挿話21 紫の侯爵子息が菖蒲戦を申し込んだわけ
「初めてその方のお目にかかった時、わたしは息をするのを忘れた。
「ヴァルファ・ロッツ・ハイドフェルドだ。よろしくたのむ、クロッツ卿」
真っ黒で艶のある短髪に、青みがかった知性を湛えた紫の瞳に、幼いながらも端正な顔。
神話に出てくるカラビト様が目の前に現れて下さったのかと勘違いしてしまう程、その方は美しかった。
勿論、顔だけでそう思ったのではない。あの方から感じる、雰囲気も美しかったのだ。真っ直ぐで淀みがなかった。
公爵家子息といえど、一つ年下の子供には違いないと少し軽く思っていたわたしだが、対面すると格が違うのだと言うことが、すぐにはっきり分かった。
威圧感と言うには少し違う。この方の下について行くべきなのだと言う確信を持たされたのだ不思議と。
「よ、よろしくお願いいたします。貴方に仕えることが出来て大変光栄でございます!」
そう言った瞬間だった。
「ヴァル! いっしょににあーそーぼ!」
窓から人が入ってきた。わたしは三階にいた筈。
明るい茶の髪はボサボサ、服装もきっちりしてなくてだらしないが、爛々と光るその瞳はどうにも素晴らしかった。
ヴァルファ様をあだ名で呼ぶなんてと本来なら憤るところだが、不思議と口を出せなかった。
また、当人のヴァルファ様も呼び方には別に気にしてないようだった。
「あ、ごめんね。おとりこみちゅうだったの?」
「そうだ。クロッツ卿がびっくりしてる」
「クロッツ卿ってシュリーマン侯爵の長男だよね。顔合わせ?」
「ああ。アルは何をしに来たんだ?」
「姉上おこらせたから、にげてきたの」
「シグリ様をあまりこまらせるな、アル」
勝手知ったるように会話が進んでいくが、ヴァルファ様の『アル』呼びと『シグリ様』という名前で乱入者が誰か分かって、更に背筋を伸ばしたものだ。
「別にショートケーキのいちご食べただけだよ」
「シグリ様の分まで食べるな。ケーキはきちんと分配された分を食べるんだ」
「だって、足りないもん」
「足りなくともがまんだ。あとで、うちからいちご持っていこう。そうして、みんなで同じ分だけ食べよう。シグリ様にも久しぶりに会いたい」
「うん分かったよ。姉上もヴァルが来てくれると喜ぶよ」
話していた内容はケーキについてだが、ヴァルファ様の顔は真剣だった。
たとえケーキだろうが、いけないことは真面目に注意した。そして、ちゃっかり向こうの家に行くことを取り付けてもいた。
なんだこれは、見た目だけでなく、中身までも清らかなカラビト様のようだ。
当時のわたしはその清らかさのあまり、一切お二人から目をそらすことができなかった。
「あと、アル。挨拶しないと駄目だ」
「あ、そうだったね。初めましてクロッツ・ヴォーゲ・シュリーマン侯爵子息。僕はアルフレッド・レトガー・シュトックハウゼンだよ。急におじゃましちゃってごめんね。あと、最近そちらの家で妹が生まれたみたいだね、おめでとう」
「邪魔だなんて滅相もございません。お会いできて光栄です。妹のこともありがとうございます」
予想通りシュトックハウゼン公爵家の長男、アルフレッド様でいらっしゃった。
運動神経が飛び抜けていて、実力主義の家だけあって、型破りなお方だった。
しかし、最近生まれたわたしの妹のことをちゃんと話題に出しているあたり、貴族のこともないがしろにしてる訳ではなさそうだった。
「姉上が女の子ってきいてよろこんでたから、よろしく言っといてほしいな」
妹はまだ生まれたてだったので言葉は理解できないが、その日の夜には「よろしく」と声をかけにいった。提携先の緑の公爵家のシグリ様に誕生を喜ばれたなんて、我が妹ながら幸せものだ。
「はい」
「そういえば、姉君のグゼル嬢は最近たいちょうをくずされたようだが、大丈夫か?」
「はい、薬がよく効いたらしく、今は元気にしております」
ヴァルファ様もヴァルファ様で、姉上の体調不良を気にかけていらっしゃったようだ。社交辞令だとしても有難かった。
「それは良かったね。もうかいふくしてるみたいだけど、あとでそちらの家にハチミツを送るよ」
「それはいいな。こちらからもいちごを送っておく」
公爵子息二人が下位の侯爵家のことを気にかけて下さった。幼いながらもこの二人は、上に立つ者として、下の者達のことをよく考えて下さっているようだった。
凛とした高貴な紫も、溌剌とした天真爛漫な緑も、どちらも素晴らしかった。
「お心遣い、誠に感謝致します」
***
「マイスター侯爵子息、貴方に菖蒲戦を申し込みたい」
今日から、また通い出した二年の首席にわたしはそう申し出た。
