鍵16‐1 緑の少女の願い
『シャム、悪いけどあの子に手を出さないで。自分勝手なのは分かってるけど、私はあの子には幸せになって欲しいの』
ずっと前から伝えたかったことをオクリビトさんに伝えた私は、次の行き先に向かう前にシャムロックにそう改めて釘を刺す。
「貴方を傷つけたのにですか」
だけど、やっぱり納得がいかないみたいね。
ヴァルダー家特有の痣が薄く色づいているのが分かる。
表情には出ないけど、顔に感情現れてしまうその特徴をシャムは昔から嫌っているけれど、わたしはその特徴があって良かったと思っているの。
これが無かったら、彼がわたしのためにどれだけの感情を動かしてくれているかが読めなくて、彼の行動の意味が分からなくなるから。
『身体的にはね。でもあの子が私から声を奪ってくれなかったら、どうすればいいか分からないまま、あのまま衰弱死してたもの。むしろ恩人だわ』
「やはり、口撃姫であることが辛かったんですか?」
昔の呼び名を出され、足が止まる。
予想外だったの。
そうなのね、目の前の彼にはそんな風にあの件は解釈されていたのね。
別にそれが的外れって訳でもないけど。でも正解じゃないわ。
そんな風にシャム、貴方にも解釈されていたようなら、
あの人にもきっと私が折れた理由はバレてい ないと少しほっとしてるの。
でもね、
『それもあるかもしれないけど、情けない話だけど、私はもう頑張れなかったのよ』
私は、そんな立派な存在じゃないのよ。
だから、私はオクリビトさんを利用してでも、緑の公爵令嬢としての大部分の責任から逃げたのよ。
オリスには少し話したことがあるけれど、あの時も私は結局取り繕ってしまったの。
『シャムロック、貴方は特に真実を知って私との関係をどうするか判断すべきだと思うから、今日は無理だけど後日全てちゃんと話すわ』
***
「かっこういいも、きれいも、かわいいも全部手に入れてしまえばいいんです」
割れたカップを見て、また令嬢らしくないと陰で言われるわと誕生日に憂鬱な気分になってた時、
一つ下の普通の少年はそう私に鉄製のカップをくれた。
それがどれだけ私の中で輝きを放ち続けたか、渡した本人はきっと気づいていない。
ええだって彼にとっては、それは当たり前のことだから。私だから、特別にかけた言葉ではないの。
でも、わたしにとってはずっと特別だったの。
緑系統の特性を強く受け継がれた私のことも、一系統のトップの令嬢として義務を果たしたいという私の願いも、どちらも否定しない答えをくれたと思ったから。
緑の上級貴族だけど普通である彼がくれたのだから。
全部、欲しかった私を認めてくれたから、わたしは嬉しかったのよ。
だから、もっと頑張ろうって思えたの。
格好良くて、綺麗で、可愛くて、優しくて、そんな完璧な令嬢になろうって思ったの。
皆の役に立つような、必要とされるような、彼に認めてもらえるような、立派な存在であろうとしたの。
なんて馬鹿なのかしら。
違ったのよ。彼が言ってくれたのはそんなことじゃないのよ。
あの彼のことずっと見ていたのに、私は力尽きてからそれに気づいたのよ。
彼は私にきっと、自分の手札を全部使って、私自身の願いを叶えなさいって教えてくれていたのにね。
でも、間違ったの。
私は自身の願いを見誤ったから、負けたのよ。
それもよりにもよって、黄の令嬢、ディスティル・クラ―・ディプロマティーにね。
その日は何故か、彼女と二人きりになったの。
最初は当たり障りの無い話をしていたわ。
当たり障りの無いといっても、皮肉と腹の探り合いだけど。
あまり仲の良いとはいえない系統同士だし、その頃は緑と黄の令嬢たちの軋轢は大きかったから、その総大将とも言える私と彼女のやり取りなのだから当然ね。
だから、その日も私は、私は緑系統の人間の為に、配下の令嬢たちの為に、戦えばいいと思ってた。
黄の令嬢達のことを追い詰めすぎたりはしないように、でも緑の令嬢達の言い分は通すように調整すれば良いと思ったの。
互いに自分の系統を守ることを考えてると思った。でも違ったの。
黄の公爵令嬢は、自分の配下の令嬢達も、緑の令嬢達も眼中に入ってなかったの。
ただ私を、シグリ・レトガー・シュトックハウゼンという少女を見つめて、心底不思議そうに問いを投げかけたのだ。
「貴方は何の為にその立場にいるの? そんなに頑張っているの?」
今でも覚えてる。赤と琥珀のオッドアイが本気で疑問に染まっていたのを。
「シュトックハウゼン家の者として責務を果たす為です。貴方もそうでしょう?」
「……なにそれ、それって貴方自身の意思なんて関係ないじゃない」
私に答えに対する呆れと、何故か憤りの混ざった声を出したのを今でも鮮明に覚えている。
「貴方は、ただの歯車、操り人形、空っぽなのね」
憐れむように、でも謡うように彼女は続けた。
