第五十九話 「狐影の霊戦」
大阪城公園での激闘から二日後。傷が癒える間もなく、東京と大阪の両本部に新たな情報がもたらされた。「天狐」が目撃されたという。霊力を得た最上位の狐妖怪であり、その力は並の妖怪とは比べものにならないほど強大だという。
天狐の目撃情報が集中していたのは、大阪北部の山岳地帯。静かな山中にある神社の跡地に集う妖気が異常に高まっており、放置すれば周辺の街にまで災厄が及ぶ危険があった。
「天狐か……これは手強そうだ」
移動中の車内で、凛が静かに呟いた。彼の手には簡易な地図が広げられ、天狐が現れたとされる場所が赤い丸で示されている。
「神社跡地に結界が張られている可能性が高いわ。私が中心で防御を固めるから、凛さんは攻撃に集中してください」
沙羅が眼鏡を押し上げながら話す。彼女の声にはいつもの冷静さがあったが、その瞳にはわずかな緊張が見て取れた。
「問題ない。俺が天狐の動きを封じる」
凛は短く答えたが、その目は険しく山の方角を見据えていた。
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現場に到着した彼らを迎えたのは、薄暗い霧に覆われた神社跡地だった。かつて栄えていたであろう社殿の残骸が、長い年月の間に崩れ落ち、苔むした石階段や鳥居だけがその歴史を語っている。
「この霧……普通じゃない。周囲の妖気が絡み合ってるわ」
沙羅が月映の楯を手に霧を観察する。その表情は緊張感を帯びているが、同時に彼女の強い意志が感じられた。
「敵はまだ気配を隠している。だが、近くにいるのは間違いない」
凛が影喰いの柄に手を添えながら低く言う。
霧の中から、突然鋭い笑い声が響いた。
「よくここまで来たな、人間どもよ……だが、ここがお前たちの墓場となる」
霧の中から現れたのは、黄金色の毛並みを持つ巨大な狐だった。その姿はまばゆいばかりに神々しく、九本の尾が静かに揺れている。その眼には知性と凶悪さが宿り、彼らを見下ろしているようだった。
「天狐か……なるほど、この威圧感、並じゃないな」
凛が冷静に一歩前へ進み、影喰いを構える。
「お前たちごときが私に挑むとは愚かだ。だが、少しばかり楽しませてもらおう」
天狐がその口元を歪ませると、空気が震えるように霊力が迸り、周囲の霧が渦を巻いた。
「全員、気をつけて!ここからが本番よ!」
沙羅が叫び、月映の楯を高く掲げた。すると、彼女を中心に防御結界が展開され、霧の圧力が少しだけ和らぐ。
天狐は空高く飛び上がり、九本の尾を振るうと、霊力の嵐が放たれた。鋭い刃のような霊気が降り注ぎ、大地をえぐり、瓦礫を巻き上げる。
「凛さん、結界の中へ!」
沙羅が声を張り上げ、月映の楯が眩い光を放つ。彼女の作り出した結界が霊気を弾き、凛を守った。
「防御だけじゃ埒が明かない。俺が攻める」
凛が結界を出ると同時に影喰いを振り抜き、天狐の尾に向かって一閃を放つ。その攻撃は正確だったが、天狐は瞬時に霧を操り、影喰いの斬撃を受け流した。
「ふん、人間ごときの力で私を傷つけられると思うな!」
天狐が吠えると、霧の中から無数の狐火が現れ、凛に向かって飛びかかってきた。
「沙羅、援護を頼む!」
凛が叫ぶと、沙羅は即座に楯を構え、狐火を弾き返した。その隙に凛は天狐の足元へ駆け込み、影喰いを力強く振り下ろす。
影喰いの刃は天狐の足をかすめ、わずかながら黄金の毛並みに傷を与えた。その瞬間、天狐は怒りの声を上げ、大きな尾を振るって反撃に出た。
「やるじゃないか……だが、これで終わりだ!」
天狐の九本の尾が一斉に光を放ち、凛と沙羅を飲み込むように霊力の波を放った。
「絶対に防ぐ!」
沙羅が全力で結界を強化し、天狐の攻撃を受け止める。その光景はまるで巨大な津波を受け止める堤防のようだった。
霊力の波が収まり、息を切らす二人。凛は影喰いにさらなる妖気を注ぎ込み、沙羅は再び結界を展開して周囲を守る。
「凛さん、あと一撃が必要ね。私が天狐の動きを封じるわ」
沙羅が静かに言うと、月映の楯が輝きを増し、天狐の周囲に光の鎖を展開した。
「わかった。全力で仕留める」
凛が一気に距離を詰め、影喰いを振り抜いた。その刃が天狐の中心を捉え、眩い光と共に霧が晴れていく。
「ぐあああっ!」
天狐が咆哮を上げ、霊力が周囲に飛び散った。そしてその巨大な姿がゆっくりと崩れ落ち、消え去っていった。
