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優しいけれど、過保護な兄(上)

今回はジュリエットの兄、【ディボルト】がモデルの栄藤琉斗(るいと)の話。兄さんのヒロインに対するクソデカ感情が大きすぎて、上下に分けました。

イメージビジュアル(AI生成)、

およびここまでの相関図あり(微ネタバレ)。

ちょっとややこしいので図解で見て頂けると分かりやすいかと。


3話まで、それぞれの自己紹介的に話しが進みます。4話からは、基本ヒロイン視点となる予定。


この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

20歳以下の喫煙を匂わせる描写があります。

弓道、香道の知識はふわふわです。

 紀平琉斗(きはらるいと)が5歳の時の話だ。琉斗は煙突からもくもくと上がる煙を、泣き腫らした顔で見上げていた。数日前まで、自分を優しく抱きしめてくれていた存在が、煙となって何処かへ行ってしまうなんて、5歳の頭でも心でも到底理解はできなかった。

 琉斗、大丈夫よ──。

 琉斗は手を握られていた。その手は母によく似ていたが、とても冷たかった。母に似た声音で、女は言った。

 今日から、私が貴方の”お母さん“──。

 そう言って彼の顔を覗き込んで、嬉しそうに笑った女の顔は、母には似ているようで、似ていなかった。琉斗は、また泣き出してしまいそうだった。顔をひしゃげて俯く。心の中のお絵かき帳を、黒いクレヨンでぐるぐると塗りつぶしてしまいそうだった。

 その時ふと、琉斗の手が、止まった。その頭を、小さく温かな手が撫でてくれたからだ。顔を上げると、妹が、あどけなく微笑んでいた。

 琉斗は誰かから黒いクレヨンの代わりに、赤いクレヨンを手渡された気がした。

 ページが、捲られる。

 白い紙に戸惑いを感じながら、1本、赤い線を描く。

 悲しさでなく、別の感情で涙が出た。

 これが栄藤琉斗(えとうるいと)が覚えている中で、1番昔に泣いた記憶だった。


 優しいけれど、過保護な兄(上)


 江戸時代に、武家流香道から派生した瀧由流。その瀧由流と縁の深い山梨県の絶念寺に、琉斗とその父であり、第9代目家元である栄藤寿雄は訪れていた。今日は絶念寺の本尊のご開帳日で、これに合わせて香道体験を行うためである。

 現段階で瀧由流を継ぐのは、琉斗という事になっている。彼は中学卒業後高専に入学して寮生活を始めて以来、ずっと実家を離れている。24歳の今、平日はシステムエンジニアとして勤めているが、土日は実家に帰って父の指導の元、香道の稽古を続けていた。これは中学時代琉斗が、卒業後は寮に入らせてもらうために、自ら父に誓った事だった。

 10畳の和室には、10人ほどの客と解説役の父が、カタカナのコを描く様に座す。体験なので、今まで香道をやった事のない客がほとんどだ。その多くは女性だった。この香道体験は事前にインターネットで募集された。今日は2回席が設けられているが、即日で予約が埋まった。これは都内ではなく地方で行われるイベントとしては異例のことだ。その理由は、本日の手前を披露する“香元”にある。

 襖が開かれ、琉斗が香道具を乗せた盆を手に、静々と歩んできた。その姿に、声こそ出さなかったが、客の何人かが息を呑むのがわかった。彼は今日、紺色の袴を着ていた。琉斗は180cmまでは行かないが、高身長だ。その体格の良さもさる事ながら、顔も大変な男前である。片方の目にややかかった烏羽色の髪に、きりっと上がった形の良い眉。はっきりとした下三白眼の黒い瞳。幾分か厚めの下唇に、彼特有の耽美さがあった。

「お香をはじめます」

 琉斗が座して挨拶をすると、皆一様に首を垂れた。

 一連の所作をした後、腰元の袱紗を取り出す。

「今日、聞いて頂くのは八重霞と──」

 父は解説を始めた。香道において、香りは嗅ぐものではなく“聞く”ものである。

 聞香炉に盛られた灰の上に、小さな四角いスライドガラスのような“銀葉”を置く。その上に、小指のほんの先ほどの香木を載せる。しばらくすると、香りが立ってきた。彼の筋張った無骨な手によって行われるその所作の細やかさに、父の解説も気もそぞろに、皆見惚れているようだった。本日ここに体験に訪れた客の多くは、琉斗が目当てだった。

