視線を避けるように目を伏せる。その視線の奥に潜む真意を探ることを恐れたのだ。だが、彼の手が腰を支えたまま微かに撫でる動作を見逃すことはできない。
「ヴィクター様…」
セレスティアは、かすれた声で彼の名前を呼ぶ。そして、ゆっくりと顔を上げ、彼のエメラルドグリーンの瞳を見つめ返した。
「…貴方の思い、とても嬉しいです。ええ、よろしくてよ。我が家に婿入りしたのでしょう?貴方のような男性なら私の隣にいても見劣りしないもの。ぜひ私を愛して頂戴?」
彼女の言葉を聞き、ヴィクターは深い笑みを浮かべ、ぱっとセレスティアから手を離した。
咄嗟のことにセレスティアはソファに体勢を崩してしまう。
「え……?ヴィクター様?」
彼女がソファに倒れ込みながら彼を見上げると、ヴィクターはいつもより深い笑みを浮かべ、倒れるセレスティアの覆いかぶさってきた。
そして彼女に覆いかぶさったまま顔を近づける。
その行動少し戸惑いながらも、にセレスティアはほんのり頬を染め、彼を受け入れようと目を閉じる。
しかし、いつまでたっても口づけは訪れない。
溜まらず目を開くと、彼は目と鼻の先でこちらを見つめていた。
「はは!お前の傲慢な態度と自己中心的な考え方…ほんっと馬鹿っぽくて最高」
セレスティアは一瞬何を言われたのか理解できなかった。
ヴィクターは、固まる彼女を無視し、彼女の顔を両手で包み込んだ。彼の温かい手のひらに包まれ、真っすぐエメラルドの瞳に至近距離で見つめられる。セレスティアは息をのんだ。
「自分以外全員見下してんだろ?見下すような視線、結構顔に出てるぜ?偉そうな顔して、貴族として全然ダメダメじゃねーか?」
ヴィクターの言葉に、セレスティアはヒヤリとした氷が胸につきさっさったように感じ、体をよじり離れようとする。
しかし、彼の手にがっしりと両手を奪われ動くことができない。
「何をおっしゃって…」
そう言いながら、セレスティアは彼から離れようとするが、グイッと顎を掴まれ、再度、強制的に彼へ顔を向けられる。
「本気で気づいてなかったんだな?お前に対する周囲の評価。その見目は一級品だが、なんせ性格がなあ。その証拠に婚約破棄後、周りから人消えたろ?」
「それは……。」
「元婚約者と平民の学生は静かに過ごしてたからお前は気づかなかったかもしれないが、周りに人はいたぜ?ヴァレンシュタインが孤立するお前に同情し声をかけたのに、自分の事好きだと勘違いするのも滑稽。知ってたか?俺、庭園あたりでよく昼寝してたんだよ。まとわりつく女が面倒な時に逃げてね」
セレスティアは彼の言葉に何も言い返すことはできない。急に態度が変わった彼に思考が追い付かない。それにアルトがただの同情であったなんて考えたくなかった。
「そんな、聞いていたの?」
「ヴァレンシュタインとの会話聞いて、何て思い込みが激しい馬鹿みたいな女なんだって思ったわ。未来の侯爵に手を出すのは面倒に感じたからやめたが、こっちの夜会来てるの見て気が変わったんだよ。思った以上に求婚状も来なかったんだろ。それにここまで家を空けてるとなると、後継からも外さてんじゃねぇのか?」
ヴィクターは、セレスティアの髪を撫でながら、笑顔で話し続けた。
セレスティアは、彼の鋭利な言葉に自然と体が震える。
「ここまで言わないと会話の本質を汲み取れないのは、貴族として致命的だろ」
彼は満面の笑みで言ってくるが、内容は私が貴族として致命的というもの、反論したのにどうしてもショックで声が動かない。
「あー、お前、ほんと可愛いわ。ぐっちゃぐちゃにしたくなる。この冷たいな輝きを放つ銀の髪も、凍りついた湖のような瞳も好きだけど、何より性格が好み。俺が教育するから頑張ろうね?これって所有欲ってやつ?あ、女遊びは沢山してきたけど、こんなに興味持ったことないから浮気はしないと思う。いいよな?セレスティア」
