中途半端な存在5‐1
涙なんて、もうとっくのとうに枯れ果てたと思ってた。
嘆き悲しむ涙や恐怖からの涙、そんなものを流す資格はもうない。
喜びや感激の涙も、自分にそんな機会は与えられないのだと思っていた。
だけど、カイの言葉を聞いた時、どうしようもなく嬉しさで胸が一杯で、泣けてきた。
しばらく普通の男として認識されてたのと、彼の生まれ育った環境が若干特殊だったのもあったお陰もあるだろうけど、彼はぼくを拒絶しなかったし、男だろうが女だろうが友達なのは変わらないって言ってくれた。
それが、どれだけ嬉しかったことか。
ぼくは普通の友達にずっと憧れてた。
おとーさんや、大半の人はぼくを拒絶した。中途半端な自分の身が気持ち悪がられたり、遠ざけられたりするのは、当然だろう。辛かったけれど、仕方がないことだった。
幼い頃、一緒に遊んだ男の子達は混ざることを許してくれたけれど、やっぱり女の子として特別に扱われてた。
フェンリールやデアーグはぼくを受け入れてくれたけど、彼らが特殊なのもあって普通ではなかった。
フェイスやロキはぼくのことを「エル兄さん」として扱い、エヴァンズ夫妻も息子のように扱ってくれたけれど、家族としての枠の仲間だった。
彼らが悪いとは思わない。むしろ、優しい人達だと思う。拒絶しないで、優しくしてくれた。今でも感謝してる。
でも、カイはぼくのことを知ってなお、「友達」と言ってくれた。
男に狙われたりするところは変わってるとはいえ、それでも普通で優しくて真っ直ぐなカイが、ぼくを友達の枠で仲間として認識し続けてくれることが、ただひたすらに嬉しかった。
ずっと、中途半端な自分が嫌いだった。
今でも嫌いだ。でも、カイはそんなのを吹き飛ばしてしまうほど、真っ直ぐに「友達でいたい」と言ってくれた。
どこまでも、綺麗で真っ直ぐで、眩しかった。
なんで、こんなぼくのことで一生懸命になってくれるのかは分からないけど、彼と友達でいられるということが、とても幸福に思えた。
ぼくの事情を聞いた時は流石に混乱してたけど、それでも受け止めてた。フェイスが本を貸したのも、多分効果があったんだろうけど、それでも寛容な奴だと思う。そして、可愛いぼくの妹分も、ぼくを思って念のためカイにあの本を貸してくれたのだろう。どこまでも優しい二人だ。
本当はそんな優しい彼らと、僕みたいな奴が一緒にいてはいけないんだ。
でも、突き放そうとしても、『大丈夫』だとか『一緒にいたいからいるんだ』とか言われて、揺らがないほど、ぼくの気持ちは強くなかった。
彼らと一緒にいたい。平民の少年、エルラフリート・ジングフォーゲルとしていたい。
ぼくの愚かな願望だ。ぼくのような中途半端で、穢れた存在が願うには浅ましい夢だ。
そんな資格はないって知ってる。
でも、抑えられない。天やカラビトや聖職者は、ぼくのことを知ったら非難や断罪をしようとするだろう。いや、そんな役職じゃなくたってぼくのことを知っている奴はぼくを責めるだろう。
それでもいい。ぼくはそれらを信仰してないし、彼らは何もしてくれない。
自分の僅かな良心が痛むかもしれない。
でも、そんなものはぼくが生きてる限りいつでも金切り声を上げて非難している。酷くなったって構わない。自由に生きたい。自分のしたい通りに生きたい。
それでも、ぼくのせいでフェイスやロキ、カイなどたくさんの善人が巻き込まれるかもしれない。
だとしたら、それだけは阻止する。
自分の出来ることなら、どれだけ傷つこうが汚れようがなんでもやる。それがせめてものけじめだ。
***
夕焼けで王都は赤に染まる。