赤い瞳に、赤茶の癖っ毛の短髪。見た目だけでも赤系統の人間だと分かるその人は、返答に「なんでぇ?」と気の抜ける口調で返してきた。
「二年の首席が軍関連の家ではないままにしておくのは、悔しいので」
「別によくない? あれに関してはペーパーテストなんだし」
「噂に聞けば、最初の実技テストでも、二位を取ったとか……これを放っておくのは紫の侯爵家の名折れです。来年入学される公爵家のお二人にも面目が立ちません」
「別に気にすることはないでしょぉ? 俺の家だって赤の戦闘といっちゃあ違うけど、そういう系統の家に違いないんだから。それとも、大勢の前で一年トップも負けて恥をかきたいの?」
挑発では多分なかった。本気で目の前の男はわたしの負けを確信していたのだ。
挑発することすらもしないのだ。こいつはわたし達を本気で舐め腐っているから。下に見ているから。
こいつが同等の貴族の子息に対してきちんと振る舞っているのはこの学校内では見かけない。一応目上には敬語を使うし、相応の振る舞いをするが、尊敬はしていないのだろうなと節々から感じられる。
それ程、この学校を舐め腐っている。
舐め腐っているこいつを正せる人物も見たことがない。どんな厳しい先生の怒号も効きやしない。そして座学も実技も優秀な為、そこで根性を叩きのめすことも出来ない。
「負けないように、もちろん対策はします。ですが負けることより、挑まずにいる方が恥だと思うので今回、菖蒲戦を挑ませて頂きました」
気怠げな赤の瞳をじっと見つめる。
色こそ綺麗な赤だが、その目はがらんどうだった。わたしのことをただ視界に入れているだけだった。
「菖蒲戦ねぇ……正直面倒くさい。俺にメリットがありそうにないんだけどぉ」
そう言われることは大体予想がついていた。菖蒲戦は申し込まれた側が断れば、成り立たない。
でも、そのがらんどうな目の持ち主が座学主席、実技次席で実質上の学年で一番の実力者だということを放ってはおけなかった。軍学校に対して敬意どころか対した関心がなく、素行不良によって停学になるような奴だぞ。
「デアーグ卿が勝てば、わたしに何か一つ命令できます」
「それって逆も言えるけどねぇ。ま、俺は負けないけどぉ。……キミに命令することなんて無いし」
その通りだ。わたしに出来ることは大体デアーグ卿にも可能な事だ。だけど、ここで引き下がるのは御免だ。
春に入学する尊敬するヴァルファ様やその御友人のアルフレッド様に「三年のトップは赤の侯爵子息です。下克上は誰もしませんでした」なんて言えない。
「わたしは、調査能力に長けています。その能力を使えば、そちらの家業を手伝うことも――」
「クロッツ卿、俺の家は紫の家に手伝って貰う程、落ちぶれてないんだけどぉ」
「お気に障ったなら申し訳ありません。ですが、情報源が増えて損することは」
「ねぇ、クロッツ卿。俺が紫系統を追い込むような指示を出した場合どうするのぉ?」
菖蒲戦は絶対だ。けれど、わたしは紫系統の人間で、裏切ることも出来ない。
「その時は申し訳ありませんが、舌を噛んで死にます」
「あっそ、じゃあ役に立たないじゃん。君も何もそんなバカ真面目に正直に答えなければいいのにぃ」
「こちらが申し込んでるのに無礼な真似はできないです」
確かに彼の言う通りだが、仕方ない。これがわたしの誇りだ。紫系統の人間を、身内を裏切らない。どっかの身内殺しが噂によく廻る赤の系統とは違うのだ。断られてしまうだろう。
「ふーん。ま、いいやとにかくお断――いや、ちょっと待てよ……キミ、感覚機能が鋭い人間だっけ?」
「? はい。嗅覚は特に鋭いです」
「……今回だけだからねぇ」
もう無理かと思っていたところ急な方針転換に目を見張る。何がデアーグ卿の琴線に触れたのか分からないが、とにかく菖蒲戦を受けて貰えるみたいだ。
「感謝します。手続き等はこちらで全てやります」
とりあえずお礼に頭を下げれば、顔が見えない状況なのにも関わらずデアーグ卿が不機嫌になったのがなんとなく分かった。
「俺さ、紫が大嫌いなんだ。いつも綺麗で正しいって振る舞いをするから。綺麗で正しいってことの裏にどれだけの汚れや間違いがあるのか気づきもしないから」
冷え切った赤の子息の声に警戒から反射的に顔を上げる。
「だから、俺はそれを引き摺り出してぇ、自分達にも見えるようにしてあげるんだぁ」
通常なら、デアーグ卿の失礼な物言いに反論していただろう。けれど、夕焼けの光が窓から差し込みつつもどこか薄暗い廊下で見る彼の作り笑顔は壮絶で、何も口に出来なかった。
「お高く止まって気持ちよくなってるから、いつか現実を叩きつけてあげるねぇ」
舐め腐ってるなんて安易な感情じゃない。これは嫌悪だ、憎悪だ。




