後編
アランは、最近のリネットがどこかおかしいことに気づいていた。
いつから、と聞かれればハッキリと言えない。普段は本当にいつも通りなのだ。いつも通りに己の背中を殴って起きて、美味しい朝食を作ってくれて、仕事に送り出して、帰ってくるとすやすやと寝室で眠っている。その姿を見るたびに心の底から安心して、やはり考え過ぎかと思うこともあった。
けれど明らかに違うと感じたのは、物言わぬ妻の目だった。
深い海みたいに青い彼女の目が、時々燃えるような怒りに染まる時がある。だがそれは本当に一瞬で、確かめようとしてもすぐに伏せられる。そして彼女がその目をする時は、決まってアランがペンとノートを贈った時であった。
リネットが口をきかずとも大変気の強い娘だということは承知していた。
本人は気付いていないかもしれないが、彼女は思っていることが顔に出やすい。特に嫌だと思った時はすぐ顔に出る。形の良い眉をぐっと寄せて、猫のような目を釣り上がらせるのだ。すごい時は一日のほとんどをそんな顔で過ごしていることもある。
だが、そんなリネットにも顔が緩む時はもちろんある。それがお気に入りのパンを食べている時と、アランがペンとノートを贈った時だった。
その表情を初めて見たのは結婚してから一月ほど経った頃だ。その日は、珍しく早く終わった仕事の帰りにパン屋を見つけた。どうやら最近できたばかりらしかった。美味しそうだったのでリネットと一緒に食べようと思って買ったのを覚えている。
その時の、パンを食べたリネットの顔は、衝撃的すぎて今でも忘れられない。アランにはこの世のどの女性よりも美しく、可愛らしく、綺麗に見えた。
その後、もう一度、またもう一度とその表情が見たくて、早く帰った時は決まってそこのパンを買いまくっていた。そしたら、夜に食べていた筈のそれがいつの間にかリネットの朝ご飯に回っていた。
夜に食べないのかと聞くと、『太った』とご機嫌斜めな回答が返ってきたので何も言えなかった。
それならば、といつもより早起きして朝ご飯を一緒に食べるのを続けたが、一月で限界が来た。もともと夜型で朝が弱いのに加えて、仕事のせいで寝るのも遅いアランには土台無理な話であった。
そこで、アランはパンに代わりうる次の存在を探した。そして思いついたのが、筆談で使うペンとノートだった。
以前から筆談の際に粗い紙に書きづらそうにしているのを見て、もっと上質なものを贈ろうと思っていたため、ちょうど良かったのもある。
ペンとノートを貰った時のリネットの顔は、パンの時とはまた少し違っていた。まるで宝物を見つけたようにキラキラした顔で、何度も何度もペンやノートを撫でていた。
そして、少し困ったような恥ずかしそうな、何とも言えない可愛らしい表情で『ありがとう、アラン』と小さな文字で、ノートの隅にそう書いたのだ。
奇しくも、その時が初めてリネットがアランの名を呼んだ瞬間でもあった。
それからずっと、アランは出先で貴重なペンやノートを見つけてはリネットに贈っている。
贈った時の、少し困ったような嬉しそうな、そんなリネットの顔が見たくて、可愛らしい小さな文字で『アラン』と呼ばれたくて、ずっと贈っている。
だから、最近のリネットの様子は不安だった。ペンやノートを贈っても、困ったような顔をしなくなった。『ありがとう、アラン』そう書かれた文字が以前と違うように感じるようになった。
彼女の怒りに対する心当たりは沢山ある。ありすぎて、逆にどれか分からない。リネットはいつも腹を立てていて、アランはいつも彼女を怒らせている。
◇
アランにリネットとの結婚を持ちかけたのは、彼女の父親だった。「借金はもう返せそうにない。代わりに娘を連れていってくれ。まだ若い。妻にどうだ」そんなことを言っていた気がする。二人は金貸しと負債者の関係だった。
その提案を聞いた時、哀れだなと見下す気持ちと、貰っても良いかもという気持ちが湧いた。
最近結婚した従業員が、随分と幸せそうなのが正直羨ましかったのもある。「社長も嫁さんもらったら、人生変わりますよ」と惚気た表情で言われた。
奥さんいいなぁ、俺も癒されたい。リネットを買ったのは、本当にそんな愚かな理由だった。
リネットと初めて会った時、無口で大人しそうな子だなと思った。うるさいのは苦手なので、ちょうど良いとさえ思った。
……今だから分かるが、あの時のリネットは怯えていたのだ。今にも泣き出しそうな、不安げなあの表情は、その時以来一度も見ていない。
リネットの纏う雰囲気がガラリと変わったのは、それからすぐ後のことだった。その日の朝、彼女はアランに『なぜ自分を買ったのか』と書いた紙を差し出してきた。