暗くなると、絡まれやすくなるので、ぼくは足早に以前カイに殺風景と言われた自分の寝床を目指す。
細い裏道をしばらく歩いた後、ぼくは急な階段を音も立てずに登る。そういう動きには慣れている。音を立てないことは仕事をする上で欠かせないことだった。
金属の塗装が剥げかけている取っ手をまず右にずらしてから、押して開く。通常のようにただ押して開くこともできるが、その場合、入ってすぐの床が落ちて、一階に落とされる。侵入者などへの対策だが、まあ随分と性格が悪い仕掛けだと思う。
カイがこの仕掛けを知ったら怖がるかな? いや、案外面白がるかもしれない。まあ、教えないけどね。
そんなことを考えて中に入るが、思わず足が止まる。ギシリと床が音を立てる。
この家の唯一の椅子に人が座っている。暗くて見えにくいが、誰だかなんてすぐに分かった。
赤茶の短髪の年上少年は、薄暗い家の中でも目立つ国立軍学校のSクラスの白い制服を着ていた。
「デアーグ様……何故ここに? 仕事のご命令ならクーで事足りますよね?」
クーというのはしょっちゅうこの家に来て、仕事の命令を書いた紙が仕込まれた首輪を見せてくる、デアーグの飼い猫のことだ。黒い綺麗な毛並みと赤い瞳を持ったその猫は今日は来てない。
ぼくの質問にデアーグはゆるりと顔を上げる。赤い瞳とバチリと目が合う。得体のしれない寒気を感じ、ぼくは後ずさりしそうになる。
「エル、ダメでしょぉ」
たったそれだけ、彼は言った。
それだけで頭は真っ白になって、包帯だらけのその姿も、何故ここにいるかも頭から吹っ飛んだ。
ぼくが呆然としている間に、彼は人通りは少ないけれど馬車は通れるくらいの大きさの道に手首を掴んで連れて行く。
ぼくの左手首を掴む右手には過度な力が込められていた。痛い。
止まっていた黒塗りのシンプルな馬車の座席に座らせると、そのすぐ前の席に彼も座って、御者に「行け」とだけ言った。
道の起伏に合わせて馬車が揺れる。
いつもはあれこれと喋り続けるデアーグが、馬車の中でずっと無言で愛刀を研いでいるのは正直怖かった。
よく見ると右頰、左手の人差し指、右腰、右肩、左足首に、打撲から骨折まで様々な度合いの怪我をしているというのに、痛みで顔を顰めることなく、ただ刀を研いでいた。
ぼくは、またあの屋敷に来てた。
今度は不法侵入ではなく、デアーグに連れて来られて。左手首はまた掴まれた。
正面から入ったぼくらを待っていたのは、だだっ広い玄関ホール。
真ん中の石材で作られた大きな階段にはくもりがない。金や銀、宝石というものであからさまなものに飾られている訳ではないが、壁や床、階段などの建材や、調度品は質の良いものばかりだ。その上、センスもある。
カイが見たら、目を輝かすか、逆に恐縮するかのどちらかだが、ぼくはこの空間は整いすぎて、完璧すぎて苦手だった。温度を感じない、静かで、ものが置いてあるのに、どこか空虚に感じる。
屋内に入ってから、ぼくの顔を無表情で眺めていたデアーグが、
「なんで……そんな遠い目をするのぉ」
「え?」
「エルラフリートはいつも、俺らを見てくれないよね」
『見てくれない』その言葉に胸がきゅうと痛む。ぼくも、おとーさんと同じように彼らを見てないの? ああ、嫌だよそんなの。だって、見てもらえなかった側はとても悲しいから。
「ごめんなさっ――」
「否定はしてくれないんだねぇ」
謝るということは、見てなかったと証言したようなものだと、彼の悲しそうな顔を見て気づいた。
「ごめっ、ごめんなさい、ごめんなさい」
それでも、謝ることしか出来ない。
「何がいけなかったのぉ? 俺も兄上もエルを大切にしてるのに」
