私をジュリエットと呼ぶ、自称ロミオの留学生。(3)
今回は【ロミオ】がモデルのミオ・須藤・ロッソの話。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
・20歳以下の喫煙を匂わせる描写があります。
・弓道、香道、フレグランスの知識はふわふわです。
・作中出てくる商品の名前は架空のものとなっており、
こちらに出てくるロミジュリの映画も、年代を変えております。
ミオが12の時だ。そんな母はそのライターを1つ残して、彼の元を去った。父と離婚して、新しい男と暮らすためだった。
最愛の母が出て行ってからのミオというのは、ひどく落ち込んでいた。眠れない夜などは、起き上がって窓辺に座ると、皮のカードケースに入れた母の写真を見ていた。時に残していったライターを意味もなく付けて、その火を眺めるなどした。母に捨てられた、と思っていた。
父はそんな彼を見かねて、13歳の夏休みに日本へのバカンスを提案した。曰く、イギリスの大手香料メーカーの研究員だった父が、香料開発の視察のため、日本へ1ヵ月ほど滞在することになったからだ。
ミオはこの提案を最初、渋った。父は育ちはイギリスだが、両親はどちらも日本人だったので、日本語は堪能だ。ミオの父と母は、ミオに対しては、それぞれの母語以外話さないことを、徹底していた。父とミオの会話は日本語、母とミオの会話はイタリア語、夫婦と3人での会話は英語、というように、だ。なので、ミオは3カ国語を習得していたわけではあるが、よく会話をしていた母とは違い、仕事で忙しかった父とはそこまで会話はなかった。なので、日本語に関しては、聞き取れるがうまく喋れなかった。それに、最近では父に対する反抗心もあり、日本語の問いかけにはすべて英語で返していた。聞けば、日本で滞在するのは、父の学生時代の親友の家だという。丁度、ミオと同じぐらいの兄妹がいるらしい。それを聞いて、ミオはげんなりした。父と2人でならまだしも、あまり日本語が喋れない状態で、日本人の家庭に飛び込む、というのは、彼には勇気がいった。とはいえ、父が滞在中、祖父母の家にいるのも退屈してしまうので、彼は日本へ行くことにした。
後にではあるが、ミオは父のこの提案に感謝することになる。それだけではなくて、自分に対してずっと日本語を話しかけてくれていたことも、だ。なぜなら、そこで彼は運命の人に出会った。
ミオにとっては、初めての外国となる日本は、着いた時からなにもかもが刺激的だった。聞きなれているようで聞きなれない言葉であったり、いろんな形の文字の看板であったり、ミオからすると行き交う均一な人々であったり。空港についてからタクシーに乗ると、滞在する父の親友の家に向かった。
着いたのは、古い門の前。その門をくぐると、竹林が続いており、ミオは本の世界へ迷い込んだような気分になった。さらに、その奥に門がありその先に行くと、大きな古い屋敷があった。サムライが出てきそうな家だ。すでに日が落ちる時間だった。ミオが呆けたように、その屋敷を見上げていると、玄関から人が出てきた。着物を着た眼鏡の優しそうな男性──、彼が父の親友であるのだろう。そして、その後に出てきた人物を見て、ミオは完全に固まった。
彼女は朱色の着物を着ていた。真ん中の帯は金色で、母のライターと同じ唐草文様が施されていた。とても、美しかった。
艶やかな黒髪は短く、白い肌に薄桃色の唇が浮かんでいた。灰色がかったつぶらな瞳が、こちらをじっと見つめていた。
その美しさは雪のような白鳩が、鴉の群れの中にいるようだ──。ミオは映画の中のロミオの台詞を思い出していた。
あぁジュリエットだ──。そう思うと、自分の鼓動の音が煩くて堪らなくなった。
「ほら、朱里。固まってないで、ミオ君に挨拶しなさい」
「あ、はい」
そう促されると、朱里はおずおずと緊張した面持ちで、ミオのそばにやってきた。彼女があちらからこちらに来る間、なんだかこちらからも駆けだしたいような気持ちになった。
「My name's Julie Eto. Nice meet you」
「ジュリ、エット……」
本当に、ジュリエットだった。
これはただ単に、”栄藤朱里”をファーストネームから言うと、ジュリ・エトーになっただけだ。まったくの偶然なのだが、ミオにはそれさえも運命に感じられた。
「ボク、ミオです。ヨロシク……ジュリエット」
そう、日本語でミオは答えた。本当は、ロミオと名乗りたかった。
差し出された小さな手を取ると、映画のように、キスしてしまいそうになるのを、ぐっと我慢した。
あぁ、僕だけのじゅり、ジュリ、ジュリエット──。
この瞬間彼は、栄藤朱里に恋をした。