ヴィクターの言葉にセレスティアは震えながら目を閉じ、現実逃避するように彼の胸に顔を押し付けた。
急に檻に閉じ込められたような恐怖を感じる。
これまでの彼女の性格からは理解が追い付かず、体が震えるばかりであった。
その行動を結婚の了承と取った彼は、ソファに倒れたまま私をきつく抱きしめ満足そうにしていた。
彼が何度も髪にキスをしていたような気がするが、私はショックから記憶がぼんやりし、その日は気づいたら親族の家に帰宅していた。
ーーー
その後、セレスティアは彼の言う通り、祖国の王都へ後継として帰ることは無かった。
彼女は状況が落ち着くまでの一時的な滞在だと思っていたが、実際は、父により後継者から外され、隣国の親族の元で静かに暮らせばいいと送り出されていたのだ。つ
まりあの時点で彼女は見限られていた。
セレスティアは気づいていなかったが、隣国で過ごしていた親族の家。あの家の青年が、グレイ侯爵家に養子となり後継となっていた。
ヴィクターがグレイ侯爵へ求婚を願い出ると、彼は即日結婚を了承した。
優秀な親族の青年を養子にもらい、青年と交換のように隣国へ追いやった娘が公爵家次男を捕まえるとは思わなかったのだ。
グレイ侯爵は娘が隣国の公爵家との繋がりを作ったことに満足気だった。
母親のその事に気にも留めず、愛人の元に出かけていた。
父親も母親も愛人がいるのは当たり前、娘の養育は使用人や乳母、執事が行うもの。
家族の愛情は得られなかったが、多くの人に世話をされて育った彼女。一人娘であり比較する対象もいなかったため、自分に対して親が無関心であることに気づかず成長した。
セレスティアが育った家は、実に貴族らしい家だったのだ。
ヴィクターはその後、彼なりに彼女を愛した。
結婚当初はショックから壊れた人形のようになってしまったセレスティアだったが、その後はヴィクターに反抗したり、それに対し彼の「教育」を受けながら数年がたった。
結婚して数年、ふとセレスティアは自分はとても幸せなのかもしれないと感じた。
私に対して厳しいことを言うヴィクターを当時は恨んだし、彼から逃げようにも、逃げる力も場所もなく、修道院に行く勇気もなく絶望したこともあったけど…。どんな時もヴィクターは変わらず彼女に甘い微笑みを向け、共に暮らしていた。
ヴィクターは公爵家次男だが、家族と折り合いが悪いのか、付き合いは表面上の最低限のものだった。
セレスティアとヴィクターの二人は別邸で暮らしていた。
過去の女性関係が華やかだったらしいが、意外にも彼は仕事以外は家で過ごすことが多く、夜会もどうしても参加しないといけないものだけ出席している。
私もそれに合わせて自邸で刺繍を楽しんだりとゆっくり過ごすことが増えた。以前は常に華やかな社交場でどれだけ自分を美しく見せるか、後継として品格を見せるかばかり考え、人の優劣ばかりを気にしていた。でも今はそんなこと必要ないのだ。最初は社交が少ないことで他家から何か思われるのではと考えることもあったが、数年もすればその気持ちは消えた。
そして、時間がゆったりと流れるようになって、過去の自分を静かに振り返るようになった。
ユージンとの婚約破棄、周囲から人がいなくなったこと、アルトと芽生えたと思った恋は思い違いだったこと…。
過去の私は自分のことばかりだったこと反省することもあった。
そしてヴィクターから少しずつ彼について教えてもらった。
妾の子として生まれた彼は、衣食住は困らなかったが、父や正妻、使用人が目の前で嫡子へ愛情をかける場面を見せられて育ったらしい。
それは分かりやすい扱いの差だったとか。
実の母はヴィクターを公爵に渡し、手切れ金をもらって縁は切れている。