知ってる。痛いほど知ってるそんなの。デアーグは何もぼくが嫌いな訳じゃない。だけど、彼がぼくの為としてやることのほとんどが、ぼくの嫌なことで。悪気はないのは分かってる。
「エルは俺と兄上が守ってあげるから、ずっと近くにいてくれるだけでいいのに、なんで? 世の中には危険ばっかで、嫌な奴しかいないよぉ」
デアーグは女嫌いだ。そして、女以外も平気なだけで信じてない。心を許さない。『俺と兄上とエルだけでいい』と何百回、何千回、何万回と彼の口から聞いた。
でも、それは嫌なんだよ。ぼくはそんな鳥籠のような世界に居たくないし、デアーグだってもう少し他人に対して許容してくれないかと思っていた。それでも、今まで言えなかった。でも、
「デアーグ様、確かに危険で嫌な奴もいますけど、良い人もいるとぼくは思うんです」
思い切って言葉にしてみたが、デアーグは仄暗い笑みを浮かべると、
「ほら、だからエルは一人じゃダメなんだよぉ。綺麗な子だからすぐに騙されちゃうもんね? あの姉弟も、緑の兄弟も、平民のバカもみんなエルを騙してるのに」
「騙されてなんかっ」
フェイスもロキもむしろぼくに騙されている純粋な子で、緑の兄弟もオリス様は裏がないとは完全に言えないほど読めない人だけど悪い感じはしない。カイはぼくを騙すなんて芸当できなさそうだし友達だ。騙されてなんかない。
「エル、いつだって本当に危ない奴はそれを大っぴらにしないんだよぉ。エルの父親もそうだったでしょぉ?」
否定が出来ない。実際、おとーさんは大勢の信頼を裏切って、自分の幸福を取った。でも、それはぼくのせいで頭がおかしくなったからで……。
「まあでも、エルはそんな父親も未だに嫌えない子だからねぇ……エル、俺や兄上以外は味方じゃないんだよ」
「そんなことないです!」
デアーグの毒のような言葉にぼくは叫ぶ。デアーグが目を見開く。
違う違う。だって、フェイスもロキも、エヴァンズ夫妻も、レトガー兄弟も、カイも、みんな優しくて、ぼくみたいな奴に色々してくれたの。ぼくは彼らの足手纏いで寄生しているのに、見捨てないでくれる。彼らは敵なんかじゃない。
何故、ぼくのような存在を気にかけてくれるのか分からないほど、眩しい人なのに、それを否定しないで。彼らの優しさを嘘とは言わないで。
「そんなことあるよぉ……エルはいつからそんな聞き分けのない子になったの? やっぱ、上の指示とは言えど俺らから離れたことは間違いだったよ、兄上と一緒に直訴しに行くべきだった」
話が通じない。ぼくの言葉は彼に届かない。彼の中での理想像は揺るがないから。でも、ぼくはその理想像は嫌なんだ。
今までずっと、デアーグに真っ向から反対して、反抗することなんてしなかった。
いつも、フェンリールが緩衝材となり、ぼくとデアーグを諌めた。
でも、本当はそんなの駄目なんだ。自分の力で自分のやりたいことを成し遂げたい。言いたいことを言いたい。
「ぼくは間違いだとは思いません」
「はぁ?」
「優しい人もいます。国立軍学校も楽しいです。ぼくは――っ⁉︎」
顔面すれっすれに小刀が通り過ぎる。
ぼくが反応出来ない速度のそれにおののくと、足払いされた。デアーグは怪我をしているのだと言うのに、いつの間にかぼくの上に、馬乗りなった。そして首を掴んできた。
「なんでなんでなんでなんでなんでっ」
首を絞められる。痛いっ。苦しい。必死に抵抗を試みるが、びくともしない。向こうは怪我をしているのに、敵わない。
混乱にのまれ興奮してしまっているデアーグにまともな思考はない。ただ、泣きそうな顔で、首を絞め、「なんで」と連呼する。
まずった……!