 数年前であるが、やはり彼が香元として香道体験を行った時のことである。その時は、百貨店の催事場でデモンストレートのように行われた。その近くを通りすがった客なのだろう。その時の琉斗の写真を、SNSへ投稿した輩がいた。無論、無断でだ。それが、話題となった。それがどう話題となってバズったかは、ご想像にお任せする。そこから、異様な申し込みのされ方をするようになった。実家の母屋で行われている香道教室への稽古希望者も増えた。

 とはいえ、香道というのは中々に高尚な芸道だ。その主役となる香木は、長い年月を経て生まれる自然の産物となる。昔は金の価値と同様と言われていたが、今は香木の方が高い。また、香道は総合芸道と言われ、礼儀作法ではなく、書道、漢詩や源氏物語をはじめとする古典への教養も必要である。

 琉斗は左手の上に香炉を水平に載せて、右手でそれを覆う。親指と人差指の間から香りを聞く。華やかな中に、無情さを思わせるような苦味があった。

 

「前髪、伸びすぎじゃないのか?」

 午前の香席を終え、控室までの渡り廊下歩いていると、前を行く父がそう苦言を呈してきた。琉斗はやや前髪にかかった横髪を耳にかける。

「……ご婦人方には、こういう影のある男の方が寧ろ印象がいいんじゃないですか」

 香席は無論であるが、琉斗は普段、笑うという事をしない。というか、そも愛想がない。ひどく冷めた目をしているのだが、そう言った男ほど何故か、もてるのは世の常なのだろうか。

「お前そういう事を自分で言うかね」

「実際生徒さんは増えたでしょう」

 その言葉に、父は言葉を詰まらせた。実際に、そうである。栄藤家が何で財を成しているか。母の栄藤幸子が経営している線香の製造メーカーである、紀平香堂の収益もさることながら、主たるところは不動産収入だ。栄藤家はかねてより地主であったため、黙ってても金は入ってくる。とはいえ、瀧由流の継承のため、お弟子さんが多いことには越したことはない。それに、香木の価値は今後益々上がる。流派存続にためにも、財源が増えることは、大いに結構である。

「そういう所は秋斗にそっくりだな」

「そうですか?」

「あぁ。そんなようなことケロッと言うとこととか。顔もよく似てるしな。あ、でも朋子さんと結婚してからは、ずっと一筋だったぞ」

「それは、当たり前だと思いますけど」

「まぁそうだな。当たり前、だな」

 父のその言葉に、琉斗は嬉しいということはなく、むしろげんなりとした。

 やはり顔が似ているのか──。

 秋斗とは、栄藤寿雄の実の弟であり、琉斗の実の父である。そう、寿郎と琉斗は実の親子ではなく、叔父甥っ子の関係なのだ。

 では、寿雄の妻の栄藤幸子とは、琉斗は血が繋がっていないのか。結論から言えば、繋がっている。幸子と、琉斗の実の母である紀平朋子は、姉妹である。つまり幸子と琉斗もまた、伯母甥っ子の関係なのだ。これには、やや複雑な事情がある。

 幸子と朋子の実家である紀平家は、大正時代に起こした線香の製造業で財を成した。かねてより付き合いのあった栄藤家と紀平家は、寿雄達の父親同士──、つまり琉斗の祖父達の仲が特に良く、年端もいかない互いの長男長女を許婚とした。

 それが、栄藤家の寿雄と、紀平家の幸子である。そして2人にはそれぞれ、弟と妹がいた。それが栄藤秋斗と紀平朋子だった。

 寿雄と幸子の祝言の1ヶ月前の話だ。弟の秋斗が、妹の朋子を連れ立って、両家の前で頭を下げた。

 朋子さんとの結婚を許してください──、と。実はこの2人は密かに付き合っていた。その時すでに朋子の腹の中には子供がいた。

 紀平家の祖父は最初こそ激昂したが、すぐに悪い話ではない、と思い直した。家業を継がせるつもりだった長男は、自分との折り合いがつかず絶縁状態だ。幸子は栄藤家との約束があるとして、朋子に継がせるしかないわけである。しかし、負い目があった。

