4 赤色
扉を開けた先では、エルが2本の足でしっかり立って、真っすぐこちらを見ていた。
彼の瞳は死んではなかったし、むしろ光加減の所為か赤くらんらんと光って見えて綺麗だった。
しばしの二人の間に沈黙に満ちた。オレもエルも状況がよく理解できなかったんだと思う。
「カイ、ぼくは大丈夫だよ」
しかし、そのうち、ふにゃりと彼が笑った。
相変わらずその笑顔は穏やかで美しくて、いつも通りのエルだった。声も非常に落ち着いていた。
無事だ……そう思ったのだ。途端に涙が決壊するオレにエルは近づく。
着衣の乱れもないし、怪我もないみたいだし、きちんと両足で立っている。首や手足の白さは相変わらずで傷などはなかった。ふわふわの赤茶の髪もいつも通りだ。
「ありがとう。心配してくれたんだね。大丈夫、ぼくはなんともないよ」
「オレさ、もっ……ダメかとっ、また、せんぱっ……みたいにっ」
嗚咽が止まらない。男なのに情けねぇけど。やっぱ止まらない。だって、安心したから、先輩みたいにエルがなんなくて、手遅れにならなくてほんとよかった。
多分、オレは自分がそういう目に遭うのも怖いけど、知り合いがそういう目に遭って狂う方が怖い。無力な自分のせいで友達が壊れるのが怖い。一度、もう見ちまってるからトラウマなんだ。
綺麗な顔、可愛いから、好きだから、それが理由で尊厳を踏みにじられたらたまらない。別にそうなりたくてこんな見た目してるわけじゃ無いのに、狙われて、怯えて、襲われて、たまったもんじゃない。嫌なものは嫌だ。
「泣かないで、ぼくは大丈夫だから」
そうエルはオレの頭を撫でる。情けない。被害に遭いそうだったのはエルだったのに、助けに来たオレの方が泣いて慰められるなんて。ゴシゴシと服の袖で目を拭えば「よくないよ」とハンカチを差し出される。受け取ったそれで拭き直せば「ありがとう。あとで洗って返す」と礼を言う。
「大丈夫?」
「大丈夫だ……って普通逆だろ」
「目真っ赤だよ」
「うるせぇ、バカ」
プイッとそっぽを向けば、エルはなんの嫌がらせか顔を覗き込んでくる。
「ごめんね。さっさと終わらせてそっちにいこうと思ったんだけど、思いの他長引いてさ」
その様子が本当に申し訳なさそうで、なんかこっちも微妙な感じになった。不思議なくらいいつものペースだこいつ。
「先生の雑用手伝う感覚で言ってんじゃねぇよ……てか、お前どうして無事なんだ⁉︎」
「え? 無事じゃいけなかった?」
「いや無事でむしろよかったけど、どうして無事で居られるんだ?」
そう肩を掴んで聞けば、エルは目線を逸らす。
「丁重にお断りした――」
「そんなんでおさまんなら、ここにお前はいねぇだろ」
「うっ……分かったよ。そっち見て」
エルが指差した場所を見れば、そこでは数人の貴族が爆睡していた。そう爆睡。いびきなんてかいて、貴族様が三人くらい、床になんて寝っ転がって眠ってる。奇妙な上に不自然極まりない。エルをここに拉致ったのもこいつらに違いないのに、どうしてターゲットである筈のエルを目の前に睡眠をとっている。
「は? どういうことだこりゃ」
「子守唄歌ったら眠っちゃった」
「ちゃんと説明しろこら。子守唄がそんな万能な訳ねーだろ。大方睡眠薬でも使ったんじゃねぇのか? 大人しく吐けよ」
「だから、本当なんだってば」
「ちっ、企業秘密か」
自衛用に睡眠薬でも隠し持ってたのか? まあ、流石にそれは露見するのを恐れるのも当然だろう。つってもオレは友達が貴族様を眠らせても告げ口なんてしねぇけど。
「なんでそう捻くれた解釈するかなぁ」
「お前が本当のこと言わねぇからだろ」
「だから本当だってば……」
あくまで子守唄と言い張るエルに不審げに見つめるが、向こうは意思を曲げる気がないらしい。嘘つくにしてももうちょいマシな嘘つけよ。
「とにかく、無事で良かった」
「そうそう。じゃあ、ほら図書室行こうよ」
「お前は呑気だな。根本的な解決には全く至ってないんだぞ。明日からどうすんだお前」
「だってどうしようもないじゃない。今から先生に言いに行っても赤の家だからどうしようもないし、まあほら、なんとかなるよ」
