挿話22 傷の価値
この国一の美少年といえば、我が系統の次期トップであるヴァルファ様は勿論、赤の侯爵子息のフェンリール卿の名前は毎回上がっていた。二人挙がったら一番ではないだろうが、それ程二人の美貌は甲乙つけ難いのだ。
二人とも鋭い目つきで色白で大人びた顔立ちという共通点はあれど、纏う空気は全然違った。
とある詩の名手が王都に訪れた時、
ヴァルファ様に対しては、
その清廉さと光を感じる美しさに、
日の光に照らされた真っ直ぐな剣。
フェンリール卿に対しては、
その妖艶さと影を感じる美しさに、
揺らぐ蝋燭の火に照らされた赤い薔薇。
そう表現した。
だからフェンリール卿が事故で顔に傷を負った時は相当な騒ぎだった。
傷を負ったという噂が流れてから、初めて卿が参加した王都の夜会では皆そわそわしていたのを覚えている。
かくいう、この俺、クロッツ・ヴォーゲ・シュリーマンもその一人であった。
若い令嬢や貴婦人達からはあの美しい存在に傷が出来た事実に「勿体ない」「残念」「信じられない」「世界の損失よ」と身勝手に嘆き憤慨する声が聞こえた。
同年代の男達は何も口にしないものの、令嬢達から視線を集める美貌に傷という格落ち要素にほくそ笑んでいたのを何人か見た。
でも、それはまだマシな方だった。
あのマイスター家の子息だから恨みを持つ者にやられたんだとか、
また身内で何か不穏なことでもあったんだろうとか、
事故で怪我したとのことだとか、
狩りで失敗したとか、
色々と勝手に傷が出来た理由を憶測で噂をしていた。
そうして嘲笑っていた。
中には「この国の花園にはもう美しい赤い花が一輪もがいらっしゃいませんのね」「元から赤に美しいものはないですわ。血の色ですもの」「この国に必要なのは緑の大地と気品の紫だけですもの」と個人の不運な事象を系統同士のマウントに使う輩まで現れた。
まあその輩は赤や黄の同等の輩共にシグリ様の傷のことを持ち出され、緑の上級貴族に泣きつこうとしたところ、テウタテス卿に「全員気に食わねぇなぁ」と纏めてぶっ飛ばされてたがな。
卿の暴挙には騒然となったし、今回のパーティを出禁にされていたが、「よっしゃ、こんな不味い空気吸ってたくねぇ」と笑って退場していく姿には拍手を送りたくなった。
緑の異端者テウタテス卿には、辟易することもよくあるが、こういうことは彼にしか出来ないのでたまに憧れてしまう。
俺は、系統の勢力関係や、家同士の関係を考えるとそんな行動はどうしても取れない。
シグリ様は自身の配下であるテウタテス卿とマウントした輩どものどちらのしでかしたことにも、自身の傷のことを持ち出されたことにも気を病んでおられたが、そこまで責任を負う必要はないだろう。
どうしようもない連中はどんなに上が頑張って矯正しようとしたところでどうしようもないし、テウタテス卿はそんな連中をふっ飛ばして満足して笑っていた。それで終わりでいいだろう。
オリス卿とシャムロック卿や周囲の令嬢達はそれでもシグリ様を思って慰めようとしていた。
だが、テウタテス卿を追い出して帰ってきたテレル卿の感情を一切挟まない業務連絡の方がよっぽど気を紛らわしていた気がする。
そんな後でも、フェンリール卿の話を皆していた。それ程、注目されるような事件だったのだ。
傷を隠すために、化粧をしたり、仮面を隠したりするのだろうかとか、今夜はやっぱり訪れないんだろうとかも言われていた。
そんな中、フェンリール卿は来た。
いつも通り、父親であるマイスター家の少し後ろをデアーグ卿とついて歩いていた。
音を立てず背筋を伸ばして歩くフェンリール卿は、その背の高さや美貌もあっていつも迫力がある。
長時間眺めたくなるような容姿だが、その長いまつ毛に縁取られた赤い双眼と目があってしまうことは皆何処か恐れ多いのか、横目で見るのが通常だ。
だが、今日に至っては、右目下にくっきりとついた傷の線が周囲の目を奪ってから逃しやしない。