ひらりひらりと、彼女の赤毛もたまに混ざった金髪が揺れていた。金糸の刺繍がされた黒いドレスの裾が揺れていた。
「貴方がもし、自分の配下を甘やかして牙を抜いて、完全に支配下に置いて良いようにしたいなんて欲を持ってたら、わたくしは貴方のことを否定しないわ……でも違ったわね」
持っている扇を弄んで劇の女優のように大仰に振る舞う彼女を、いつもならただ眺めるだけで済ませられた。
でもなんでなのかしら、その時は目が離せなかった。聞き流せなかったの。
「貴方は貴族の仕組みに飼われているだけ。
善意ですぐに介入して、助けを求める声に応えて無自覚に配下を弱体化させてるだけ。
救いを求める声のフリをした甘えや欲に答えて配下の自立や規律を妨げているだけ。
そこに貴方の欲は対してない。義務感だけで動いているお人形さんね」
その言葉一つ一つが、その行動一つ一つが、全てが私を貫いたの。
全てが私の最近感じてた違和感を的確に言い表しているようで、それを認めたくなかった。
認めなきゃいけない部分もある。でも否定する部分はしなくちゃ。
「私達貴族の、上級貴族達がその暮らしを維持出来るのは、上級貴族としての義務を果たしているからよ。
私も未熟だから配下の人間に対して上手く接することが出来ていないかもしれない。
でも、私は義務を放棄する愚か者になりつもりもないの。権利は義務を果たしてからよ」
貴方のようにとは言わなかった。でも、敵意は滲んでいたのだろう。
「愚か者ねぇ……」と彼女は微笑む。
黄系統の令嬢は基本、無秩序だ。
公爵令嬢が不在の赤の系統に比べればマシだが、トップである目の前の彼女は基本放任主義だ。
私の配下の緑の令嬢達が、黄の令嬢達に対して敵意を向けるのも、もとはと言えば黄の令嬢達が無秩序故に問題を起こすからだ。
「愚か者はどちらかしら。権利は義務を果たしてからね。
いいえ、それはあくまで建前よ。権利が欲しいから、皆義務をいやいや果たしているのよ。
サボれるだけ義務はサボるのが賢い生き方よ」
「そんなのが、賢い? 小賢しいや狡いの間違いじゃなくて?」
「あら、怒ってるの? でもみんな貴方のように高潔でも愚かでもないの。
人間は醜いわ、狡いわ。それこそ貴女の想像が及ばないくらいの屑もたくさんいるの。
箱入り娘さんには分からないかしら」
箱入り娘の言葉は確実に私を揶揄していた。
「確かに人は醜い部分も持っているわ。
だけど、見本となる人間が高潔さを失ったら、しっかり生きることを諦めたら、組織はどんどん腐っていくだけだわ。
そんなのは正しくないわ。美しくないわ」
私は別に箱入り娘じゃないわ。
人は醜いわ、弱いわ、知ってるの。
だから私は割れたカップを見て怯えたの、テウタテスは身内を害したの。
でも、だからこそ人は正しく生きるべきよ。
彼はそうしてたわ。だから、私は彼を見ていると、その高潔さには目を引かれるし、私も頑張らなくてはと奮起させられるの。
負けるわけにはいかないわ。
「甘いわねぇ。この世は強欲で強いものが多くを手に入れるのよ。
誰かにとって幸せな世界は誰かにとっては最悪な世界よ。それを分かっているかしら。
貴方がこなす義務によって得する人間も、損する人間もいる」
だけど、目の前の彼女にその正しさの刃が通じない気がする。
身勝手なのに、我儘なのに、芯があるのだ。屁理屈のように聞こえる言葉全てが頑強なんだと、直感が叫ぶのだ。
カツッと大理石の床と、彼女のヒールからあえてたてられる音が威圧感を与えてくる。
「だからわたくしは自分勝手に生きるわ。
わたくしはわたくしの夢があるから、成し遂げたいことがあるから、強欲で強い女でいるわ!」
凛とした声で放たれた宣言に、私は足を一歩引いてしまう。
勝てない。
勝てない。彼女の望みが何かは分からない。でも、夢があると、成し遂げたいことがあると口にする彼女の非対称な色をした瞳は揺らがなかった。
その強さが、本質は全く違うであろう彼とも重なってしまうの。
テレルと重なるの。
「問いかけ方を変えるわ、シグリ・レトガー・シュトックハウゼン、貴方の夢は何?」
閉じた扇を鼻先に突き付けてくる彼女に、無礼だと注意することも出来なかった。
ただ、ただ圧倒されて、戸惑った。
私の、私自身の夢? そんなの分からないわ。
だって、わたしにわたし自身の夢なんていらないもの。
緑の公爵令嬢として生きていれば、私は良いんだもの。
緑の令嬢として、配下の緑の令嬢達を守って、緑系統の人間として、国に貢献していればいいもの。
だって、そうすれば、そうしていれば、かっこいいも、きれいも、かわいいも実現できるでしょう。
彼の前に堂々とたっていられるでしょう。
……彼の前に? なんで私は緑系統の公爵令嬢の筈なのに、彼の、テレルの前にたっていられるかをこんなに気にしているの?
