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東京幻怪録  作者: めくりの
三章

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第四十一話 「猪神の咆哮」

 山道を進む二人の足音が、静寂の中に小さく響いた。薄暗い樹海が周囲を包み込み、日の光さえも木々に阻まれて届かない。霧がゆらゆらと漂い、濃密な空気が二人の肌にまとわりついていた。斎藤義明と椎名真琴は、特務機関からの緊急報告を受け、この山奥へと派遣されていた。


「ここに山の神が出ると?」

真琴が護符を手に、周囲を警戒しながら静かに問いかけた。


「報告によればそうだ。この山一帯で奇妙な現象が起きているらしい。村人が行方不明になり、動物の死骸が山道に散乱していると聞いた」

斎藤は冷静に状況を説明しつつ、肩にかけた特殊ライフルを確認する。その動作には無駄がなく、長年の経験に裏打ちされた職人技が垣間見えた。


真琴は足を止め、護符を取り出して周囲に結界を展開する。霧がその光を嫌うようにわずかに後退したが、完全に消えることはなかった。


「この霧……ただの自然現象じゃありませんね。妖気が混じっています」

彼は結界の強度をさらに高めながら、斎藤に視線を向けた。


斎藤は頷き、遠くを見つめる。「準備を怠るな。何が出てくるかわからんぞ」


二人がさらに進むと、山の奥から低く、腹の底に響くような唸り声が聞こえてきた。その声は周囲の霧を振動させ、空気を震わせる。次第にそれは大地を揺るがす音へと変わり、木々の間から巨大な影が現れた。


その姿は、威厳と恐怖を併せ持つものだった。鋭い牙を持つ巨大な猪――山の神だ。その目は金色に輝き、あらゆるものを見通すような鋭さを持っている。全身には苔と蔦が絡みつき、大地そのものが形を成したかのような荘厳な姿だった。


「……これは普通の妖怪ではない。間違いなく神格を持つ存在だ」

真琴が低く呟き、護符を握りしめる。その言葉には緊張と畏敬の念が込められていた。


猪神は彼らに向かって威嚇の声を上げると、地面を掘り返すようにして前足を力強く踏み鳴らした。その動き一つ一つが大地に影響を与え、二人の足元を不安定にする。


「真琴、結界を広げろ!足元が崩れる!」

斎藤が冷静に指示を飛ばしながら、ライフルを構える。銃口が猪神の頭部を捉えた瞬間、斎藤は妖気を込めた弾丸を撃ち放つ。


弾丸が猪神の頭部に命中すると、光が瞬間的に広がったが、猪神はそれをものともせず突進してきた。大地が震え、木々が次々と倒れる。その力強さに、斎藤も真琴もわずかに後退する。


「通常の攻撃では止まらないか……」

斎藤は冷静に状況を分析し、次の一手を考えた。


真琴は護符を空中に放ち、結界の力をさらに高める。「この神の力は、この山そのものと繋がっています。ただ攻撃するだけでは終わりません。結界でその力を封じないと!」


猪神が再び突進してくる中、真琴は地面に術具を置き、複雑な呪文を唱え始めた。その声は静かだが力強く、護符が青白い光を放ち始める。猪神の動きがわずかに鈍くなり、その隙を斎藤が見逃すはずもなかった。


「今だ!」

斎藤はライフルに妖気をさらに込め、狙いを定める。彼の射撃は一瞬の迷いもなく、弾丸は猪神の目元へと飛んでいった。命中した瞬間、猪神が激しく咆哮し、周囲の霧が一気に吹き飛ばされた。


猪神の動きが止まり、二人の周囲に静寂が訪れた。しかし、それは勝利の静寂ではなかった。猪神の体から溢れ出した妖気が山全体に広がり始め、空気がさらに重くなる。


「……まだ終わっていないようですね」

真琴が冷静に言い、再び護符を構える。


猪神の目は再び光を取り戻し、その姿が徐々に変化していった。もはや獣の形を留めておらず、霧そのものが一つの意志を持って動き出しているかのようだった。


「奴の本体はこの霧か……なら、徹底的に封じるしかない」

斎藤はライフルを再装填し、狙いを定めた。真琴も結界の力を最大限に引き出し、霧を完全に封じるための準備を進める。


二人の力が合わさり、猪神の霧が次第に収束していく。その瞬間、霧の中から小さな金色の光が現れた。それは、猪神の本質とも言える核であり、この山を守り続けてきた力の源だった。