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夕陽が山々を橙色に染める中、凛と沙羅は静かに山道を下っていた。先ほどの激闘の余韻がまだ体に残るが、霧が晴れ渡った山中は驚くほど静かで、戦いの跡を感じさせない穏やかな空気に包まれていた。
「……結界を張り続けた疲労がじわじわ来るわね」
沙羅が軽くため息をつきながら、手に持った月映の楯を肩に担ぎ直す。眼鏡越しの瞳はまだ鋭いが、その表情には微かな疲れが滲んでいた。
「君の結界がなければ、今ここを歩いているのは君一人か、あるいは誰もいなかっただろう」
凛が前を歩きながら淡々と言う。その声には冷静さの中に感謝の念が含まれていた。
「ふふ、リーダーに褒められると悪くない気分ね。でも、あなたもすごかった。あの一撃で決めた時、私まで背筋がゾクッとしたもの」
沙羅が微笑むと、凛は短く「そうか」とだけ答えた。その表情は相変わらず硬いが、わずかに視線を落としているのは照れ隠しかもしれない。
二人の靴音だけが響く静かな山道で、沙羅がふと立ち止まり、山の上方を振り返った。かつて神社があった場所は、黄金色の霧と共に消えていった天狐の残響をまだ僅かに残しているように思える。
「天狐の霊力、完全に消えたわけじゃないのかもね」
沙羅が呟くと、凛も足を止め、目を細めてその方向を見る。
「いずれまた何かが起きるかもしれない。それに対応するのが俺たちの役目だ」
凛の言葉は簡潔だったが、その中に自らの責務を受け入れる強い意志が込められていた。
沙羅は少し考え込むようにしてから、静かに言った。「……それでも、今日は一つ災厄を防げた。今夜、街は平和でいられる。それだけでも十分よね」
「そうだな」
凛は小さく頷き、再び歩き出した。
山道の途中、凛が不意に立ち止まり、背後にいる沙羅を振り返る。
「沙羅」
彼が名前を呼ぶと、沙羅は少し驚いたように顔を上げた。「何?」
「君の結界はただの防御ではない。俺たちの戦いの要だ。今日の戦いで、それを改めて実感した。……ありがとう。」
その言葉に沙羅は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑みを浮かべた。「凛さんが直接お礼を言うなんて、よほどのことね。でも……ありがとう。私もあなたの背中に守られていた気がするわ」
凛は少し困ったように視線を逸らし、「俺はリーダーとして当然のことをしただけだ」とだけ返した。その言葉には余計な感情は含まれていなかったが、沙羅には彼の不器用な優しさが伝わってきた。
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冬の冷たい風が吹き抜ける山道を下りきる頃、空はすっかり茜色から群青色へと変わり始めていた。街の明かりが遠くに見え、その静かな輝きが二人の疲れた体を少しだけ癒してくれるようだった。
「凛さん、こういう山道を下りるのもハイキングみたいで悪くないわね。普段は戦闘ばかりだから、少しだけ日常に戻れた気がする。」
「確かにな。だが、油断はできない」
凛はそう言いながらも、その歩調は緩やかで、少しリラックスしているようにも見えた。
沙羅が小さく笑いながら続ける。「あなた、本当に真面目よね。でも、そこが頼りになるところかしら」
凛は答えず、ただ前を向いて歩き続けた。その無言の背中に、沙羅は何か安心感のようなものを覚えた。
ようやく山を降りた二人は、待機していた車の前に立ち止まる。冬の冷たい空気が肌を刺すが、その中でもどこか満足した表情を浮かべていた。
「これでまた一歩、災厄を遠ざけられたわね」
沙羅が小さく呟くと、凛が短く「そうだな」と答えた。
車に乗り込む前、沙羅がふと凛に尋ねた。「凛さん、妖怪に対して複雑な感情を持ってるのは知ってる。でも、今日の戦いを通して、少しでもその気持ちに変化はあった?」
凛は短い間を置き、答えた。「……少しだけだが、理解できた気がする。天狐もまた、自らの存在を守ろうとしただけだったのかもしれないとな」
沙羅はその言葉に驚いたように目を見開き、やがて小さな笑みを浮かべた。「その変化、大事にしてね」
凛はそれ以上は何も言わず、静かに車のドアを開けた。エンジン音が夜の静寂を破り、二人を乗せた車は街へと向かって走り出した。