幼少期は兄のように愛されたいと思っていたが、物心つく頃にはその心は折れてしまった。
衣食住以外は放置されることも多く、彼はよく家を抜け出し庶民の子供と混ざって遊んでいたらしい。
彼の口調はその影響なのだとその時知った。
初等教育に入った時、想像以上に彼が優秀だったため、より風当たりが厳しくなり、その頃から別邸に一人で暮らしていたとのこと。
彼のことを少しずつ知って、私は自分自身はどうだったのだろうと考えるようになった。
そして、私も両親の愛情を向けられて育ってないことに気づいた。
当時は疑問など感じていなかったが…。
振り返れば結婚して以来、どんな時でも、彼は私のそばにいて、変わらずそばにいてくれる。
彼の言葉は歪んでるけど、浮気をしている様子もないし、毎日ともに寝て、朝も夜も、休日は昼も食事をともにしている。
こんなこと、幼少期でもしたことがない。両親と食事したことなど、お客がいる晩餐のときしか無かった。
それ以外はいつも一人だった。使用人に囲まれていたから気づかなかったけど…、使用人たちも一線引いた態度であった。
彼と私は少しずつお互いに過去を振り返りながら、ぽろりぽろりとお互いにそのことを話し共有する。
彼は「昔のお前ほんと馬鹿だな」と言うけれど、その表情はいつも柔らかい。これが一途な愛なのかもしれない。
結婚して10年。彼との間に子供はいない。彼が言うには、幼少期の食事に毒が入れらることもあったらしく、その影響だろうとのことだった。その時、彼は彼らしくなく「俺のせいで子どもは望めない。ごめんね」と言ってきた。その言葉は、彼らしくないものだった。ヴィクターが、初めて自分のことを責めるような言葉を口にした。セレスティアはその言葉に胸が痛みながらも、彼を責める気にはなれなかった。むしろ、彼の過去に対する痛みと悔しさが伝わってきて、何も言えなかった。
「貴族としては失格かもしれないけど、私はそれでもよかったのかもしれない」と、セレスティアは心の中で呟いた。
子供がいなくても、二人の間に愛情はある。ヴィクターの心の奥に隠された繊細な感情が、セレスティアにはよく分かるようになった。彼の言葉が時折冷たく、鋭いものだったとしても、それが彼の守りたかったものや、痛みから来るものだと理解できるようになっていた。
セレスティアは思った。これまでの自分の人生を振り返ると、家族から愛されなかったことや、無視されてきたこともあったが、今、ここでヴィクターと共に過ごし、彼の支えとなっている自分を感じることができる。それが何よりも幸せだと思った。
子供がいないことが二人の関係を決定づけるわけではない。今のこの静かな日々、共に過ごす時間こそが何よりも大切だと感じる。セレスティアは心の中で、これが本当の幸せなのだと確信した。
ヴィクターが心の奥底で自分をどう思っているのか、完全には理解できない部分もあるかもしれない。それでも、彼と過ごす時間がセレスティアにとって、かけがえのないものだと感じている。
彼は優秀なので、次期宰相候補とも言われているらしいが、どうやらその役職を断るつもりのようだ。貯金もあるし、商人にでもなって二人で世界を旅しようか、なんて言っている。昔のセレスティアだったら、貴族の身分が絶対で、商人なんて考えられなかっただろう。しかし、貴族としてのプライドもすっかり壊れてしまった今では、それも悪くないと思えるようになっていた。
セレスティアが彼との暮らしに幸せを感じているように、ヴィクターもまた同じように感じてくれていることを願う。これからも二人で、静かで平穏な日々を大切にしていこう。セレスティアは心からそう思った。
セレスティア編完結。
今後、アルト編。ユージン編を投稿する予定。