中途半端な存在8
「デアーグ様、お願いです。カイを傷つけないで下さい」
ぬいぐるみだらけのその部屋に通されて早々、ぼくはそう願い出た。
寮にあったぬいぐるみの犯人かどうかは聞かなくても分かるし、無駄に時間を食うだけだ。直接手を下さずとも、腐っても侯爵家の次男、命令すれば従う者なんていくらでもいる。
「やだねぇ、俺は殺さないとは約束したけど、傷つけないとは言ってないもん。あいつ邪魔」
中央の椅子に座って、新たなぬいぐるみを作っている彼は作品から目を離さない。
「フェンリール様は、友達なら良いっておっしゃっていました」
「兄上はエルに甘いからねぇ。でも、だぁめ。あいつはきっと……エルを傷つけるから」
「彼はぼくを傷つけたりしません」
針を持っている手を止めると、作り途中のぬいぐるみを置いて、彼はぼくの目の前に立つ。
「どぉして、そんなこと分かるの?」
「それは……」
「エルは今まで見てきたでしょぉ? 善人と言われた人が自分の我儘で他人を振り回すところも、綺麗なものを踏みにじるクソ共の所業も、凡人が欲望に負けて歪むところも」
「カイは違うっ」
ぼくの言葉に彼は真っ赤な目をまん丸に見張ると、
「ほんと、エルはすぐ騙されちゃうんだから」
「カイはぼくを騙せる程の上手い嘘はつけない」
考えてることがすぐに顔に出るもの。隠し事がある時は「話せない」とはっきり言うし、バカ正直過ぎて心配になるくらいだ。
「じゃあ、百歩譲って今まで騙してないとしよう。これから先、奴がエルを傷つけない確証は? 美しいものを前に人は欲望をどれだけ抑えられるのかなぁ?」
「カイは大丈夫だよ」
優しく頰に手を添えられる。冷たくも暖かくもない手だ。
「欲の無い人間なんていない。俺だってそうだ。でも、俺の一番の欲は、エルと兄上と俺が仲良くずーっと三人揃っていることだから。その欲を損なわせるようなことはしない確証があるよ。ねぇ、エル、そいつを信じる根拠は?」
言い聞かせるように彼はそう口にする。今は機嫌が悪くないのか優しい口調だ。
少し前に会った時は機嫌が最悪で情緒不安定で荒れてたけど、今は落ち着いてはいる。けど、情緒不安定な時より、隙が無くて交渉しづらい。
「エル、俺らは何回裏切られた? 何回踏みにじられた? 何回狙われた? 何回信じたって、最後にはみんな俺たちをないがしろにしたよ。ねぇ、簡単に人を信じちゃダメなんだよ。利害とかが一致している関係はともかく、友達だなんて繋がる理由が不明確なものはダメだよ」
ぼくらは、というかデアーグが一番他人に裏切られてきた。だから、人を信じられないのは当然のことかもしれない。だからといって、カイに危害を与えようとするのは許せないし、止めないと。
「カイはきっと違う、だからっデアーグ、彼に――」
「呼び捨てで呼ばれるのは久しぶりだぁ! いっつも、そっちにしてよ」
勢いで昔と同じように呼べば、嬉しそうに抱きついてくる。ぼくより十センチ近く大きい彼がまるで子供のように、幼かった頃のように。
『おれねぇ、兄上とエルに名前で呼んでもらうと、すごく安心するし、幸せだなぁって思えるんだ』
「……ぼ、ぼくは平民なので、じゃなくて、カイのことっ」
無邪気なその態度に気が緩みそうになるのをなんとか引き締めて話を続けようとするが、
「俺は信じないよぉ。そんなに駄々こねるなら、俺が納得するような証拠見せてよねぇ。それかエルの身の安全の保証。エルが俺に勝つくらいになったりね。ま、そんなもんある訳ないし、出来る訳ないけどぉ。兄上から言われても今回は聞いたげない。証明出来るまでは、狙う。危機的状況になれば人は本性出すし」
デアーグはぼくから離れて拗ねたようにそっぽを向いてみせる。
ああ駄目だ。彼は絶対、これ以上譲歩しない。フェンリールに言われても聞かないと明言する程とは随分固い意志だ。いや、これでも証拠を示せば良いとは言ってくれた。あとは、ぼくがそれを提示すればいいだけだ。
でも、どうやって?