へらっと笑うエルにオレは心の底から呆れた。なんでそんなに楽観的なんだこいつ。危なっかしいたらありゃしない。オレ自分のことでも結構手一杯だけど、こいつ放っておく訳にもいかねぇしな。
「ならねぇよ。あいつとはクラス違うんだよな?」
「ああ、うん。Bクラスだってさ」
「じゃあ、明日は教室で待ってろ。迎えに行くから」
「カイったらスパダリだね」
「ぶん殴られてぇのかテメー」
「冗談冗談」
ははは、と笑うエルにはやっぱ危機感がない。その後図書室に言った後にも「気をつけろよ」と釘を刺すが「気をつけるけど、多分大丈夫だよ。なんとかなる。あ、明日文房具買いに行こうよ」ってぬけぬけと言い放ったから頭叩いといた。
何を根拠に大丈夫とか言ってんだこいつ。結構、危ない目に遭ったんじゃねぇのかよ。
まあでも、色々と予想外でエルとあの貴族に何があったか分からないけど、とにかくエルが無事でよかった。
とにかく、先輩のようにエルがならなくて良かった。本当に、本当に良かった。
***
次の日の放課後、若干気後れするもののAクラスの教室を覗き込めば、貴族どもが眉をひそめてオレを見る。やっぱオレみたいな平民は毛嫌いされるもんだな。まあ襲われるよりは全然マシだからいいんだけどよ。
「お前、このクラスになんの用だ?」
吊り上がった空色の瞳に亜麻色の髪。小さな背丈にしては随分とでかい態度。狙われそうな見た目をしているが、その威圧感から察するに随分な家柄かと見える。ちらりと左耳を見てみれば黄緑色のピアス。なるほど、緑系の貴族か。
貴族様は左耳ピアスつけんのオレらより早いから分かりやすいや。平民男性は大体十六になってからつけるけど、貴族の紳士諸君はそれこそ十歳くらいから家柄に合ったピアスをつけてるからな。
貴族様に逆らう訳にはいかないので、オレは大人しく答える。
「エルラフリート・ジングフォーゲルを迎えに来たんです」
「何故?」
そう言われても答えに困る。何故と言われてもその理由を赤の他人に話すのもちょっとなぁ……でも貴族相手に嘘つくのもなぁ。バレた時が怖い。
「一緒に出かける約束をしていたもので……」
「何処にだ?」
「文房具屋に行こうと昨日……」
「昨日?」
ただでさえつり目の目がさらに釣り上がる。一体全体どういうことだ。
ちらりと見えた八重歯が牙のように見え、背筋が凍る。獣と相対している気分だ。
「お前か、昨日ボクが休んでいるのをいいことにエルラフリートを拉致したというのは」
「い、いえ……」
誤解です。
「ボクはな、バカもクズも外道も嫌いだ。優秀なものがそれらに穢されるのは我慢ならない」
だからオレじゃない、それ。しかし、反論しようにも目の前の奴の威圧で口が開けない。そうこうしているうちに胸ぐらを下から掴まれる。
「あいつはこのボクが賞賛するに値するほど優秀な奴だ。それを貶めようなんて奴はブチ転がしてやる」
空色の目をカッと開く彼から全力で逃げたいが、貴族相手に無礼な真似は出来ないし、本気を出しても逃げられる気がしない。
言葉を聞いている限りエルのことで怒ってるから、悪い奴ではないと思うんだけど、誤解がやばい。昨日のことを何処かで聞いたら、そりゃ心配するか……。
だけど、このままだとブチ転がされる。見た目に反して力が強いこいつ。
「あれ? カイ、来るのが早いね。何してるの?」
それに比べて呑気なもんだこいつは。気のせいかもしれないが胸ぐらを掴む人物の雰囲気も和らぐ。
「エルラフリートか、安心しろこいつはボクがぶちのめす」
「はい? 何故そのようなことをレトガー様が?」
「こいつだろ、昨日お前を拉致したのは。安心しろ迅速かつ適切にぶちのめす」
だから誤解だ。そしてエルとの温度差が酷い。目があったエルに口ぱくで「助けろ」と言えば、彼は頷く。
「昨日、ボクを拉致したのはカイではないですよ。むしろカイはボクを助けに来てくれました」
「嘘じゃないだろうな」
「はい」
「脅されて庇っているんじゃないだろうな」
「はい。レトガー様に嘘をつくなんて恐ろしい真似、ボクには出来ませんので」
そんなエルの言葉を聞けば、奴は一言「悪い」とオレから手を離す。そして、そのままエルに近寄れば、
「何処のどいつだ」
「今日は学校に来てませんよ」
