第四十話 「在りし日の記憶」
夜の静寂が池を包む中、不気味な霧が立ち込め、冷たい湿気が肌を刺すように感じられる。この池には長年、「主」と呼ばれる存在が潜んでいるという言い伝えがあった。その「池の主」が最近、異常な妖気を放ち、人々を恐怖に陥れているとの報告を受け、本庄麗奈は一人、この場所へ向かっていた。
和風の落ち着いた装いに身を包み、肩より少し長い黒髪を軽くまとめた麗奈は、笏を握りしめ、静かに池を見つめた。その表情には怯えの色はなく、むしろ覚悟を決めた穏やかさが漂っている。
「また、誰かが苦しむ前に終わらせないといけないわね……」
彼女の声は優しくも力強く、霧の中に消えていった。
池の中央から不気味な動きが感じられた。水面が揺れ、大きな波紋が広がる。まるで池そのものが生きているかのように脈動している。突然、水面から何か巨大なものが姿を現した。それはまるで竜のような姿をしていたが、体は泥と苔に覆われ、眼は暗闇の中で赤く輝いている。その口からは黒い煙が漏れ出し、辺りの空気をさらに重苦しくさせた。
「……池の主。長年の妖気が凝り固まった存在……」
麗奈は数珠を手に取り、その場に浄化の祈りを捧げ始めた。数珠が光を帯びると同時に、池を覆う霧が一瞬だけ揺らめき、薄れる。しかし、その光を嘲笑うかのように、池の主は巨大な尾を振り上げ、彼女に向かって水しぶきを伴う攻撃を繰り出してきた。
麗奈は笏を前にかざし、数珠から放たれる光で防御を展開する。その光が盾のように広がり、池の主の攻撃を受け止める。水しぶきが激しく散り、辺りに冷たい風が吹き抜ける。
「この池に囚われたあなたを解放するために来たのよ……どうか、落ち着いて」
彼女の声は静かで、まるで眠る子供をあやすような柔らかさを持っていた。しかし、池の主は彼女の言葉に耳を貸す様子もなく、再び巨大な尾を振り上げ、今度は地面を砕くような衝撃を放つ。
麗奈は素早く後退し、浄化の呪文を唱える。笏から放たれる光が池の主の体に触れると、一瞬だけその動きが止まり、苔や泥に覆われた体から霧のような妖気が剥がれ落ちる。しかし、すぐにその隙を埋めるかのように新たな妖気が集まり、主の体を覆った。
戦いが続く中、麗奈は池全体に漂う妖気を通して、この土地の記憶を感じ取っていた。この池はかつて、地域の人々にとって神聖な場所だった。人々は水を汲み、供え物を捧げ、感謝の祈りを捧げていた。しかし、時代が進むにつれ、人々の信仰は薄れ、池は忘れられた存在となった。そして、その忘却が妖気を生み、池を蝕み、最終的に「池の主」を形作ったのだった。
「あなたはこの地を守ろうとしただけ……でも、今の姿は人々を傷つけるだけ……」
麗奈の声は少しだけ感傷的だった。彼女は笏を再び構え、妖気を静めるために全力を注ぎ始めた。数珠から放たれる光が強くなり、池の周囲に暖かい波動を広げる。その波動は池の水面に届き、まるで長い間張り詰めていた緊張が解けるかのように、水がわずかに静かに揺れる。
池の主は苦しむように身をよじらせながらも、最後の抵抗を見せた。口を大きく開け、その中から黒い光弾を放とうとしている。麗奈はそれを察知し、最後の力を振り絞る。
「どうか、ここに眠る魂が安らぎを得られますように……」
彼女の祈りの声と共に、数珠から放たれる光が一際強く輝き、池の主の放った黒い光弾を包み込んだ。その光は次第に主の体をも覆い、泥や苔に覆われた巨大な体が崩れ始める。やがて、主の体は静かに霧散し、池の水面にはただの静けさだけが戻ってきた。
麗奈は数珠を握りしめながら、穏やかな笑みを浮かべた。「これで、この地も、あなたも救われたはずよ……」
戦いが終わり、池はかつての静けさを取り戻していた。霧も晴れ、月明かりが水面に反射して輝いている。その光景は、まるで何事もなかったかのように穏やかだった。
