よくある婚約破棄の話
貴族学院の午後のティータイム。中庭に並べられたテーブルの一つで、私は紅茶を飲んでいた。
目の前のケーキに集中していたところ、大きな声が響き渡る。
「セレスティア・グレイ! 君との婚約をここに破棄する!」
声の主はユージン・ハイデン侯爵令息、私の婚約者だった男だ。私はゆっくりと顔を上げた。
陽光を受けて銀色に輝く髪がわずかに揺れる。その下で水色の瞳が冷ややかに光を反射し、彼に向けられる。
彼女――つまり私、セレスティア・グレイは、その冷たくも整った容姿で学院中の注目を集める存在だった。だがその美しさゆえか、あるいは態度のせいか、周囲との距離感はどこか隔たりを感じさせるものだった。
「ええっと……何の話でしょうか?」
「私には真実の愛があるんだ! 君との婚約は間違いだった!」
彼の腕にはくすんだ茶髪の少女が絡んでいる。彼女の名前はエリーナ。
平民出身の奨学生だ。
「真実の愛、ですか」
「そうだ!」
「なるほど。ではその真実の愛とやらがどのようにして芽生えたのか、ぜひ教えていただけますか?」
ユージン様は動揺したような表情を浮かべたが、隣のエリーナが彼を助けるように口を開いた。
「ユージン様とは、学院の図書室で出会いました。彼が高貴な生まれでありながら、私のような平民にも親切にしてくださったのです。運命を感じました!」
その瞬間、私の脳裏にはいくつかの疑問が浮かんだ。
ユージン様が図書室にいるところなんて……彼が本を読む姿を想像するだけで笑いが込み上げる。
「なるほど、図書室ですか」
「そ、そうだ! お前には理解できない純粋な愛だ!」
自信満々に答えるユージン様を前に、私は目を細める。
「それで、その『純粋な愛』を育む間、私という婚約者がいる事実はどのように扱われていたのでしょうか?」
「そ、それは……!」
ユージン様が口ごもる間に、私は視線をエリーナに向けた。
「エリーナさん、あなたも彼が婚約者持ちだと知っていたはずですよね?」
「……もちろん存じてます。しかし、私達の間には純粋な愛があるのです…!」
なるほど。ユージン様の言い分とエリーナの境遇を利用した、典型的な浮気劇。
ここまで聞いて、私は紅茶を一口飲み、ため息をついた。
「ユージン様、あなたが誰に心を惹かれようと自由です。ただ、それを正当化するために『真実の愛』や『形式だけの婚約』といった安っぽい言葉を並べるのはやめてください」
「……」
ユージン様は以外にも冷静だった。拳を強く握り締めたまま、感情を抑えようとするかのように僅かに息を吐く。その視線だけは逸らすことなく、真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。
学園のカフェはまばらだが私たち以外の学生がいる。周囲から見ると、このような席で婚約破棄を宣言したユージン様は貴族として失格と映るだろう。視線が冷ややかであることに気付いていないようだ。この場にいる全員が、私たちの会話に注目している。
「婚約者である私を無視して平然と浮気を楽しむなら、せめてそれを正直に認めるくらいの覚悟を持っていただきたいものですね」
冷たい声音とともに放たれる言葉に、周囲の視線が再び集まる。
「君は、俺を責めるのか?」
「はい、責めます。浮気をしておいて被害者ぶるのは見苦しいですよ」
そう言い放ち、二人に視線をやる。ユージン様は黙り込み、エリーナさんは変わらずユージン様の腕に絡み、こちらの様子を伺っている。
一方、セレスティアは優雅にカップを置き、その背筋を真っすぐに伸ばしている。その動き一つ一つが上品で、銀髪が光を受けて柔らかく輝いていた。水色の瞳が冷ややかに彼らを見据えるさまは、場の空気を一層引き締めていた。
「……はぁ。私はこれで失礼します。父に相談し婚約破棄の手続きと賠償を進めます」
その瞬間、周囲のざわめきが大きくなった。多くの生徒が私を支持するような目を向けている。
一方で、ユージン様の顔は蒼白になるかと思いきや、こちらに真っすぐな視線を向けていた。
「承知した。婚約破棄を受け入れてくれて感謝する」
「ユージン様も叱られるのが嫌でしょう?責任を伴う行動を心がけてください」
私は立ち上がり、ユージン様とエリーナに向かって静かに微笑んだ。
「ああ、婚約破棄を受け入れてくれて感謝する」
「……では失礼します」
きっと学院中の生徒に瞬く間にこの騒動は広がるだろう。人前で婚約破棄をしたユージン様とエリーナは「婚約破棄騒動の二人」としてしばらく学院の笑い者になる。
おそらく、彼らはこれから学院生活を送るたびに陰口を叩かれ、好奇の目にさらされ続けることだろう。その様子を想像すると、胸がすく思いがした。
数日後、ユージン様の父が私の家に謝罪文と贈り物を送ってきたことで、この騒動はひとまず表向きには終結した。だが、それで全てが終わったわけではない。
「これからユージン様はどうなるのかしらね」
私は紅茶を飲みながら静かに考える。これから彼はきっと平民として生きていくことになる。貴族として甘やかされてきた彼が、労働の厳しさや生活の苦労に耐えられるのかしら。エリーナもまた、理想とはかけ離れた現実に失望する日はそう遠くないだろう。ふたりの「真実の愛」が試される時が来るのだ。
「せいぜいお幸せに――もっとも、それが長く続くとは思えませんけど」
私はそう小さく呟いてから、テーブルに目を移す。これから私は自分の人生を選び取るのだ。次々と届くであろう求婚状を思い浮かべ、口元に微笑みを浮かべる。
「もっとまともな婚約者が欲しいものですね」
冷たい美しさを宿した水色の瞳が、静かに輝く。ユージン様とエリーナがどうなろうと、私にはもう関係のない話だ。ただ彼らが、その愚かな選択の代償を払う日が来ることを少しだけ願いながら、私は新たな未来に目を向けるのだった。