「分かった、特定した。あの伯爵子息だな。叩き潰すことは難しいが、どうにかして落とし前つけさせる」
特定はやっ! そして物騒だな。まあ、あいつらは自業自得だから同情は一切する気はない。
「それはお心遣い感謝しますが、お手をわずらわせる訳には……そもそも何故、そのようなことをご存知で?」
「Bクラスの使えない下僕が報告してきた」
成る程、こいつがいたからエルの顔でも、今までそんな大きな騒ぎがなかったのか……下僕とか自然に言ってるのはさすが貴族様だけど、危険性は低そうだ。
「悪いな。ボクが休んだばかりにそんな危ない目に遭わせてしまった」
「いえ、そもそもレトガー様がそんな心配をかける訳には……」
「お前はこのボクのクラスメートだ。認めた奴の心配も出来ないほどボクは落ちぶれていないぞ」
さっきから話し方はどうも鼻につくが、貴族が上から目線なのは当たり前なので仕方ない。レトガー家って確か侯爵家で四大公爵家の緑系統のシュトックハウゼン家の現当主が元いた家だよな。今の当主はレトガー家からの婿入りでなってるから、つまりこいつの家柄は相当なものだ。
「それは失礼しました。前から思っておりましたが、レトガー様はお優しい方でいらっしゃいますね」
「別にお前が無能だったら放っておくさ。お前は優秀だからな。優秀なものを保護するのは当然だ」
ふわりとした笑顔を浮かべるエルにしたり顔で奴は返す。
うん、あれだな話し方はともかく。嫌いじゃねぇタイプの貴族だ。
「で、お前はこの無能と知り合いか」
前言撤回と言いたいところだが、実際このレトガー様とやらはSクラスまでとはいえないものの優秀なことには間違いないので黙っておく。それに無能ならまだ人間扱いだから全然マシだ。むしろ良識ある方の人だ。
「無能って?」
「こいつだ」
「カイは無能じゃないですよ」
「所詮Cクラスだろう?」
何故、知っているんだと思ったが、胸のエンブレムにクラスが描かれてるんだっけか。一番上のSクラスだと制服の色も違うから分かりやすいんだけどな。
つーか、エルのやつ貴族相手に普通に反対意見言ってやがる。肝座ってるとかじゃ済まされねぇレベルで度胸あんな。下手な奴だったらガチギレされるぞ。でもまぁ、普通に会話が続いているから、レトガー家の子息はまだ寛容な方の人間みたいだ。
「レトガー様は厳しいですね」
「そうか?」
「はい。それに平民は高等学を学べる環境にはないので、Cクラスはかなりの快挙なんですよ」
「でも、お前は平民でAクラス。いや、入学試験の時にいればSクラスだって夢じゃないだろう?」
うわぁ、スゲェとまでは思っていたけどそこまでだったとは驚いた。Sクラスは九人制が絶対だからな編入生の扱いが困ったんだろうな。つーか、エルは本当にどうやって高等学を学んだんだ?
「ぼくは運良く学べる環境が整ってたのと最高の先生がいたので」
「成る程、良い師がいるのは大きいな」
そういえば妹(血縁関係でない)に教えて貰ったんだっけ? 冗談かそうじゃないか分からない。というか謎だらけなんだよなエルってさ。
「引き止めて悪かったな。買い物楽しんで来い」
「はい、ありがとうございます」
うん、エルがクラスメートと健全な意味で仲が良さそうでホッとした、去り際のオレに「何かあったら……分かってるよな?」と耳打ちしてきたのは心臓に悪かったが、エルにとって悪い奴ではない。
「カイ、行こう」
「おう、良いクラスメートじゃねぇか」
「まあね。あの方のお陰で随分と助かってるよ、あの人、認めた人とそうじゃない人への態度の差はでかいけど、認められれば優しいから」
「オレ、前に緑は弱肉強食って言ったけど、正にそうだな。それに比べてきの……」
「あとで話そう。誰かに聞かれたら大変だよ。まあでも……」
そこでエルが立ち止まる。
「でも?」
「ぼくは赤色が大嫌いだけどね」
そう吐き捨ててエルは再び歩き出す。心なしかその速度は速ぇ。やっぱ飄々としてるようで、赤の伯爵子息の件は怖かったのか?
穏やかなエルにしては珍しく嫌悪感に満ちたその声が、妙にオレには恐ろしく感じた。なんでだ?
オレは赤色、嫌いじゃないぞ。くそ貴族のシンボルカラーでもあるけど、お前の紅茶色の瞳はたまに赤く見えてとても綺麗だから。