第四十五話 「裂けた微笑み」
明かりが消えた商店街の路地裏で、女性が一人、自転車を押して歩いていた。街灯の光は頼りなく、足元を照らすだけで周囲の闇を払うには力不足だった。女性は疲れた顔で小さくため息をつき、早く家に帰ろうと急ぎ足になる。
その時、不意に背後から声が聞こえた。
「ねえ、私、きれい?」
女性はぎょっとして振り返った。そこには、マスクをつけた女性が立っていた。長い黒髪が乱れたその姿には、どこか異様な気配が漂っている。だが、背筋が凍るほど恐ろしいのは、その目だった。暗闇の中で不自然に光る瞳が、じっとこちらを見つめている。
「え……ええ、とても……」
思わず答えてしまった女性に、マスクの女は笑うように顔を歪めた。
「これでも?」
その瞬間、マスクが引き裂かれたように外れ、そこに現れたのは耳まで裂けた口だった。鋭い歯が並び、まるで笑いながら獲物を楽しむかのように光る。
女性は悲鳴を上げる間もなくその場に崩れ落ちた。次の瞬間、路地は血の匂いで満たされた。
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「新たな事件発生。現場は東京某所の商店街。目撃情報によると『口裂け女』と思われる存在が一般市民を襲撃している模様だ」
深見夏菜は資料を淡々と読み上げながら、装備を整えていた。双短剣の刃を確認し、麻痺毒を染み込ませる動作は無駄がなく、迅速だった。その背後では、他のメンバーも戦闘準備を進めている。
「単独行動が多いタイプの敵ね。動きが読めない分、厄介だけど……効率よく仕留めるには私が適任かも。」
夏菜はそう呟きながら、凛に視線を送る。リーダーの凛は一瞬考えた後、頷いた。「分かった。夏菜、お前に任せる。ただし、周囲の警戒は怠るな。これだけの被害を出している以上、普通の妖怪ではない。」
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商店街に到着すると、辺りは完全に静寂に包まれていた。夏菜は短剣を構え、周囲を警戒しながら足音を忍ばせる。霧のような妖気が漂い、普通の人間なら一歩踏み込んだだけで気を失いそうな重さが空気に満ちている。
「……やっぱりね、この妖気、尋常じゃない。」
彼女の冷静な声が静寂を切り裂くように響く。タブレットでサポートを行う葵からの情報では、既に4人の一般人が犠牲になっているという。
突然、路地の奥から足音が響いた。その音は不規則で、まるで踊るように近づいてくる。
「来た……」
夏菜が構えを強めた瞬間、路地の奥から現れたのは、裂けた口を持つ女だった。その姿は闇に溶け込みそうなほど不気味で、異常に長い手足が不気味なまでに曲がり、彼女を取り囲むように動く。
「きれい……私、きれい?」
裂けた口が言葉を発する度に、周囲の空気が歪むような感覚に襲われた。夏菜は動揺することなく短剣を構えた。
口裂け女が一瞬で距離を詰めてきた。夏菜はすかさず後方に飛び退きながら、刃を振るう。その動きは通常の人間では追いきれない速度だったが、相手もまた異常な身体能力を持っている。裂けた口が夏菜の顔を目がけて突き出されるが、夏菜は紙一重でそれをかわし、反撃の一撃を繰り出す。
短剣が女の腕をかすめ、麻痺毒がじわじわと効果を発揮し始める。女の動きがわずかに鈍り、その隙を見逃さずに夏菜は再び短剣を振り下ろす。
「効いている……このまま押し切る。」
だが、口裂け女は異常なまでの生命力を見せ、麻痺毒が効いているにも関わらず、再び猛スピードで攻撃を仕掛けてきた。夏菜はその場で後方宙返りを行いながら攻撃を回避する。その動きは人間の限界を超えたものであり、彼女の訓練と身体能力の高さを物語っていた。
口裂け女が最後の力を振り絞り、凶器のように伸びた手で夏菜を襲う。その攻撃を受け流しながら、夏菜は背後に回り込み、毒をさらに染み込ませた短剣で一閃を放つ。
「これで終わりよ。」
短剣が口裂け女の背中を貫き、毒が全身に回る。女は奇声を発しながら崩れ落ち、最後には霧のように消えていった。