突然のことにアランは驚いた。なぜ、紙? 話せば良いのに。そんな配慮のかけらもないことを考えた。
その後すぐに、リネットが喉を押さえて首を横に振ったことで漸く彼女が話せないのだと分かった。その時まで、アランはリネットが口を利けないことすら知らなかった。否、知ろうともしなかった。
予想だにしなかった事実に軽く衝撃を受けながら、聞かれたことをそのまま包み隠さず答えた。
その時の発言を思い出すと、今のアランは本当に自分を殺してしまいたくなる。もし過去に戻れるなら、昔の自分の口を塞いで絞め殺したかった。
けれど、それはできない。自分をこの世で一番殺したいのは、リネットだろうから。
『分かりました』
アランの言葉の後、リネットは同じ紙にそう書いた。そのあと続けて『これからよろしくお願いします』と書いて、部屋から出て行った。瞳は終始伏せられていて、一度も合わなかった。
一体どれほどの力を込めて書いたのか、『よろしくお願いします』の文字は震えていて、彼女が握っていたペンの先が少しだけ曲がっていたのを、アランはずっと覚えている。
おそらく、その時からリネットは今のリネットになった。形の良い眉をぐっと顰めて、猫のような目をつりあがらせて、アランにいつも腹を立てている。柔らかい身体に巻きついて寝れば、朝は強烈な一撃が飛んでくる。リネットの一挙一動が可愛くて、構ってもらえるのが嬉しくて、だらしない顔をするアランを不機嫌そうに睨む。何か気に障るようなことをすれば、食事にトマトを大量に入れて反撃してくる。優しく名前を呼べば、身体をびくりと固まらせる。最初は固まるだけだったのが、いつの間にか耳が赤くなるようになった。それに気がついた時は、幸せすぎて、愛おしすぎて、胸が張り裂けそうだった。
「社長も嫁さんもらったら、人生変わりますよ」という話は、本当だった。
アランの世界はリネットと一緒に過ごすことで一変した。誰かに作ってもらう食事がこんなに美味しいものなのだと、誰かと一緒にいることがこんなにも楽しいものなのだと、誰かを想うことがこんなにも幸せなものなのだと、彼女が教えてくれた。
それと同時に、愚かで傲慢だった自分が、リネットから沢山のものを奪ったことに気づいた。彼女の尊厳を踏みにじったことに気づいた。
アランはリネットを愛している。彼女に自分を愛せと命じて、その身を自分のもとに縛りつける力も、金も、地位もある。
だが資格はなかった。リネットに愛していると告げる資格も、リネットが自分を拒絶して逃げるのを止める資格も、アランにはなかった。
だから、仕事が終わって家に帰ってくる時はいつも不安でたまらなかった。もし寝室にリネットが居なかったら? そう考えると、全身の震えが止まらない。
祈るように扉を開けて、二つ並んだ奥のベッドで小さな身体が規則正しく上下しているのを見てホッとする。この一連の流れを、もう随分と長いことしている。
もしリネットがアランの側にいてくれるなら、死ぬまでずっとやったって構わなかった。
◇
「東門近くの仕立て屋の息子が今夜駆け落ちするらしいですよ」
アランにそう言ったのは、従業員の中でも一番情報通の部下だった。
東門近くの仕立て屋といえば、貴族御用達の高級店だ。良くも悪くも伝統を重んじるところで、一人息子は隣町のデカい商家の娘と親に決められて婚約していたはずだ。
「そうか。相手は?」
「平民だそうです。目撃情報によると金髪の若い女ですね」
金髪の若い女。そう聞いただけで少し鳥肌が立った。頭の片隅に金髪碧眼の妻の顔が浮かぶ。ただ同じ頭髪なだけだ。深く考えすぎだと自分に無理矢理言い聞かせた。
無意識に机の上にある煙草に手が伸びた。アランは喫煙者だ。心が不安定な時に煙草を吸うと、少し楽になる気がして中々手離せない。もちろんリネットの前で吸ったことはないし、これからも吸わないだろう。この紫煙は肺を侵すことを知っていた。
リネットが煙草について何も言ってきた事は無いので、もしかしたら彼女はアランが煙草を吸っていることすら知らないかもしれない。
一服した後、灰皿に押しつけて、話の続きを促した。
「……女の名前は?」
「確か……マリネットですね。仕立て屋の近くの医院でそう呼ばれていたそうです」
「…………」
「……社長?」
「……ああ、いや……」
不思議そうな顔をする部下から見えないように、両手をさり気なくデスクの下に隠した。さっきから手の震えが止まらない。
似ている、「リネット」に。「マリネット」という名が、もし聞き間違いだったとしたら? 偽名として彼女が使っているものだったら?
