第十九話 序章:神代の終焉
それは、千年以上前の話。神々が地上に君臨していた「神代」は既にその輝きを失いかけていた。かつては人間と妖怪が曖昧ながらも共存し、互いに距離を保ちながらも均衡が成り立っていた時代。しかし、神々の力が薄れ、その加護が消え始めた頃から、そのバランスは静かに崩れていった。
最初の兆候は「境界」の歪みだった。人間界と妖怪界の接点、いわゆる「境界」は、二つの世界を隔てる存在として機能していたが、それが消失し、二つの世界が交じり合い始めた。妖怪たちは、より強大な力を得て支配の域を広げるようになり、人間の暮らしを侵食し始めた。
特に小さな村々では、その影響が顕著だった。人間の力だけでは妖怪を押し返せず、日常の中に怪異が入り込み、人々は恐れを抱きながら暮らしていた。しかし、それでも人々は神々の名を口にし、祈りを捧げ、残されたわずかな平穏を保とうとしていた。
静かな村の異変
名も無き小さな集落。森と山に囲まれたその村は、古くから「境界の村」と呼ばれ、霊的な力が強く流れる場所とされていた。人々はこの場所を聖域と信じ、慎ましく暮らしていたが、その均衡も徐々に崩れつつあった。
最初の異変は、森から吹き下ろす風だった。それはいつもより冷たく、重い気配を帯びていた。風の中には不気味な音が混じり、村人たちはその音を「妖怪の囁き」と恐れるようになった。
「森が何かを呼んでいるようだ……」
村の年長者である伊織は、深く沈むような声でそう呟いた。彼は代々、この村の霊的守護を担ってきた術士であり、境界の維持を一手に引き受けていた。しかし、彼の経験と知識をもってしても、この異変の本質を掴むことはできなかった。
森から来た影
その夜、異変は顕在化した。
村の西に位置する大きな森――そこから黒い影が忍び寄ってきた。それははっきりとした形を持たないが、まるで生きているかのように蠢きながら、村へと近づいていた。
「なんだあれは……?」
森の近くで家畜を見ていた若者が、その異常な影を目撃した。次の瞬間、彼の周囲に漂う空気が変わり、耳元で不気味な囁き声が聞こえてきた。それは人間の言葉ではなく、感情だけが伝わってくるようなもので、冷たい憎悪と嘲笑が混ざり合った響きだった。
彼が恐怖に駆られ後退しようとした瞬間、森の中から一枚の黒い羽根がふわりと降りてきた。その羽根は月明かりを吸い込むように漆黒の輝きを放ち、彼の目を捉えて離さなかった。彼が手を伸ばし、それに触れた瞬間――身体が氷のように冷たくなり、意識が闇に沈んでいった。
村全体を覆う黒羽根
翌朝、村人たちは信じられない光景を目の当たりにした。
村の空には、黒い羽根が舞い降りていた。それは風に乗り、静かに村全体を覆うように漂っていた。羽根そのものに触れた者は一様に高熱を発し、苦しみながら倒れていく。
「これは……境界が壊れた証だ」
長老の伊織はその光景を見て確信した。この黒い羽根は、ただの妖怪の仕業ではない。もっと根源的な「何か」が動き出している。彼の祖父の代に伝えられた言い伝えの一節が、彼の脳裏に浮かぶ。
「黒羽根が舞う時、冥府の扉が開く――」
伊織の決断
その夜、伊織は村の若者たちを集めた。集まったのは、村一番の力持ちである大輔、迅速な動きを誇る俊介、そして若いながらも知識を持つ巫女の葉月ら数人。彼らは伊織の言葉に耳を傾けながら、不安げに顔を見合わせていた。
「お前たちに伝えるべきことがある。この村はもう持たぬ」
伊織の言葉に、一同が息を飲む。
「この黒羽根は、境界の崩壊を示している。この村の命運は尽きた。しかし、お前たちが生き残れば、この闇を封じる可能性は残る。村を捨て、旅立て。そして、闇の根源を断つ手立てを見つけるのだ」
「そんな……村を捨てろと?」
大輔が声を荒げるが、伊織は冷静に彼を見つめた。
「村を守りたい気持ちは私も同じだ。だが、これは一村の問題ではない。世界そのものが危機に瀕しているのだ」
その言葉の重さに、若者たちは静まり返る。やがて葉月が立ち上がり、強い眼差しで伊織を見つめた。
「分かりました。私たちが行きます。この村を捨てても、未来を守ります」
旅立ちの夜
翌朝、若者たちは最低限の荷物を背負い、村を後にした。見送りに立つ伊織は、最後まで厳しい表情を崩さなかった。しかし、彼の内心には、彼らの無事を願う気持ちが溢れていた。
「冥府の扉を閉ざせるかどうかは、お前たちにかかっている。どうか……生き延びよ」
振り返らず歩き続ける若者たちの背中が森の向こうへ消えた頃、村の空には再び黒い羽根が舞い始めた。その中心には、一つの漆黒の影が佇み、不気味な低い声で呟く。
「面白い……新たな者たちが、何を成すか見ものだな」
黒羽根の女の姿はまだはっきりとは見えない。しかし、その存在感だけで、村の全てを支配していた。
続く旅と冥府機関の誕生
この夜を境に、若者たちは少しずつ「冥府機関」として歩み始める。影と闇に満ちた世界を彷徨いながら、彼らは運命の歯車を動かしていく――。