カイは良い奴だ。人を傷つけるような真似はしないし、小心者だ。喧嘩してもぼくが勝つ自信がある。
だけどそれを言ったところで、デアーグは「優しい人」も「弱者」も信じない。それらにデアーグは裏切られたことがあるから信じない。
彼がカイを危険人物として認識しない為には、よっぽどの証拠を突きつけなければならない。だけど、その方法が分からない。
ぼくはなんて無力なんだろう。そんなことを思ったが、思ったってどうにもならない。
とりあえず、カイを守らなければ。
出来るだけ側から離れないようにしないと。あと、流石に騒ぎにはしたくないだろうから、彼の周りに常に誰か、なるべくならデアーグに対抗できる誰かがいてくれればいいんだけど、それは難しい。でも、カイは人気者だから寮生や平民生徒が側にいるか。
ああ、あと学内ではオリス様が彼を守るか。だって、彼はぼくにカイが何かされないか心配でぼくらに近づいてきたんだろうから。赤の人間は危険だって分かっているから。
そりゃあ、ぼくなんかがカイみたいに綺麗な子と居たら心配するよ。
……だって、ぼくは緑の公爵令嬢の声を奪ったんだもの。
オリス様もそこまでは知らないだろうけどさ。
ぼくが奪った。
自分の目的を果たす為に、あの人の優しさを利用して、傷つけた。あの人は傷つき、ぼくの喉は無傷だ。あの人はぼくの為に喉に傷まで負ったというのに。
ぼくはあの時、傷一つ負わなかった。
あの火事の時だって僕は傷一つ負わなかった。
「エルぅ? どうしたの?」
ぼくが長い間黙り込んでいるものだからデアーグが顔を覗き込んでくる。心配気に揺らぐ真っ赤な瞳に映る自分の顔や首には傷一つなくて、それがどうも気持ち悪かった。
「エルっ⁉」
右手で口元を抑えてうずくまる。真っ赤な絨毯とついた左手の白さとのコントラストが目に痛い。
なんで? なんでぼくにはないの? 全部、全部ぼくの所為なのに。ぼくの所為でみんな傷ついてる。それどころか存在までなくされたものまでいる。なのに、なんでぼくは――。
「ど、どうしたのぉ? 気持ち悪いの? 大丈夫?」
デアーグはおろおろしながら、洗面器を取ってくる。戸惑っても状況判断は素早い。
せっかく用意された洗面器だが、ぼくは吐瀉物を出す気にはなれなかった。出てきそうになるそれを無理やり飲み込む。酸っぱいのがなんとなく分かった。吐き出した方がきっと楽だろう。けれど、ぼくは楽になってはいけないのだ。
「大丈夫? 気持ち悪いの? どっか痛いの?」
しゃがみこんで問いかけてくる声は優しい。
そう優しいのだ。本来、デアーグは優しい人だ。だけど、ぼくがいた所為で歪んだ。
それを分かっていたのに。彼の行動の滅茶苦茶さにどこか他人行儀に『酷いよ、駄目だ』なんて何回も思った。彼を敵かのように何回も思った。何回も嫌いになりそうになった。
ぼくは弱いから、自分のことから目を逸らして、デアーグの所為にして逃げ切ろうとしていたんだ。彼はぼくの被害者なのに、それを忘れて責めたりして、加害者として鬱陶しく思って、時には敵として対抗しようとして、どこまでぼくはヒトデナシなんだろう。
「ぬいぐるみいるぅ?」
どうすればいいのか分からなくなったデアーグが涙目になりながら犬のぬいぐるみを差し出してくる。相変わらず大中小三つのぬいぐるみがくっついている。でも、犬のぬいぐるみとは珍しい。だって、デアーグは兎と猫が好きだから。
ぼくが犬を好きなのを知っているから作ってくれたんだろう。大きい犬の目はキリッとしている、中ぐらいの犬のパッチワークは派手な組み合わせだ。小さい犬の目はまん丸で可愛らしく、同じ布で継ぎ目が分からないほどに縫い合わされていた。
『兄上がおっきくて、俺が中ぐらいで、エルがいちばんちっさいの!』
幼い頃はそれを聞いて「小さくないもん」と拗ねながらも、ホッとしてた。必要とされてるんだって大丈夫だと勘違いしてた。三人一緒で大丈夫だと。
でも気づいたんだ。ぼくがいるとデアーグもフェンリールもおかしくなるんだって。
ぬいぐるみが大中小くっついているのは、デアーグの『俺と兄上とエルの三人だけでいい。三人いないと駄目』という思想の現れだ。
でもさ、違うんだよ。本当はぼくがそこにいると駄目なんだ。もうね、小さいぬいぐるみが目障りで仕方ないんだよ。異物どころか、劇物が紛れ込んでるんだよ。あなた達はぼくの所為で壊れるんだ。ぼくという異常な存在がみんなを不幸にするんだ。
帰ってきて欲しいと願われるけど、ぼくが帰ったら駄目なんだよ。ぼくが嫌ってのもあるけれど、貴方達にも良くないんだよ。
「……いらない」
手にした瞬間、小さなぬいぐるみを彼の前であるにも関わらずちぎってしまいそうだ。人の善意をそんな風に扱ったらいけない。
「そう……欲しくなったらあげる。なんなら他のも作ってあげる。俺はエルが大好きだからねぇ」
そう頭を撫でてくる手は優しくて、それが辛かった。
こんなに優しい人がぼくの所為で歪んでしまったという事実が悲しくて、酷くて、申し訳なくて。
ああ、やっぱりぼくは生まれてくるべきじゃなかった。
だからといって今、死ぬ訳にもいかない。
ぼくが今まで蒔いた種を全部回収するまで、ぼくには死ぬ資格も無いんだから。