とはいえ良識のある人々は、人様の傷をじろじろと見るのは失礼だろうと冷や汗をかいていたり、いつも通りの振る舞いをしようとしていたり、逆にいつも以上に気を使って対応すべきか頭を悩ませていた。
俺はといえば、目を逸らした結果デアーグ卿と目があってしまい気まずい思いをした。
正直、デアーグ卿のことは昔から相性が悪いだろうなと本能的に悟っている。
そんな空気の中、颯爽とフェンリール卿に駆け寄られた方がいた。
「怪我をしたと耳にしましたが、傷の痛みなど大丈夫でしょうか?」
黒髪に紫水晶を想起させる瞳、我らが紫系統の次期当主ヴァルファ様だ。
凛とした声には一切穢れた空気が無い。
俺から見てもフェンリール卿の性質は落ち着いている。敵対系統の上位貴族であるヴァルファ様相手でも純粋な心配に対して無下な対応はしないだろうと静観する。
これが他の赤や黄の連中ならば、俺は紫の侯爵家の人間としてヴァルファ様のことをいつでもお守りできるように駆け寄る。
噂は鵜呑みにするものではないが、火の無いところに煙は立たない。赤の連中の周りには物騒な噂が多すぎる。
黄の悪い噂は亡くなった第一王妃の話が大抵だが、本能があいつらに近づくべきではないと毎回叫ぶし、たまに話せば毎回言いようのない違和感を感じる。
そこのところを考えると赤の連中は話している時には別に危機感を感じないな。敵意混じりの皮肉は浴びせられるし、感情が逆立っているのは感じ取れるが。
そしてフェンリール卿に至っては、敵意どころか感情の乱れ、いや波も感じない。
「ハイドフェルド家の御子息に心配をお掛けしたようで申し訳ありません。大丈夫です。この傷に苦痛などありません」
優雅に一礼した後に、応える声はとても穏やかだった。秋に赤い月を窓辺で茶を嗜みながら眺めているような、穏やかさだった。
ほら、波がなく静かだ。でもいつもは静か過ぎて人間味すら感じないのに、今日はどこか温かさを感じる。
顔に傷を負ってしまったのなら冷たい尖った雰囲気を纏ってもおかしくないのに、むしろ逆だった。
「ですが、随分と深い傷と見受けられます。俺から司祭様にお願いをしますから、神殿で治療を受けることにしたら……」
「そのお心遣いには感謝します」
しかしヴァルファ様の気遣いの言葉の何かが気に障ったのか、フェンリール卿の感情が急に波打った。
「ですが、そのことはもう赤のウアタイル公爵とも話合わせて頂きました」
俺でも感じ取れたその波に気づかない筈がない、ヴァルファ様もしまったという顔をされた。
「その上で、この顔でこの場に出席しています」
「あえて傷を残したということですか?」
「はい、この傷は誇りですから」
間髪をいれずにフェンリール卿はそう答える。
「誇りを苦痛にも邪魔にも思うことはないです」
念押しするように、そう言葉を続けるフェンリール卿に異論を唱えることは誰にも出来ない。
それ程、揺るぎがなかった。
嘲笑や憐憫する隙を一切生じさせない。
そんな対象ではこの傷はないと本気で思っているのを思い知らされる。
むしろ勝ち誇っているとも取れるくらいの自信を感じた。いや、勝ち誇っていた。ヴァルファ様に対して何かを、それが何かは分からない。
「卿はその傷と、傷のついた理由を誇らしく大切に想っておられるんだな」
「……はい」
静かな返事をしたフェンリール卿の口元が僅かに弧を描く。
それだけで暗い夜の庭の中で、一輪の真紅の薔薇を見つけた時のような華やかさと、妖艶さを感じる。
普段「赤氷」と呼ばれるくらい表情が変わらないその方のそんな顔を見て、僕を含め観衆は息を呑んで見惚れる。
「余計な心配をしてしまったようだな」
「いえ、お立場もあるのに心配して下さってありがとうございます」
しかし僅かに恐怖も感じた。
普段波立たないフェンリール卿のことをこんなに揺るがす誇りが全く俺には見当がつかなかったから。