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夏菜は呼吸を整えながら短剣を納めた。辺りには静寂が戻り、妖気も霧散していく。彼女は冷静に現場を確認し、一般人の被害状況を確認するために無線で本部に連絡を入れた。
「任務完了。これより被害者の捜索にうつる。」
その声には冷静さの中にもわずかな安堵が含まれていた。彼女の中で、また一つ「守れなかった」という記憶が刻まれる。しかし、彼女はそれを抱えながらも、次の戦いに備える覚悟を決めていた。
深見夏菜の背後で、夜の街灯が静かに揺れ、再び静寂が商店街を包み込んだ。
夏菜が短剣を収めて辺りを確認した後も、霧が完全に消えたわけではなかった。商店街の奥に進むにつれ、どこかにまだ残る気配が彼女の背筋を緊張させる。口裂け女の「本体」は倒したはずだが、この場所にはまだ何かが潜んでいるように感じられた。
「違和感が残る……ただの妖怪じゃないわね。」
夏菜は冷静に状況を分析する。裂けた口の女が異常な生命力を見せた理由、それに霧の不気味さ。彼女は背後に気配を感じつつ、周囲を警戒しながら更なる探索を進めることに決めた。
その時、商店街の入口近くで聞こえたのは、微かな子供の声だった。
「お姉さん……助けて……」
振り返ると、暗闇の中に一人の少女が立っていた。小学校低学年ほどの少女が、震える手で自分を指さしている。だが、その姿には違和感があった。少女の足元からは黒い霧が漂い、彼女の影が路地の壁に不自然に伸びていた。
夏菜は一瞬で構えを取る。「あなた……人間じゃないわね。」
少女の姿をしたその存在は笑うように顔を歪ませ、次の瞬間、裂けた口を露わにした。それは先ほど倒した口裂け女の一部が分裂し、新たな形を取って現れたものであった。
「しつこいわね。」
夏菜は冷静に短剣を引き抜き、再び麻痺毒を塗り直した。少女の姿を保ちながらも、その動きは異様に俊敏で、壁を駆け上がるようにして夏菜の死角から攻撃を仕掛けてくる。
だが、夏菜の動きもまた異常だった。彼女は瞬時に横へ飛び退き、無駄のない動作で一撃をかわす。短剣を振るい、少女の足元に斬り込むことで動きを封じようとする。
「逃がさない。」
夏菜の声には冷徹な決意が込められていた。一撃が少女の足にかすり、麻痺毒がじわじわと効き始める。その動きが鈍る中、少女の姿をした妖怪は再び裂けた口を広げ、奇声を上げた。その声はまるで頭に直接響くような感覚を伴い、周囲の空気を歪ませた。
「これは……幻覚の一種?」
夏菜はその影響を受けまいと冷静さを保つ。彼女の経験と鍛え抜かれた精神力が、妖怪の放つ音の干渉を防いでいた。
少女の形を取った妖怪が最後の攻撃に出る前に、夏菜はその動きを読み切っていた。影の動きがわずかに揺らぐ瞬間、彼女は短剣を投げつけ、真っ直ぐ相手の胸元を狙った。一撃が命中し、少女の姿が霧と共に崩れ落ちる。
だが、その直後、霧の中から現れたのは裂けた口の「本体」に繋がる影の根だった。
「これが正体ね。」
影が最後の力を振り絞り、夏菜を包み込もうと迫る。しかし、彼女の冷静さは揺るがない。短剣を構え直し、影の根元を斬り裂くと、周囲に満ちていた霧が一気に晴れ始めた。
影が完全に消え去る瞬間、夏菜は一瞬だけ手を止め、静かにその場に立ち尽くした。何かの意志が、消えゆく影の中でかすかに感じられたように思えたからだ。
「あなたもただ操られていただけなのかもしれないけど……関係ないわね。」
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商店街に朝日が差し込み、普段の喧騒が戻りつつあった。通行人たちは昨夜の出来事を知らず、何事もなかったかのように歩いている。
夏菜は静かにその場を後にしながら、短剣を確認した。今回の任務もまた、効率的に終えた。だが、その背中には、どこか静かな疲労が漂っている。
「次はもっと面倒な相手が来るかもね……」
そう呟く彼女の表情には微かな笑みが浮かんでいた。冷徹で効率を重視する彼女だが、その心には仲間を守るという強い信念が宿っているのだった。
物語は静かに、新たな闇へと続いていく。




