私をジュリエットと呼ぶ、自称ロミオの留学生。(6)
【ロミオ】がモデルのミオ・須藤・ロッソの話。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
・20歳以下の喫煙を匂わせる描写があります。
・弓道、香道、フレグランスの知識はふわふわです。
・作中出てくる商品の名前は架空のものとなっており、
こちらに出てくるロミジュリの映画も、年代を変えております。
日本での生活、しかもホームステイということで、ミオは最初こそ緊張していたが、すぐに慣れていった。それは偏に、朱里のおかげだった。
幼い頃から父親が徹底して日本語で話していてくれたおかげで、喋れなかったにしろ、ミオは彼女が言っている日本語を、そこそこ理解できた。一方、朱里はというと、ミオの言っている英語はまったく理解できていなかった。なので、英単語の書かれた本などを指さして、お互いコミュニケーションをとっていた。
朱里はミオに対してとても優しく、溌剌としていた。相手の喋っている言葉が分からない、となると、臆してしまいそうになるものだが、彼女はそのことをあまり気にしていなかった。なので、日本語でミオにいろんな話をしてきた。お互い単語、単語で、意思確認しながら、分からないなりに遊んでいた。そうした交流が、ミオにとっては新鮮で楽しかった。
彼女の兄は高校受験を控えていて塾が忙しく、帰ってきても部屋に籠りきりだったため、ミオとはあまり交流はなかった。だけれど、朱里とはいろんなところに遊びに行った。図書館や、動物園、時にプールなどへ、だ。なので滞在中の後半は、ミオも多少、日本語で話せるようになっていた。朱里は、というと、やっぱり英語はうまく喋れなかったのだが。
ミオにとって、日本で過ごしたこの夏は、人生の中で一番素晴らしい時だと言えた。彼は本来やや引っ込み思案であり、テレビゲームで遊ぶよりも、本や映画を見ながら1人で物思いにふけるのが好きだった。なので、友達はいたにしろ、あまり遊ぶ、ということをしてこなかった。
そんなミオにとって、朱里とこの日本という国は、本や映画の世界よりもずっと刺激的で魅力的だった。特に朱里に隣で微笑まれると、彼はその度にとても幸せな気持ちになった。いつしかミオは、このままここで暮らしたい、とさえ思うようになっていった。朱里と離れることが、嫌だった。
帰国が近くなると逆に夜などは、塞ぎがちになってしまっていた。ミオは日本に来て以来、それまで毎晩見ていた母の写真を、1度も見なかった。
そして帰国する日の前日。彼は朝からひどく憂鬱だった。明日になったら、大好きな朱里と離れなければならないと思うと、胸が痛かった。なのでミオはこの気持ちを、彼なりに朱里に伝えようと決心していた。とはいえ、母屋や離れには常に人がいる。そこでずっと気になっていた、敷地内の古い倉庫のことを思い出した。
朱里に、あそこはなにか、と尋ねると、使われていない”蔵”だという。去年その中を整理したから、物は何も残されておらず、鍵も今は掛かっていなかったはずだと言った。
朱里はミオの気持ちを察してか否か、最後にちょっと探検しよう、などと言って、彼の手を引いた。その行動に、ミオは少年心にどきどきした。
蔵の重い扉を開けると、埃だらけだと思っていたその中は、以外にもきれいだった。去年は、そのような状態だったらしい。朱里の言った言葉が分からず、詳しくは理解できなかったが、ここにミュージアムのようなものを作るらしくきれいにしたとのことだった。それでも、蔵の中からは、古い書庫を開いた時のようなすえた匂いがした。
急で長い木枠の階段を上る。上がった先の部屋の天井は低く、ミオの頭がぎりぎり天井についてしまいそうだった。その窓から、敷地が一望できた。その年は、冷夏で、蔵の中は熱いどころか、むしろひんやりとしていた。2階の床の一部は吹き抜け格子となっていて、下の階の様子が見えた。
そこで、ミオと朱里は座りながら、いろんな話をした。日が傾くと少し暗かったので、彼は思わずポケットの中に入れていた母のライターを取り出した。実際蔵の中はなにもなかったのだが、蝋燭などあれば、と思ったからだ。そうすると、そのライターの唐草文様が気に入ったのか朱里が、きれい、と言ってきた。
彼女に誰のものなのか、尋ねられて、ミオは、母さんの、と答えた。そうして、それからぽつぽつと母との思い出を話し始めた。
彼は醜い母の思い出ではなくて、美しい母との思い出だけを語った。朱里はその話を優しく頷きながら聞いていた。ミオはこの時すべて英語で話していたから、きっと何を言っているのかよく分からなかっただろう。それでも真剣に聞いていてくれることが、ミオにとってはとても嬉しかった。そして、彼は最後にこう言った。
『だけど母さんは僕を捨てた。僕が邪魔だったんだ。僕は、いらない子、なんだ』
「必要、ない?」
朱里はその英語だけ、聞き取れたようだった。
「うん。ボク、必要ない。ダレも、必要としてくれない。いならい、コドモだから」
ミオは母が出て行ったあの時からずっと、そう思ってしまっていた。そうした気持ちを、こうして誰かに話すのはこれが初めてだった。
声に出して言うとそれがひどく惨めで、悲しかった。ミオは膝を抱え込んで、うつむいてしまいそうになった。
ふいに、頬に手を添えられた。
見上げると、朱里がにっこりと微笑んでいた。とても美しい笑顔だった。
その灰色の瞳に吸い込まれるような感覚がした。時が完全に止まってしまったようだった。
「ミオ君は、いらない子どもなんかじゃないよ」
朱里はミオに顔を近づけると、ささやくように優しくそう言った。満面の、笑みだった。
「誰も必要じゃなくても、私が必要としてるから。私には一番、ミオ君が必要だよ」
それは、ミオがずっと望んでいた言葉だった。
心の中の氷が、温かさでほろほろと溶けていくようで、涙が一筋、流れては落ちた。
『……本当に?』
思わず、英語でそう尋ねた。
「うん、本当」
彼女は顔を傾けながら、頷いた。
その仕草がかわいくて、愛しくて。
『僕も。僕もジュリだけが必要だよ……!』
英語でそう叫んだ。どうにかなってしまいそうだった。手を添えられた頬が、熱い。
『じゃぁ……僕から、君が必要だって証を示してもいい?』
「うん?」
朱里は言われたことの意味が分からなかったようで、不思議そうな顔をした。その表情がまた愛らしくて。ミオは自身の頬に置かれていた彼女の手を取ると、その手の甲に、そっと口付けを落とした。
すると、朱里は顔を赤くさせた。ふいに、何かが香った気がした。微かな、香りだった。
「シルシというの?ボクも、ジュリが一番必要」
「そう、なの……?」
そうミオに言われて、彼女は大きな瞳を一層のこと見開かせた。その瞳の奥が、きらきらと輝いて見えた。
「うん。だから、ジュリからもシルシ、もらっていい?ボクが必要だって、シルシ」
わがままだ、と思ったけれど、ミオはそう尋ねてみた。すると、朱里は少し驚いた顔をしてから、恥ずかしそうに下を向いてしまった。それから、おずおずと、ミオの手を取った。ミオは朱里が手の甲にキスをしてくれると思っていた。だけど違っていた。
朱里はミオの手を引いたかと思うと、その頬にやさしく口付けた。
その瞬間ミオは、死んでもいいと思った。それぐらいに、幸せだった。
「私には、――ミオだけが必要」
唇を放してそう語りかけた彼女の顔は、ひどく大人びて見えた。
その言葉を聞いて、ミオはそれを永遠の誓いだと思った。