麗奈は笏と数珠をしまいながら、池のほとりでしばらく佇んだ。彼女の心には安堵と、ほんの少しの寂しさがあった。
「これからは、この池が再び穏やかな場として人々に戻ることを祈るわ」
そう呟いた彼女の声は、夜風に乗って池全体に響いた。
戦いが終わり、池を包んでいた妖気の濃霧は完全に消え去っていた。夜の闇が戻り、池のほとりにはかすかな月光が照らし出している。水面は鏡のように静まり返り、風が揺らす波紋がゆっくりと広がる。
麗奈は静かに息をつき、足元に転がる数枚の苔むした木片を拾い上げた。それは、かつて池の主が人々からの信仰を受け入れていた供物の一部だと思われる。時の流れと共に忘れ去られ、妖気に侵されてしまった象徴だ。
「これがあなたの苦しみの源だったのね……」
彼女は木片をそっと水面に置いた。すると、それは泡のように消え、水中に溶け込むようにして姿を消した。麗奈はその光景をじっと見つめながら、かつての平穏な時代の残響を感じ取るように目を閉じた。
しばらくの後、足音が近づいてきた。振り返ると、特務機関の仲間たちが駆けつけてきた姿があった。リーダーの灰島凛を先頭に、風間亮や相馬葵が息を切らしながら声をかけてくる。
「麗奈さん、大丈夫ですか!?」
葵の声には心配の色が滲んでいる。彼女は駆け寄ると、麗奈の体を確認するように見回した。
「ええ、大丈夫よ。池の主は浄化されたわ。もうここに妖気の影響はない」
その穏やかな声に、仲間たちは一様にほっとした表情を浮かべた。隼人が周囲を見渡しながら言う。
「これだけ静かになったんなら、確かにもう心配なさそうだな……さすが、麗奈さんだ」
麗奈は控えめに微笑みながら答えた。「皆が駆けつけてくれたことも力になったわ。ありがとう」
戦いの後の思索
全員が池のほとりに立ち、静けさに包まれた風景を眺めていた。凛はじっと池の水面を見つめながら言葉を紡ぐ。
「麗奈、あなたがいなければ、この池の主を静めることはできなかっただろう。だが、ここに蓄積された妖気が完全に消えるまでには時間がかかるはずだ」
麗奈は頷き、再び数珠を手に取りながら言った。「そうね。でも、今日を境に、この地の再生が始まるわ。人々がまたここを大切に思い、信仰を取り戻すことができれば、この池もきっと本来の姿を取り戻すはず……」
その言葉に、全員が静かに耳を傾けた。戦闘を経て安堵を覚えながらも、この場所が持つ歴史の重みと、妖気の影響を完全に払拭するための課題が残っていることを、それぞれが心に刻んだ。
夜が更け、再び静寂が訪れる頃、麗奈は池のほとりで最後の祈りを捧げた。笏をそっと水面にかざし、数珠を片手に持ちながら、静かな声で呪文を唱える。その声は柔らかく、まるで池そのものを包み込むような温かさを帯びていた。
「この地に安らぎと平穏が戻りますように。どうか、ここに眠る魂が新たな光を見出せますように……」
祈りの言葉が終わると、池の水面が小さく波立ち、月の光を反射する。その美しい光景に、仲間たちも足を止め、しばらくの間その場に立ち尽くした。
帰路に就く途中、葵がふと麗奈に尋ねた。
「麗奈さんは、どうしてこんなに優しくいられるんですか?妖気や戦いで怖い思いをしているのに……」
麗奈は少し考え込むように目を細め、答えた。「私自身も、かつては恐怖や苦しみの中にいたわ。でも、それを乗り越えるために一つだけ信じてきたの。『どんな闇の中にも、必ず光はある』って」
その言葉に、葵は静かに頷き、心に何かを刻むように前を向いた。仲間たちは再び歩き始める。池の主を浄化し、この地に平穏を取り戻した麗奈と共に、新たな戦いへ向けて一歩を踏み出したのだった。




