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セレス編②

婚約破棄から翌日。セレスティアは新たな求婚状が次々と届くことを期待していた。だが、実際に届いたのは、名もない下級貴族からのものや、年配の男性からの申し出ばかりだった。

「どういうことかしら?」

手紙を手に取りながら、セレスティアは軽く首をかしげた。 彼女の中で、この状況は理解しがたいものだった。自分ほどの条件を備えた女性が、このような求婚状しか受け取れないはずがない――そう信じていた。


ーーー


婚約破棄騒動から数日が過ぎ、学院内で私の姿を見かけても、誰も声をかけてこなくなった。遠巻きに囁かれる噂話は絶えないけれど、直接的な干渉は減った。

学院の廊下を歩いていると、ユージン様とエリーナが並んで歩いている姿が目に入った。


「……?」

私は思わず足を止め、その様子を観察する。私の予想とは裏腹に彼らはそこまで注目されることもなく静かに過ごしているようだ。

「意外ね……」

婚約破棄の騒動直後は、彼らが好奇の目にさらされる姿を想像していた。誰もが笑い者にし、二人の行動をあれこれ詮索するだろうと思っていたのに。どうやら、学院の生徒たちはすぐに新しい話題を見つけ、彼らを放っておくことにしたらしい。

しかし、私はどうにも気に入らなかった。

「真実の愛、ですって……?」

心の中で彼らの言葉を反芻する。あの場での騒ぎの代償として、何もかも失って苦しむ姿を目にするはずだった。だが、彼らは平民と貴族の間で生じる軋轢にも、世間の冷たい目にも直面していないように見える。むしろ、それが彼らの言う「真実の愛」の力なのだとでも言うのだろうか。

そんなはずはない。あの二人がこれほど簡単に全てを乗り越えることなどあり得ない。


「どこかで無理をしているに違いないわ」

そう自分に言い聞かせる。平穏な表情の裏で、彼らが抱える苦しみや矛盾が隠れているはずだ。そうでなければ、自分が受けたあの屈辱は何だったのだろう。

私は小さく鼻を鳴らし、視線を逸らす。彼らの姿を追うことに何の意味もない。私には私の道があるのだ。

「せいぜい幸せに振る舞うといいわ。そのうち、現実が二人を叩き潰すでしょうから」

そう呟きながら、私は再び歩き始めた。

彼女の心の中には安堵があった。婚約者としての立場から解放されたことで、真にふさわしい相手と巡り合うチャンスが訪れると信じている。

「これからが本番ですわ」

学園時代の美貌と知性、そしてグレイ侯爵家の後継という肩書きは、彼女にとって揺るぎない武器だ。


ーーー


その日、セレスティアは中庭の木陰のベンチに座り、一人静かに本を読んでいた。騒がしいティールームや教室にいるより、ここで静かな時間を過ごす方がずっと良い。しかし、誰にも邪魔されないはずのその時間に、不意に名前を呼ばれた。

「……グレイ嬢?」

顔を上げると、少し離れたところに立っている男がいた。確か、アルト・ヴァレンシュタインという名前だったはず。貴族の中では平凡な家風の伯爵家の嫡男。

彼は背が高く、細身の体にしっかりと筋肉がついている。あたかも余分なものを削ぎ落としたような、引き締まった姿勢だ。その容姿は穏やかな印象を与えるが、どこか凛とした雰囲気も感じさせる。赤い髪が少し風に揺れ、ヘーゼル色の瞳は柔らかな光を湛えている。温かい印象の好青年、という言葉がぴったりの人物だ。


「……あなたは?」

「ああ、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだ。偶然ここを通りかかって」

苦笑いを浮かべながら話すアルト・ヴァレンシュタインの様子に、私は少し眉をひそめた。彼の態度には特に敵意も下心も感じられない。ただの偶然なのだろう。それでも私は冷たい声を返す。

「何の用かしら?」

「いや、本当に偶然。少し散歩してただけなんだ。それにしても……ここ、落ち着いたいい場所だね」

その言葉を聞いても、私は黙って本に目を戻した。無駄な会話に付き合う気はなかったからだ。だが、彼はしばらく立ち去らず、さらに声をかけてきた。

「その本、面白いの?」

「……ええ、まあ。あなたには関係のないことだけれど」

素っ気なく答える私に対し、彼は少しも動じた様子を見せなかった。それどころか、さらりと続けてくる。

「そうだね。関係ないかもしれない。ただ少し気になって声をかけたんだ」

私はわずかに眉を動かした。誰も近づいてこないからこそ、私はここで本を読んでいる。それだけのことを、どうしてこの男はわざわざ話題にするのだろう。


「私がどこで何をしていようと、興味を持たれる覚えはないわ」

「そうだね。でも、君が一人でいるのを見るのは、なんだか少し寂しそうに感じて……」


アルト・ヴァレンシュタインのその言葉私の耳に届いた。それは確かに余計なお世話かもしれなかったけれど無遠慮な一言だ。それとも彼は本当に心配しているのだろうか?