 朋子は幼少期より幸子たちと共に暮らしてはいたが、妻との間の子ではなく、愛人との間の子供だった。それに、秋斗は中々に仕事ができる男だとも聞いていた。

 秋斗君が婿養子に入るのであれば、許可しよう──。

 栄藤家の祖父は、自らの息子がしでかしてしまった事なので、紀平家のその許しに感謝し、秋斗と共に頭を下げるよりなかった。

 こうしてその1ヶ月後、2組の婚礼は同日盛大に行われた。そしてそのさらに6ヶ月後、朋子は元気な男の子を産んだ。その男の子は、紀平琉斗と名付けられた。

 

「あ、すまん電話だ。もしもし、おぉ!どうだ調子は?」

 寿雄の、父の携帯が鳴った。彼は立ち止まって話しをし始めた。琉斗は池の鯉を見る。餌を投げるフリをすると、ぱくぱくと口を開いて皆集まってきた。その様子に思うところあって、動画をメッセで送った。返事はすぐ返ってきた。画面に“朱里”の文字。それを見ただけで、琉斗の顔が自然に綻んだ。琉斗には4つ年下の妹がいる。

 何不自由なく明るく育っていた琉斗が影を抱えて生きるようになったのは、彼が5歳の時だ。琉斗の両親である秋斗と朋子が、交通事故で2人して亡くなってしまった。

 当時、紀平家の祖父は既に他界しており、琉斗は寿雄と幸子の養子となった。そして彼には妹ができた。それが当時1歳だった栄藤朱里だ。

 新しく父と母の代わりとなった2人は優しかった。優しかったが、この栄藤家、というのが異様だった。

 まず栄藤家には、稽古なども行う日本家屋の母屋と、寿雄と幸子が結婚した当初に建てられた一般住宅の離れがあった。ちなみに琉斗が栄藤家に連れてこられた時、栄藤家の祖父は施設に入っており、祖母はすでに他界していた。基本、朝食と夕食は離れで家族一緒にとる。けれど寿雄は母屋で生活をし、幸子と琉斗と朱里は、離れで暮らしていた。寿雄と幸子は家庭内別居していた。

 幸子は独身時代から家業である紀平香堂の経営に関わっていたが、結婚後も本人たっての希望で仕事を続けていた。代表取締役であった秋斗が亡くなってからは、代わりに幸子がその役を継いだので忙しく、家を空けることが多かった。幼い琉斗や朱里の世話は、住み込みのベビーシッター兼家政婦が行っていた。

 いつも両親の間で眠っていた琉斗にとって、夜1人で見上げる部屋の天井というのは悲しいものだった。それを見かねて、家政婦が朱里を連れて琉斗の部屋にやってきて、枕元で絵本を読んでくれる時があった。朱里は連れてこられた時は、むすっとした顔をしているが、琉斗を見た瞬間笑顔になり、同じ布団に横になった。“るいにぃ”と微笑まれてぎゅっと朱里に抱きしめられると、温かくて心地が良く、琉斗はよく眠れた。家政婦が住み込みでなくなった後も、朱里は夜不安になると母の部屋ではなく、琉斗の部屋を訪ねた。彼女が6歳ぐらいになるまでは度々添い寝していた。