それに仕立て屋の近くの医院といえば、リネットが声の治療のために通っている。この間彼女の様子がおかしくなる直前の時期に行っていたことも知っていた。
落ち着け、ただの偶然だ。第一、リネットと仕立て屋の息子は面識なんかないはずだ。必死に自分に言い聞かせて、拳を強く握って震えを何とか止めようとする。
けれども、嫌な想像は止まらない。最近のリネットの様子がおかしかったことも、それに拍車をかけている。誰もいない寝室を思い浮かべると、吐き気がした。考えすぎだ。考えすぎだ。
「……社長、大丈夫ですか? 顔真っ青ですよ。体調悪いなら、俺らが後はやっておきますけど……」
「……悪いな。頼む」
目蓋を閉じれば、怒りに染まった、あの時の青い瞳が思い起こされる。ずっと背筋に冷たいものが走っている感覚がある。ひたり、ひたりと何か得体の知れない恐ろしいものがずっと自分の背後から迫ってくる気がするのだ。
一刻も早く、アランは家に帰りたかった。
◇
今日はいつもより随分と早い時間だ。もしかしたらリネットも起きているかもしれない。一瞬抱いたそんな希望は、真っ黒な自宅の窓に潰される。家の明かりが点いていない。
……大丈夫だ。外から見えない奥の部屋にいるだけだ。そう思いながらも、自然と足が早まった。
そして、震える手でそっと玄関の扉を開ける。音も立てずに開けた先、真っ暗な部屋の中に、一筋の光が奥の戸から漏れていた。
「はぁー……」
全身の力が抜ける。
なんだ。やっぱり考えすぎだった。リネットは奥の部屋に居ただけだ。きっと寝る前に本でも読んでいるのだろう。
「……ぅ、……ぁ!」
その時ふと、何かが聞こえた。……何の音だ、これは。音にもなりきらない、空気が混じったもののように聞こえる。
「……ぁ、…ぁ、…ぅ、ゔっ!」
それに混じって、かすかに苦しそうな呻き声も聞こえた。まるで喉を無理矢理引きちぎったような声だ。
まさか、と思ってアランは急いで寝室に向かった。
「——リネット!」
「……ぁ、…っ!?」
扉を開けると、苦しそうに肩で息をして、喉を押さえている妻がいた。……もしや、無理矢理声を出そうとしているのか。
何故お前がここにいる。見開かれた妻の目は、雄弁に彼女の驚きを語っていた。
そして一瞬で、その青い瞳は怒りに燃える。
「…ぁ、…ぅ!…!」
「やめろ!そんな無理矢理声を出しては喉が潰れる!」
「…ぅ、ぁ!ぁ!…ぁゔ!」
「やめるんだリネット!!」
口を塞ごうと近づいたアランをリネットは突き飛ばす。それでもアランが必死に近づいて口を塞ぐと、その手を何度も引っ掻いて無理矢理引き剥がした。
興奮しているからか、呼吸するたびにヒューヒューとリネットの喉から音が鳴る。「お願いだ、もうやめてくれ!」と夫は泣いていた。泣きたいのはリネットの方だ。いい加減にしろ。
リネットはあの夜から今日までずっと、独りで声を出す練習をしていた。なのに、この喉は一向に使い物にならない。熱くて、渇いて、痛くて、それでも必死に出そうとしているのに。目の前のこの男ただ一人に罵声を浴びせたいだけなのに。口汚く罵って、絶望の淵に叩き落として、逃げてやるつもりだったのに。
なのに、この男は何も知らない顔をして呑気に此処に現れた。まだ声すらも出ていないのに。罵ることもできないのに。こいつはリネットから復讐の機会まで奪うのか。
リネットは必死で声帯を震わせる。まるで空気に溺れて藻搔いているような気分だった。
「お願いだ、お願いだ、もうやめるんだ…やめてくれ…!」
泣きながらアランがリネットに縋り付いてくる。もう一度その身体を突き放そうとする前に、大きな腕に抱き込まれた。何とか抜け出そうと暴れても、絶対にアランは腕を離さなかった。