「寂しい? 私が? それが、あなたには関係ないでしょ」

少し厳しく言葉を返したが、彼はそれでも顔を曇らせることなく、静かに続けた。

「いや、君が本当にどう感じているのかはわからない。ただ、もしよかったら……また話してもいいかなと思って。少なくとも、無理に一人でいる必要はないだろう?」

その瞬間、私は少し驚いた。彼の目には特に何の下心も、期待もない。ただ、純粋に私のことを気にかけているような、その姿勢が見えたからだ。赤い髪の一房が風に揺れると、彼の姿がまるで陽光の中で輝いているように見えた。あたたかく、少し優しげに感じるその姿が、どこか私の心に引っかかっていた。

「私が一人でいる理由を、あなたがわかるとは思わないわ」

強く言い返すことなく、私は本を閉じて立ち上がる。そのまま彼に目を向けると、彼は少しだけ頷いた。赤い髪とヘーゼル色の瞳が、どこか優しげに私を見つめている。

「そうだね、君がどうしたいかは君の自由だ。でも、もし気になることがあったら、僕でよければいつでも話してくれて構わないよ」

少しだけ心が温かくなるのを感じた。しかし、それでも私は微笑むことなく、その場を立ち去った。

その言葉は後になっても、どこか私の心の中に残った。彼のように他人を気遣う人間がいることが、ただの偶然だったとしても、少しだけ希望を抱かせてくれたからだ。

けれど、私はやっぱり一人がいい。無理に人と関わることはない。それが、今の私の心の中で一番確かなことだった。


ーーー


ある日の午後、私はまた中庭のベンチで過ごしていた。学園の中でも静かな場所で、誰にも邪魔されずにひとときの静寂を楽しむことができるからだ。最近は誰かと話すことを避け、ひたすら自分の時間を大切にしていた。

足音が近づいてくる。顔を上げると、アルト・ヴァレンシュタインだった。彼の赤い髪は陽光に照らされてほんのり輝き、穏やかなヘーゼル色の瞳が私を見つめていた。彼の身のこなしは優雅で、ただ歩くだけでも目を引くような存在感があった。彼は、いつもと変わらず、少し静かな微笑みを浮かべながら私に向かって歩み寄ってきた。その表情は、どこか温かく、安らげる雰囲気を放っていたが、私はすぐに警戒心を持つ。

「グレイ嬢。ここで読書を?」

彼は一歩、私に近づきながら声をかけてきた。彼は一見、無害で親切そうだ。しかし全く無自覚に思える親切さの裏には、きっと少なからず何か見返りを期待している部分があるのだろう。

「ええ、静かな場所が好きなの」

「そうですか。今日は暖かくて過ごしやすいですね」

彼は静かな微笑みを浮かべながら、一人分の空間を空けて私の横に座る。特に会話を続けるわけでもなく、ただ過ごす。その空気は、決して不自然なものではなかった。むしろ、あまりにも自然すぎて、逆に不安を感じる。

アルト・ヴァレンシュタインの姿は、何気ないようでいてどこか特別なものを感じさせる。背が高く、肩幅も広すぎず狭すぎず、均整の取れた体格がしっかりとした印象を与える。彼の姿勢もまっすぐで、歩き方には無駄な力がなく、流れるように自然だ。まるで何も考えずに歩いているかのような、その穏やかな佇まいが、周囲に安心感を与える。

「ねえ、あなたはどうしていつも、こんなふうに声をかけてくるの?」

ふと気になって、私はその言葉を口にした。アルト・ヴァレンシュタインは私を見て答えた。

「特別な理由はありません。ただ、何となく気になっただけです」

その答えに、私は心の中で冷静に分析を始める。彼が特別な感情を持っていないと言った。でも、彼は無意識にでも、私に何かを期待しているのではないだろうか。この一見何気ない親切さも、後で私に対して何らかの見返りを求めるための布石に過ぎないのでは?

「心配してくれているの?」

「心配というほどではありませんが、何かあったら声をかけてください」


彼はまた穏やかに微笑み、少しだけ距離を取る。無理に踏み込んでくるつもりはないようだ。

「ありがとう。でも、もう少しだけ一人の時間を楽しんでから戻るわ」

「分かりました。無理せず、また何かあればいつでも。それに私のことアルトと呼んでくださって構いませんよ」

アルト・ヴァレンシュタインはそのまま立ち去っていったが、私は彼が去るのを見送った後、しばらくその場で過ごした。彼が本当にただ親切で、何の見返りも期待せずに接しているのか、それとも私に対する何らかの期待を持っているのか、答えはまだ見えてこない。


「アルト、様……」


だけど、何となく胸の奥にひとつ、わずかな期待が芽生えているのを感じていた。


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