 琉斗にとっては可愛くて温かな朱里の存在だけが、この家においての心の支えだった。


 ”ケモナン“という、琉斗からして全く可愛くない謎の生物のアイコン。ちなみに朱里によると、これは北海道限定ケモナンらしい。本当に可愛くはない。

【鯉だ。みんなパクパク。かわいい。でもなんで送ってきたのこれ?】

 その微妙にずれた朱里からのメッセに、琉斗は失笑した。すかさず、携帯を打つ。

【別に。お菓子食べてる時のお前そっくりだったから】

 そう返すと、猿が、ウキー、と叫びながら怒っているスタンプが送られてきた。むくれる朱里の顔が、容易に想像できた。

【今お父さんと旅行中なんでしょ。いいな、牛タン】

 その一言に、少し眉をひそめる。

 ちなみに琉斗は父とは度々こうして遠出しているが、琉斗と朱里が2人揃っては行ったことがなかった。

【出張な。牛タンってなんだ】

【あれ、宮城県じゃなかったっけ今日】

【違う、山梨】

【いいな……梨】

【すぐに名物思い浮かばなかったんだろ】

【そんな事ない。いいな、甲州牛】

【いきなりマニアック。ほんと、肉好きだな】

 そう、朱里はその見た目に反して肉が好きで、しかもよく食べる。

 去年8月の朱里の誕生日に焼肉屋に連れて行った時の話だ。どちらかといえば細身の朱里が思ったより食べたので、食べ放題の方が良かったか、と財布の中身を見ながらつぶやいたぐらいだ。

 本当、よく食べるな──。と琉斗が呆れたように言うと、肉を頬に頬張りながら、弓道部は体育会系だから、と朱里は分かるようで分からない説明をした。

「腕、触ってみて。こう見えて私、人よりちょっと重い弓引いてるんだよ?」

 そう言って、朱里は卓に乗り出して二の腕を差し出してきた。琉斗の顔が、強張る。

 熱いから、早くして──。朱里の腕の下で、肉がじゅうじゅうと焼けていた。琉斗は目を逸らしながらその二の腕をそっと掴んだ。

 引き締まっているが、硬くはない。

 むしろ、柔らかかった。

「どう?」

 そう朱里が目を輝かせながら聞いてきた。その問いに、琉斗は眉間を揉みながらため息をついた。

「……もっと鍛えろ」

「えー。結構鍛えてるけどな?」

 彼女は腕を曲げて力瘤を作ってみせた。

 余談だが、琉斗はこの時の感触が3日間消えず、文字通り悪夢を見た。

「……まさか、他の男にもそう言って触らせたりしてないよな?」

 そんなような事を危惧して、目が吊り上がる。

「ううん。あ、でもこの間の合宿の時、触らせてはもらったな」

「はぁ?」

 思わず、持っていた割り箸が1本落ちた。

「うん、みんな酔ってたから。男子部員の中で1番誰の上腕二頭筋が凄いか言い争いになって。女子部員全員に決めてもらおうって。で、結局主将が優勝だった。やっぱり18kg引いてる人は違うね」

「お前な……」

「あ、はるき君も、比較的軽いの引いてるのに凄かった。やっぱりインターハイ3連覇はすごいな、って」

 朱里は白飯を食べながら、うんうん頷いた。琉斗はひどくつまらない顔をした。“はるき”とは、この頃会うと朱里が口にする名前だ。

 学生弓道界のエース、針ケ谷晴樹。朱里の試合を見に行った際、否が応でも見かけたので琉斗も知っている。確かに驚異的な的中率だった。それ以上に、奴はよく朱里のことを見ていたので覚えている。

 琉斗の従兄妹だから、という事もないが、はっきり言って朱里は美少女だ。他校の男子生徒からちらりと横目で見られる、なんて事はざらにあった。それを睨みつけて牽制してきた琉斗だからわかる。