斎藤がその核に狙いを定め、最後の一撃を放つ。妖気をまとった弾丸が核を貫いた瞬間、猪神の霧は一気に晴れ、山全体が静けさを取り戻した。


「終わったか……」

斎藤がライフルを下ろし、深い息をつく。真琴も結界を解き、崩れ落ちそうな体を支えながら息を整えた。


「山の神を討つのではなく、力を封じただけです。この地が再び平穏を取り戻せるといいのですが」

真琴が静かに呟き、山の奥に向けて一礼する。


斎藤は彼に視線を向け、小さく頷いた。「俺たちにできるのはここまでだ。だが、この山はまた立ち直るだろう。あの猪神がいたようにな」


二人は静かに山を下り始めた。彼らの背後で、静まり返った山が、新たな平穏の中で息を吹き返しているかのようだった。


「真琴、この辺りで少し休もう。戻る前に腹ごしらえをしておかないとな」


真琴は驚いたように斎藤を見た。「この状況で食事ですか?」


斎藤は軽く笑い、肩にかけたライフルを下ろして腰を下ろす。「任務が終わったんだ。少しぐらい贅沢しても罰は当たらん。しかも、こういう自然の中ではジビエが最高にうまい」


真琴は苦笑しながら結界を軽く展開し、周囲の安全を確保する。「では、手早く準備しますか。材料は?」


斎藤は背負っていた荷物から麓の肉屋で購入した小型の鹿肉を取り出した。「任務の前に調達しておいた。お前、料理はできるか?」


「得意ではありませんが、最低限の調理はできます。…それにしても、現場でジビエを持ち込むとは思いませんでした」

真琴は苦笑しつつ、火を起こし始めた。斎藤は木の枝を使って簡単な串を作り、鹿肉を適度な大きさに切り分けて刺していく。


しばらくして、焚火の上で肉がじゅうじゅうと音を立て始めた。

炎に炙られ、肉汁が滴り落ちる香ばしい匂いが辺りに漂う。真琴は串を手に取りながら呟いた。


「意外ですね、斎藤さんがこんな場面で楽しそうにしているなんて」


斎藤は苦笑しつつ、串を回しながら肉の焼け具合を確かめていた。「任務は任務、休息は休息だ。こういう時ぐらい楽しむのも大事だと思うがな。お前も硬くなりすぎず、少し肩の力を抜け」


「そうかもしれませんね」

真琴は柔らかく笑いながら焼けた肉を一口かじった。その瞬間、口いっぱいに広がる旨味に目を見開いた。


「これは……本当においしいですね。香りがまた絶妙です」


「だろう? ジビエはこういう自然の中で食うからこそ最高なんだ」

斎藤も一口かじり、満足そうに頷く。その無骨な顔が少しだけ和らぎ、どこか穏やかな表情を見せていた。


二人は静かな山中で、しばしの平穏を味わった。

焚火の音が心地よく響き、香ばしい肉の香りが漂う中、彼らは次の任務のことを忘れ、ただその瞬間を楽しんだ。真琴はふと視線を上げ、先ほどの激戦を思い返す。


「斎藤さん、あの山の神……完全に消え去ったわけではないんですよね」


斎藤は肉を噛み締めながら頷いた。「ああ。だが、力は封じた。少なくとも、しばらくは平穏が保たれるだろう」


「それが十分ならいいのですが……」

真琴は再び串を手に取り、炎を見つめながら静かに呟いた。


「まあ、今は深く考えるな。戦いは終わったんだ。こういう時こそ腹を満たして次に備えるのが一番だ」

斎藤の言葉に、真琴は軽く微笑んで頷いた。


二人の間に流れる静かな時間は、日常の中では得難いものだった。

山の霧がすっかり晴れ、夜空には星が瞬いている。焚火の明かりが二人の影を揺らし、風が木々を揺らす音が心地よいBGMのように響く。


やがて、満足そうに串を置いた斎藤が静かに立ち上がった。「さあ、行くぞ。山の平穏を取り戻したんだ。俺たちも任務を全うしたんだし、帰って一杯やる時間だな」


「そうですね。今日のジビエも含め、貴重な体験でした」

真琴も荷物をまとめ、焚火を丁寧に消した。


二人は山を後にし、静けさを取り戻した山の中で、それぞれの足音を響かせながら歩いていく。後ろで揺れる星空が、猪神との戦いを終えた彼らを静かに見守っているようだった。

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