中途半端な存在15‐2
押さえつけられている所為であたりを見回すなんてこと出来なかったが、耳は封じられてない。
だから鮮明に聞こえた全てが、
自分の呼吸の音も、
風の音や地面を踏む音も、
緑の異端者の状況についていけてないというような反応も、
息を殺すように耐えるカイのことも、カイを嬲るデアーグの存在も、
耐えられないというように飛び出そうとするオリス様を止めるテレル様の声も、
カイを心配するカイの知り合いの声も、
逆に彼を馬鹿にする笑い声も、
どちらでもなくただ試合の流れを見て騒ぐ大衆の喧騒も、
――全て聞いた上で、ぼくはそれらを掻き消す歌の一音目を発した。
ヘススに歌ったのと同じ子守唄を、あの時とは違って会場中に聞こえるように。
『人前で歌うな、お前が見つかってしまう。利用されてしまう』
そんなことを随分昔に言われた。だからずっと大勢の前で歌うことは避けていた。
だけどそんなのもうどうでもいい。
ぼくの人生なんかより、カイの身の安全の方が大事に決まってる。
優先するべきはぼくではなく、カイだ。
緑のバケモノ相手に身体能力で及ばないのは当然だ。だから別の領域でねじ伏せろ。ぼくにはその能力がある。今、使わないでどうする。
眠らせろ!
黙らせろ!
跪かせろ!
従わせろ!
支配しろ!
自分に出せる最大限の声量で、
でも子守唄らしく自分の激しい感情とは裏腹に穏やかで安心できるような声音で、
最高の技巧で歌え。
押さえつけられていて息がしにくくかろうが、全力で歌え。
緑の異端者は勿論、デアーグや、カイ、観客も、この場にいる全ての人間をみんな夢の世界に叩き込め。
元からぼくは正攻法で闘うタイプではないのだから、仕事の時のように無抵抗にしてしまえ。全て眠らせてしまえば、唯一起きているぼくが全て自由に出来る。
少し経てば背中に乗っていた緑の異端者からは力が抜けた。
ほら、あんなにどうすることも出来なかった奴も、少し歌っただけでこのザマだ。
ぼくは歌うのをやめて、彼の下から抜け出して、カイの元に急いで向かう。
地面に倒れているカイの近くに、デアーグは立っていた。
緑の異端者は爆睡しているのに、
観客席の前の方の人々は全員深い眠りに落ちているのに、
後方の席の人々もうとうとしているのに、
同じ系統の能力を持つだけあって、この距離でぼくの歌を聞いても、デアーグの目は閉じられてなかった。
その事実に血の気が一瞬引きそうになるが、彼の様子を見てすぐに思い直す。
全く効いていない訳ではなく、酷い眠気には襲われているようだった。そっか、同系統の能力を持つと言ってもぼくの方が能力が強いもんな。眠らせるまではいかなくとも、隙を作るくらいは出来てる。
頭を押さえてふらふらとしている彼の前からカイを抱えて回収する。
今しかない。
みんなが眠っていて、デアーグも強い眠気でふらついている今でしか、二人で場外にはなれない。
審判も眠らせてしまっているので、反則負けは出来ないから。
カイがぼくより背が低くて良かった。カイがぼくより大きい大男だったりしたら、彼を持ち上げたりは出来なかっただろう。それでも時間とぼくの力の関係上、姫抱きになるのは避けられない。
カイが知ったら嫌がるかもしれないけれど、みんな寝ていて見えてないだろうから許してくれ。
今はそんなことより、早くこのまま場外に――、
「歌っちゃ駄目って言ったよねぇ……」
背筋が凍った。反射的に振り向けば、赤い瞳とばちりと目が合う。
「があ゛ああああああ‼︎」
デアーグが吠える。さっきのぼくの歌声よりも大きな声で、会場中の人間の鼓膜を破ろうとする勢いで叫んだ。
破壊的な音圧にぼくは歯を食い縛る。耳は両手が塞がっていて庇えない。
大きな音がぼくは苦手だ。
けどそんな弱音吐いてられない。
デアーグがあの状態からあんな声を出せたのを疑問に思ってる暇もない。
こうなったら一刻も早くカイと一緒に試合場の外に行かなければ。
しかし時は既に遅かった。
「おはようございまーす」
音がおかしかったが、おそらくそう言っていた。バケモノの声だ。