 晴樹の朱里を見る目というのは、異様だった。

 そいつが同じ大学の、しかも同じ学部に入ってきた、と朱里が嬉しそうに言った時、舌打ちしたかった。絶対、妹が狙いだ。

 血が繋がってないからって、朱里に気安く近づくんじゃねぇ──。心底そう思う。

「気のない男に触んなよ」

「でも皆触ってたし」

「でも、じゃない。次からやめろ」

「だって私だけ触らなかったら、ノリ悪くなっちゃうじゃん。……琉兄、ほんと口煩い」

「あぁ?当たり前だろ」

「お父さんに合宿のこと聞かれたから、話したら笑ってたよ?……それに、お母さんも帰ってきてたからその時。早く彼氏作りなさい、って言われたし。……そんな気ないけど」

 あの女、余計な事を──。琉斗は1本だけになった割り箸を折った。

「──すみません。箸、1膳もらえますか」

 手を上げて店員を呼び止める。冷静を装ってはいたが、内心腑が煮え繰り返っていた。

 この態度から分かるように、琉斗は朱里のことを溺愛していた。妹、従兄妹として。そして、それ以上に。

 朱里は、知らない。

 琉斗とは実の兄妹ではないことも。

 本当は従兄妹であることも。

 そして他のことも。全て、知らない。


「おぉそうかそうか。良かったなミオ君!」

 思わず、琉斗は父の方を振り返った。父がいきなり大声を出したからではない。ある人物の名、を口にしたからだ。

 冬なのに、冷たい汗が背を伝った。

「あぁ、その件は大丈夫だ。また決まったら詳細は、あぁ。メールで。うん、それじゃぁまた」

 父は上機嫌で、電話を切った。

「琉斗、お前ミオ君覚えているか?ほら、10年前だったか。うちで夏の間ホームステイしてたろ?」

「忘れる……わけないじゃないですか」

 あぁ、やっぱりあいつのことだった──。明るく言う父に反して、琉斗の顔は影を落としていた。

「そうか。うん、来週の金曜日、なにか用事あるか?」

「金曜?……確か、なかったかな」

「うん、久しぶりに家でみんなで食事しよう。話がある。確か、幸子もその日帰ってくるはずだ。朱里にも伝えておくな。松江さんに何用意してもらうかな」

 松江さんとは、栄藤家の家政婦の事だ。

「……すき焼きがいいと思いますよ。この間朱里に奢れってせがまれた」

「そうか、じゃぁそうしよう」

 そう答えながら、琉斗は再び池を見つめた。廊下に落ちていた小石を投げ入れる。池の鯉が一斉に餌でもないそれを奪い合っていた。その様がひどく醜いな、と思う。心が、とても重くなるのを感じた。


 迎えた約束の金曜日。朝から琉斗は憂鬱だった。シャワーを浴びて出ると、2週間前に知り合った女がすでに着替えと化粧を終えて携帯を見ていた。

 この状況で何の説得力もないが、琉斗はこれまで付き合ったことが無い。好きだと言ったこともなければ、付き合ってほしいと言われて頷いたこともない。ただ、目が合って何の気無しに微笑んだら、相手から言い寄られて、それを拒まなかっただけである。ひどい男だが、寄ってくるのも大概ひどい女だった。ただ、そういう関係になる前に、必ず確認することがあった。

 その女の、片手に握られていた物を見て、琉斗は眉をひそめる。

「おい。煙草は吸わない、って言ってたよな」

 ──それは、煙草を吸ってるか、否か。

 琉斗は女の名前が何だったかひどく曖昧だったので、そう呼びかけた。女は悪びれずに笑った。

「うん。これ、電子だから」

 琉斗はため息をつくと、女のバッグを掴んで玄関の外に投げた。女は血相をかいて外に出ると、何すんの、と叫んだ。

 彼はひどく冷たい顔をした。

 「俺、煙草吸ってる女と嘘つきは嫌いだから」

 そう言って扉を閉めて鍵をかけた。戸を叩く音とチャイムが何度か聞こえ、最後にそれを蹴る大きな音がした後、靴音が遠ざかっていった。再びため息をつくと、濡れ髪のままベッドに横になった。

 秋斗さん──。

 嫌な記憶が呼び起こされて、思わず目を強くつぶる。

 電子であれ何であれ、琉斗は煙草が嫌いだった。もっと正確に言えば、煙草を吸っている女を憎んでいた。

 元々、琉斗は伯母である幸子の事が好きだった。自分に会うといつもおもちゃを買ってくれたし、かわいいと頭を撫でて甘やかしてくれた。けれど、そんな叔母が“母”になってから、琉斗は幸子の事を嫌いになっていった。

 幸子は基本優しかったし、むしろ実の娘である朱里以上に琉斗を溺愛していた。

 ただ、言い間違えたり、幼な心の反抗心で彼が“お母さん”ではなく“おばさん”と呼んだ時は、豹変した。

 “何でお母さんと呼ばないの”、と激昂した後に、さめざめと泣くのだ。琉斗はそんな彼女の様子に、幼くも引いた。反抗して頑なに呼ばない事もあったが、埒が開かないので、6歳にして、諦める、という事を彼は学んだ。