リネットを抱きしめたまま、ずっとずっと震えている。ずっとずっと泣いている。リネットが口汚く罵らなくても、この世の終わりみたいな、絶望の淵に叩き落とされた表情をしている。
「……ごめん、ごめんリネット。俺を、俺を許してくれ。愚かな俺を許してくれ……」
耳の横で、啜り泣く声に混じって、そんな言葉が聞こえた。
「……君を傷つけた俺を、君を踏みにじった俺を、君を愛している俺を、許してくれ……」
いつの間にかリネットの身体は止まっていた。目と鼻の先にあるアランの顔を見る。ドロドロのぐちゃぐちゃの醜くて汚い顔は、今にも死んでしまいそうなくらい絶望に塗れていた。
この顔に唾を吐き捨ててやれば、どれだけ気が晴れるだろうか。この顔を横から思いっきり叩けば、どんなに気分が良いだろうか。
そう思ったのに、リネットは何故か男の涙を指で拭ってやっている。優しく、壊れ物を扱うように、男の頬を手の平で包んでやっている。目の前の男の涙を見て、自分も泣いている。
リネットは二年前のあの日からずっと怒っている。ずっとずっと、今までずっと怒っている。
リネットを物のように気まぐれで買ったこの男に、そのくせリネットを宝物のように大切に扱うこの男に、リネットから沢山奪っておきながら、尊厳を踏みにじっておきながら、愛しているなどと巫山戯たことを嘯く傲慢なこの男に、怒っている。
……けれど、ずっと怒っているのは疲れる。
本当は、朝起きて抱き締められているのは嫌じゃない。リネットが世話を焼くと、些細なことでも必ず「ありがとう」と言ってくれるのが嬉しい。優しく名前を呼ばれると心が温かくなる。お礼を伝えると喜ぶ顔が見たくて、もう引き出しに入りきらないほどのペンとノートを受け取っている。
もしかしたら、リネットは心の何処かでこの時を待っていたのかもしれない。彼を許す時を。
今までが嘘のように、喉のつかえがスッととれた。
「……ぁ、」
「…リネット!」
口を開いた途端にアランが顔を歪めた。どうやらこの男は、この世の何よりもリネットが傷つくのが嫌らしい。真っ先に傷つけたのは自分のくせに。
そう思うと、腹立たしい。けれど、決して不快ではない。
「……ぁ、ら、ん」
八年ぶりに聞いた自分の声は、しゃがれていて、つっかえていて、少し低くて、醜くて、まるで物語に出てくる悪い魔女の声のようだった。だがそれでも自分の声だ。紙やペンを使わない、リネットの声だ。
「…あ、らん、…あな、た、を……ゆる、すわ。……わた、しも、…あ、なた、を……あい、し、て、いる、から」
罵声を生み出すはずだったリネットの喉は、どうしたことか、目の前の固まったまま動かない男に許しを与えて、愛を囁いている。
本当にどうかしている。そう思うのに、リネットは何故か小さく微笑んでいた。
「……あ、あ、あ、リネット……」
「な、に?」
「きみ、君、声が……」
「でた、わ。わか、らない、の? ばか、ね」
「ああ!リネット!リネット!!リネット!!!」
「うる、さい」
興奮して大声をあげるアランに、リネットは顔を顰める。いつものように睨みつけてやるが、嬉しさで頰を紅潮させ、感無量のアランはそれどころではなかった。腕の中のリネットをぎゅうぎゅう抱き締めて、頭やら頬やら唇やらにキスの雨を降らせてくる。
「リネット!リネット!好きだ!愛してる!愛してる!!」
「うるさ、い。だま、り、なさい。みみ、ざわり」
「…り、リネット……」
予想以上のリネットの辛口具合にアランの勢いが少し落ち着く。やはり、声は良い。睨み付けるより格段に効果がある。
この際なので、リネットはある事を言っておくことにした。
「あらん」
「ん? 何だい?」
「……わた、し、たばこ、の、におい、は、きらいよ」
だから、もう吸わないでね。そう言った時のアランの呆けた顔は、見ていてなかなかスッとした。