ぼくが向かおうとした出口との間に金髪が立ちはだかる。
そして一瞬で距離を詰められると、カイと引き離されぼくだけ投げられた。
文字通り投げられた。軽い物体のようにやまなりに投げられた。
真っ青な空はカイの瞳とさして変わらない色の癖に妙に憎たらしい。こんな、こんな時にどうしてこうも晴れ渡っているのだろう。
急なことに対応出来ず地面に叩きつけられると思ったが、そんなことは無かった。
「エルラフリート駄目でしょぉ? こんなとこで歌っちゃ。兄上にも報告するからねぇ」
上手く衝撃を緩和しながらぼくを受け止めたデアーグがそう眉をハの字にする。
その腕の中でぼくは自分の異変に気づき、耳に手を当てる。耳が変だ。デアーグが叫んだ時に近かった左耳が詰まったような感覚がする……さっきので左耳がやられた。
「ねぇ、聞いてるぅ?」
だが自分の異変なんてものは今はどうでもいい。今はカイのことが優先だ。
デアーグの腕の中から跳ね飛び、そのままカイの元へ走り出す。まだ彼は夢の中だ。起きるまでにこの最悪な状態をどうにかしないと。
カイの近くにいるのはデアーグでは無くなったが、緑の異端者、あいつもあいつで危険だ。カイに対してこれ以上の危害は与えさせない。
「聞いてないねぇ?」
足を掴まれ、バランスを崩して倒れる。腕を掴むのではなく、わざわざしゃがんで足を掴むところに悪意を感じる。危うく顔面から行くところだった。
くそっ、やっぱりデアーグをどうにかしないと向こうに行けないか。効きは悪いけど、全く効かない訳ではないからもう一度歌うか。両手をついて上体を起こしながらそんなことを画策すれば――、
「それとも無視してるぅ?」
「っ⁉︎」
指を口内に突っ込まれた。
予想外のデアーグの行動に頭が真っ白になっているとまた体の動きを封じられる。
歌えない、喋れない。
どうにか上手く口を動かそうとするも唾液が開きっぱなしの口から溢れるだけだった。パタパタと落ちる唾液が地面に小さな円を作る。
後ろ手になった両手首を掴む手はぬるついていた。振り解こうともがくが振り解けなかった。でも手首を掴んでくる掌の一部に違和感があって、そこから血が流れているのは分かった。
……さっきデアーグがあんなすぐに叫べたのは、自分に傷をつけて目を覚ましたからか。
自分も似たようなことを最近やったので、すぐに分かった。
「はなへっ(離せ)!」
「力では俺には敵わないって昔から知ってるでしょぉ? あきらめなよ」
右耳の側で囁かれた言葉が癇に障って仕方がない。カイのことを諦めるなんて言語道断だ。
確かに身体的能力では悔しいがデアーグに身体構造上敵いにくい。
技術でもデアーグの方が上回っているのを知っている。なんなら技術面では彼に昔教わった部分もある。
敵うのはおそらく血に関する能力だけだ。
昔からどうしても正規のデアーグより、ぼくの方が効力が強いんだと疑問には思っていたがそんな疑問はどうでもいい。多少発せない音があれど、まだ歌える。まだ抗える。まだ助けられる。
なのにそれさえも察されて、指で舌を固定され制限される。口の中の違和感と不快感が半端ない。
外させる為に思い切り指に噛み付くが、デアーグは全く動じなかった。血の鉄臭い味がぼくの舌が少し感じ取ったにも関わらず、彼は後ろでくすくすと笑った。
予想外の反応に思考が停止する。
「いいよぉ、噛んでも。俺の血美味しぃ?」
体が震えた。顎に力が入れられなくなる。
「ねぇ、エル。俺はねぇ、エルにだったらこの指を噛みちぎられたっていいよぉ。一生残る傷が出来たって、それがエルがやったっていうのなら良いものだものぉ」
優しい声だった。
最近聞いた中でも一番優しい、小さな子供に語りかけるような声だった。
それだけあって、恐ろしかった。
……自分の指を噛みちぎっていいよだなんて、
それで残る欠損を良いものだなんて狂気にも程がある。
愕然とするぼくの背後で、デアーグは歌うように言葉を紡ぐ。
「兄上ともお揃いになるねぇ。