「王妃の立場も望んでないでしょう?
このまま貴方が現状維持して起こることなんて、王妃になることくらいだわ。
貴方はそれを望んでいるかしら」
王妃、
自分自身ですら気づかなかった恐れを、何故かディスティルは見透かしていた。
最近、少し自分でも調子が悪いと思ってたの。
オリスやテウタテスは私が黄の令嬢相手でも傷つけるのを望んでいないからだと心配してくれている。確かに、そういう部分もあるわ。
でも、私は少し傲慢だけど黄の令嬢達も悪い方向に行かせないための、必要悪でもなろうっていう気もあるの。だから、調子は多分それで崩してはいないの。
私が調子を崩した本当の理由は、
王妃という言葉が私に対しての話で出るようになったからだ。
なる筈がないと油断していたの。
だって、現王の母親も、現第二王子の母親も緑系統なのだから。
しかも、第二王子の母親である私の伯母は、不倫状態から離婚をして第二王妃となり、その後は怪死してるの。
そんな状態で、緑系統の人間を王家に嫁がせる訳がないでしょう、そう思ってたの。
目の前のディスティルだって、第一王子の母親は、元黄の公爵令嬢だから、第一王子と従妹同士なのよ。
しかも、第一王子の母親こと、第一王妃は、悪妃と死後も名高い。だから彼女も王家に嫁ぐことはまずないの。
でも、現時点の他の公爵令嬢はと言えば、赤の公爵令嬢は不在、紫の公爵令嬢は病弱となっている。
数年前までなら、まだふさわしい人物が生まれてないからで終わった話。
でも直近、赤の公爵は子息もいないので侯爵家から養子を取る予定らしいとのうわさが流れている。
紫の公爵は病床の公爵夫人が亡くなっても後妻を取らないつもりだと宣言してる。
だから、血が近かろうが王妃の候補が私とディスティルしかいないのよ。
緑系統や、紫系統のことを考えれば、絶対にディスティルじゃなくて私が王妃になった方が良い。
それにさっきの身勝手な彼女の主張を聞くと、私が王妃にならなくてはいけない。
でも、でも王妃になったら、今よりもっと不自由になるわ。今よりもっと、令嬢らしく、国母らしくを求められるわ。
王妃として、人と会うことも制限されるわ。
同系統の緑の人間ですらその制限に入るわ。嫌よ、それだけは嫌よ。
同じ人間離れした身体能力をした彼ら彼女らとしか共有できない苦しみがあるの。
生まれてこの方、緑系統の人間の為に生きるつもりはあったけど、王妃になるだなんて想定していないの。
緑系統を出ることなんて無いと思っていたの。
王妃になったら、みんなにも、テレルにも会えなくなるわ……こんなこと思っているのを知られたら彼には軽蔑されるだろうけど。
だから知られたくない。声に出したくない。
私は、
私は、格好良くて、綺麗で、可愛い、完璧な令嬢でいないといけないの。
みんなやテレルの前で胸を張って笑えるようでありたいの。
「わたくしはわたくしの夢を果たす為に、王妃の立場が必要なのだけれど……貴方の本当に欲しいものは何かしら」
分からない。
でも王妃にはなりたくない。
でもみんなやテレルに軽蔑されたくない。
だから、緑系統の令嬢として義務は果たしたい。
でもこのまま頑張っても、私には何が残るのかしら……?
王妃になって、国の為に生きるけど、
その近くには緑系統の人間は、大好きな人たちは居なくて
……何も残らないわ。
私、もう頑張れない。
「あら、戦意喪失かしら。
もしよければ協力関係になりたかったけれど、その様子じゃ無理そうね。
このくらいで折れるなんて予想外だったわ。
……その程度ならわたくしはいらないわ」
言い返そうにも何も言えない。口を開きたかった。
でも口を開けば、弱音を、緑の令嬢として言ってはいけないことを口に出してしまいそうで何も言えなかった。
「弱いわね。あなた」
嘲りさえも消え失せた失望の視線が、わたしがもう緑の公爵令嬢として、ここに立っていないのだと思い知らせてくる。
弱い。弱いわね。
「わたくしが願いを叶えるその日まで、大人しく飼われていなさい小鳥さん」
弱いのは、強さがルールの緑系統のトップの令嬢らしくないのよっ!