 “お母さんごめんね”と、仕方がなく呼びかける。

 “ううんいいのよ”と、すると幸子は笑顔になって、決まって彼の頬にキスをする。朱里に対しては頭は撫でたりはすれど、そんな事は決してしないのに。その生暖かい感触に、毎度悪寒がした。たけれど耐えるしかなかった。拒めば“母”はまた泣く。それがひどく面倒くさかった。この頃から、琉斗はあまり笑わなくなった。

 それでも、彼は朱里といる時だけは、心の底から安らいでいた。一緒に絵を描いたり、本を読んだり、公園で走り回ったり。名前を呼ばれるだけでも、自然と笑うことができた。琉斗の中で、朱里の存在は日増しに大きくなっていった。無意識に閉じて結んだはずの、心のお絵かき帳の紐が、ゆっくりと解かれていくのだった。

 決定的な事が起こったのは、琉斗が13歳の時だった。その年、紀平の祖母、幸子の母が亡くなった。

 祖母の葬儀を終えた日の真夜中、琉斗が喉が渇いて居間に行くと、灯りが付いていた。部屋でしか吸わない幸子が、酒を煽りながら煙草を吸っていた。

 “どうして、みんな、置いてっちゃうの”と、呟きながら、机に突っ伏して母が泣いていた。その頃、反抗期もあり、あまり母とは話さなくなっていた琉斗だが、流石に哀れだった。

 “母さん、風邪ひいちゃうよ”、そう、呼びかけた。その声に幸子は振り向いて琉斗を見ると唖然とした顔をした。そして、立ち上がっていきなり琉斗の顔を両手で包んだ。琉斗は突然の母の行動に、固まってしまった。そして彼女は笑ってこう呼びかけた。

“秋斗さん……”

 それは琉斗が忘れかけていた、実の父の名前だった。

 そして唇を重ねられた。

 琉斗にとって初めての口付けは、どうしようもなく苦く、臭く、生暖かいものだった。

 気持ち悪い──。

 母の、伯母の、この女の事を、心の底からそう思った。

 琉斗は女の肩を突き飛ばして廊下に出た。過呼吸を起こしそうだった。居間からは、また咽び泣く声が聞こえた。必死で呼吸を整える。すると廊下の先に、朱里がいるのが見えた。

「……琉兄?」

 騒ぎで目を覚ましてしまったのだろう。眠いのか、目を擦った後、灰色がかった大きな瞳で琉斗を見つめる。

 あぁなんてきれいなんだろう──。

 僕の朱里、じゅり、ジュリ──。

 その姿に、琉斗は泣き笑いしそうな顔になった。その顔が先ほどの女の顔と、よく似ていた事に、彼は気づかなかった。その温もりが欲しくて、駆け寄った。朱里を抱きしめようとしたところで、彼女の顔が曇った。

「……なんか、くさい」

 彼女は一言そう言った。

 ──朱里に嫌われた。

 こんなにも、大好きなのに。愛しているのに。

 途轍もなく、絶望的な気分になった。それと同時に、琉斗はずっと心の奥で閉じていたお絵かき帳が、開くのを感じた。

 今度手渡されたのは、赤黒いクレヨンだった。

 そこへぐるぐると、何度も、何度も、円を描いていた。

 手が、止まらなかった。

 そのまま朱里をすり抜けると、琉斗はよたよたと浴室に向かった。

 必死で口を濯ぐ。吐こうと思っても、うまく吐けなかった。

 母という存在に口付けられた事以上に、自分が朱里を異性として好きなのだと、気づいてしまった事に、失望していた。



(下に続く)

以下は、登場人物のイメージビジュアル(AI生成のためあくまでもイメージ)。


ここまでの相関図(微ネタバレ)あり。



挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


ロミジュリのミュージカル見たことがある方だと、もうこの2人の関係性は分かるかなと。原作ではそんなことはないんですが。ミュージカル、どうしてこうも業の深い設定つけちゃったかな(最高)、となりました。


この後に続くミオ君も、中々に重い(ヒロインへのクソデカ感情的に)ので...。

早くみんなで海とか言ってヒロインの水着姿に外国人4コマみたいになる野郎どもの姿を書きたい次第です。


ちなみに、朱里ちゃんに二の腕触られた時の晴樹君、心の底からめっちゃ笑顔でした。

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