どっかの馬鹿共がねぇ……兄上の右目下の傷を見てさ、傷があって可哀想とか、せっかくの美貌なのにとか失礼なこと抜かしてたけど、兄上にとってはその傷が多分自分の外見の中で一番なの。
だってその傷触った後、いつも一瞬穏やかな顔するんだよぉ。
へへぇ、俺も兄上もエルが大好きなんだぁ!」
左耳がおかしくなっててよかった。だって両耳正常でこんな言葉聞いたら耐えられない。
この状態ならああ耳がおかしくなってるから、言葉が変な風に聞こえてるんだって可能性もまだあるから。
「だから噛みちぎってもいいよぉ。
俺にもそれが出来るなら嬉しいもの。
兄上とお揃いなのも、
エルが残る傷をつけてくれるのも、
うれしいもの」
嘘だ。もう無理だ。
吐きそうだった。泣きそうだった。泣く権利も吐く権利も無いのにね。
生憎片方耳がおかしくなっていようが、もう片方はばっちり正常なのだ。
それでも、それでも願ってしまう。
これ以上はもう嫌だ。昔はただの臆病だった男の子が、ぼくのせいでこんな狂気に堕ちたなんて、これ以上まざまざと感じさせられたくない。
必死に必死に正常な右耳でデアーグ以外の情報を拾おうとする。
じゃないと正気を保てない。いやもうとっくにおかしくなっているのかもしれない。それでもそれでも自分なりにまともな自我を保てるように、必死にデアーグ以外の音に耳を傾ける。
「にゃはぁっ」
すると右耳が不快な笑い声を捉える。
ハッとしてなんとか口に指が入ったまま顔を上げれば、緑の異端者とカイの姿が見えた。
鈴の音が一定の感覚で鳴っている。正常な右耳でははっきりと、異常な左耳では歪んでその音が聞こえる。
緑の異端者がカイを踏んでいた。
何遍も何遍も身を守るように体を丸くするカイを踏んでいた。
横っ腹を、
顔面を、
脚を、
腕を、
容赦なく踏んでいた。
日に焼けた手足がところどころ赤や、青になっている。踏まれる度に更に身を縮こめる姿が痛々しい。
いつも元気で、呑気に笑っている彼が、小さくなって震えている。
暴力に晒されている。
「――っ!」
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!
これだったら緑の異端者が言っていたペアへの攻撃で反則負けを狙うべきだった。そうした方が手加減も出来るし、手っ取り早くかつぼくが要因で試合を終わらせられたのに。
ぼくが、ぼくが、カイを傷つける訳がないだろうだなんて一見綺麗に見える理由をつけて、その選択肢を早々切り捨てた。
冷静に考えれば、カイを連れて場外なんかよりも上に上がってくるべき選択肢だっただろう。
だけどぼくは……多分カイに嫌われたくなかったんだ。
こんなんになって何をとも思うが、本当にカイに嫌われたくなかったのだ。
だから自分がカイを傷つけて賭けをさっさと終わらせるなんて選択肢を選べなかった。
だから、ぼく自身の事情も全然彼に話すことが出来なかった。
勿論、話してはいけないことや、話してしまうと普通に彼に危険な目に遭うことももあるけれど、それを伏せて話すことも出来たのだ。
でも、しなかった。出来なかった。
怖かったんだ。
あの笑顔が、あの溌剌とした声がぼくに向けられなくなったらと思うと、怖くて出来なかった。本当にカイの身を第一にするのなら、そんなエゴは捨て置くべきだったのに。
そんなエゴを捨てて、ぼくの醜いバケモノの部分を少し見せれば、彼はとっくのとうにぼくから逃げて、こんな目に遭うことはなかったのに。それかぼくが彼を思いきり拒絶すれば良かったのに。
でもぼくはエゴを捨てられなかった。彼に嫌われたくなかった。
突き放していいと言っておきながら、本当はそんな覚悟もなかった。
本当に彼を護りたいのなら、離れるべきだった。だけど出来なかった。
だってぼくは、
――カイ・キルマーの友人で居続けたかったんだ。
カイはこんなふうに傷つけられるべきじゃない人なのに、
ぼくの所為で、ぼくが何回も選択肢を間違えたから、ぼくが欲深いからっ!
声も上げられない今のぼくには、ただカイが暴力にさらされるのを見るしか出来ない。