【第一部】マグノリアの花の咲く頃に 第一部(第一章ー第三章)& 幕間
お転婆の御守(おもり)
床のほぼ一面に地図と書類が散乱した部屋にローズがいた。
ロバートは、ローズは何をするかわからないから一人にするなと言い残していった。そんなロバートを過保護だとエドガーが笑ったのは過去のことだ。あの日の自分を殴ってやりたいとエドガーは心から思う。
ロバートの言う通り、ローズは、本当に何をするかわからない。エドガーは何度も思い知らされてばかりいる。
エドガーは、自分がこんなに小言を言う人間とは知らなかった。
「こら、書棚に登るな」
エドガーの目に飛び込んできたのは、書棚によじ登っているローズだった。
「違う、飛び降りるな」
なんとか、ローズが書棚から飛び降りる前に、捕まえることができた。
「ローズ、危ないだろう」
似たような小言をもう、何度言っただろうか。
「ごめんなさい。全体像を見て、ちょっと考えたかったの」
地図を上から見下ろしたかっただけだというローズの言い訳に呆れた。
「だからといって、書棚に登るな。倒れたら、お前、潰されるぞ」
おそらく、ローズの体重では倒れないだろうが、万が一のことがありえる。重量のある書棚に、大量の書籍が詰め込まれているのだ。危険極まりない。
「でも、梯子はなくなっちゃったし」
「梯子はダメだ。サイモンから聞いた、じゃない、読んだ」
サイモンは、図書館でローズが梯子ごと倒れたことを石板に書いてエドガーに知らせに来た。サイモンは、この部屋に梯子があることを知っていた。当然梯子は撤去した。念のため、両隣の部屋の梯子も撤去した。
「地図の全部を見たいの」
エドガーは、自分を見上げるローズを見下ろした。次にしゃがんでローズの目線に合わせて地図を見た。確かに見えない。
「仕方ない、行儀は悪いが、机に登れ」
足台と椅子を並べ、ローズが登れるようにしてやった。
「ありがとう。でも、エドガー、足台はともかく、靴で椅子と机に乗っていいの?」
靴のまま、書棚によじ登っていたお転婆の言葉に、エドガーはため息をついた。先ほど気づかなかったことを、なぜ今気づくのか。
「靴は脱いだほうがいいな。脱げるか」
「大丈夫よ」
靴下で元気よく机の上までローズは登った。
「とっても見やすいわ。ありがとう。エドガー」
「どういたしまして」
ローズは素直にお礼を言うところが、可愛らしい。地図を見下ろし、真剣な様子に油断した。
「ちょっとまてぇ」
今まさに、飛び降りようとしたローズを、エドガーは捕まえた。息子達を育てている経験が、ここで生かされるとは思わなかった。
「お前は、どうして、登ったとおりに降りようと思わないんだ」
「ちょっと怖かったの」
「飛び降りるほうが、危ないだろうが。怖いなら、降ろしてやるから、ちゃんと言えばいいだろう」
ローズからの返事がない。ローズは、人にものを頼むのが苦手だと、ロバートは言っていた。
「俺は、ロバートにお前の面倒を見ろって、頼まれて、いや、命令されてるんだ」
ローズの要らぬ遠慮を止めさせるには、一芝居必要らしい。
「ロバートの命令だからな。お前が万が一怪我をしたら、命令違反だ。俺がロバートにどれだけ怒られると思う。ロバートは、怒ると無茶苦茶怖いんだ。だから、ちょっとでも降りるのが怖いなら、俺に言え。わかったか」
「はい」
素直な返事がすぐに返ってきた。
なぜ、ローズは、たかが机から降ろしてやるくらいのことで、こんな面倒な方法で説得せねばならないのだろうか。何かとローズの世話を焼くロバートを、過保護だと笑っていた自分は間違っていた。今からでも、ロバートに謝りたいくらいだった。
ローズが賢いのは事実だ。王太子宮で行われるようになってしまった御前会議に参加し、一人前に口を利く。あの偏屈爺のリヴァルー伯爵が、孫のようだと可愛がっていると同僚たちから聞かされた。
同時に、あまり賢くないのも事実だ。あの大貴族が集まる御前会議を、アレキサンダーとお知合いの方々のお茶会と思っているらしい。茶や菓子を楽しむために、互いに忙しい大貴族達が、王太子宮に数日毎に集まるわけがない。
今も、ローズは、ティーカップを片手に考え込み、こぼしそうになっている。その手からティーカップを取り上げると、上の空のまま礼を言った。変に律儀なところが、ロバートによく似ていた。
紅茶を飲み終わってから考えたらいいのだが、なぜそれを思いつかないのか。
ロバートが無事に帰ってくるようにおまじないだと言って、ローズは御前会議の時以外は菓子を食べない。ローズが食べている御前会議の菓子は、ローズのために大貴族達のお抱えの職人達に作らせた至高の一品だ。律儀なのか、図々しいのか、今一つ分からない子供だ。
エドガーが知る、教養ある女性は、みな淑やかかつ美しい。王太子妃グレース殿下しかり、妻であるメアリしかり、二人とも素晴らしい女性たちだ。ローズが、二人のようになるには、ずいぶんと長い道のりを歩まねばならないだろう。
王太子一筋の堅物のロバートが、まさか自ら志願してイサカの町に行くとは、王太子の傍を離れるとは、誰も想像すらしていなかった。
王太子宮を離れるロバートが、他にも近習がいるなか、わざわざ妻子持ちの自分にローズの世話を頼んだ。従兄弟のエリックが、妙に勘繰ったことを考えていた。ロバートに失礼だと言ってやったが、エリック以外にも同じようなことを考えている奴はいるらしい。そんな奴らには、ローズの、このお転婆の面倒をみてから、もう一度考えてみろと言いたい。
ただ、他の奴はともかく、ロバートに心酔しているとまで言われるエリックの言葉だ。軽んじることはできない。
ロバートが王太子宮を出発した日から、出来るだけ頼まれた通り、ローズの面倒を見てやっている。時に他の近習にも頼むが、エドガーなりに、責任をもって頼む相手を選んでいる。少し軽はずみな若い年齢の者に頼むことは避けた。万が一、エリックの勘繰りがあたっていた場合、エドガーの命まで危うくなるようなことは避けたい。
ロバートは、エドガーより若いが、生まれた時からアレキサンダーに仕えている。王家に仕えて長い一族の一人だ。近習全員を束ねるだけでなく、王太子宮の全てを掌握し、実権を握っていると言っていい。気づいていないものもいるが、それはロバートに権力欲が無さすぎるせいだ。私利私欲なくアレキサンダーに仕えていたロバートが、アレキサンダーの傍を、王都を離れることを希望するなど、誰も思ってもみなかった。
そのきっかけは、ある日突然、王太子宮にやってきた、このお転婆なローズだった。
賢くて賢くない子供が、あくびをかみ殺した。
「もう寝る時間だ。部屋に帰るぞ」
「でも」
「お前が部屋に戻るのが遅くなると、サラとミリアに俺が怒られる。そのあと息子達の前で、メアリにも説教される俺の身にもなれ」
「みんな優しいのに」
「俺には厳しい」
「エドガーも大変なのね」
誰のせいだ。
無自覚な元凶を前に、エドガーはため息をついた。
幕間のお話にお付き合いいただきありがとうございました。
この後も、本編でお付き合いいただけましたら幸いです
エドガーは、軽薄な口調なので、お気軽に見られがちです。が、根は真面目で、仕事もできます。