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前編

 朝、リネットは息苦しさで目が覚めた。

 寝起きでぼんやりとする中、胸に重さを感じる。それから誰かの腕が腰に巻きつく感触も。

 気怠げに視線を下に向けると、予想通りの赤毛がそこにいた。仰向けになったリネットの胸を枕にしながら、赤毛の男はすうすうと規則正しい寝息を立てている。


 リネットの眠りを邪魔しておいて、自分は気持ちよさそうに眠るとは全く腹の立つ男だ。

 ハァと小さいため息を吐いて、リネットはうんざりしたような顔をした。それからバシバシと強めに男の背を叩く。


「ゔぅん……」


 不愉快そうな、くぐもった声が胸元から聞こえる。

 そして、抵抗するように更に顔を押し付けてくるから余計に腹が立つ。これだからこの男と一緒に寝るのは嫌なのだ。


「リネット……」


 かすれた声で唐突に自分の名前が呼ばれて、リネットは一瞬固まった。おそるおそる下を見ると、男はまだ目を閉じていた。

 ……寝言か、まったく紛らわしい。リネットは形の良い眉をしかめた。たかだか名前を呼ばれただけでこんなに動揺する自分も鬱陶しかった。


 大体、何故この男はいつもリネットの寝台にいるのか。

 ちらりと横にあるもう一つの寝台を見ると、シーツが乱れた様子はなく、男が昨夜遅くに仕事から帰って来てリネットの所に直行したことが分かる。


 すんと鼻から空気を吸い込むと、微かに煙草の匂いがした。寝る前に吸ったのだろうか。リネットはこの匂いが嫌いだった。だが、それを男に伝えたことはない。面倒だったのもあるし、なんだか自分の弱みを見せて甘えているみたいで癪に障るのだ。


「…………」


 一向に男が起きる気配がないので、もう一度強めに背中をバシバシと叩く。が、今度は反応すらない。

 結局、痺れを切らしたリネットが拳で背中を一発殴るまで、男は一度も彼女を離そうとはしなかった。



 ◇



 まだまだ起きる様子のない男の腕から何とか抜け出したリネットは、身支度のため鏡の前に立っていた。

 鏡に映る金髪碧眼の気の強そうな女と目が合う。リネットはこの髪色と瞳の色が嫌いだった。彼女を売った父親と同じ色だからだ。


 リネットは町にある小さな商家の生まれだった。兄弟はおらず、大好きだった母親は十四の時に他界した。それから直ぐに父親が酒と賭け事に溺れて、多額の借金ができた。家はあっという間に潰れて、リネットは父親の借金を返すために必死で働いた。

 そして二十歳になったばかりのある日、日雇いの仕事から帰ってきた彼女に、父親は突然会ったこともない知らない男と結婚するようにと言った。知人の紹介で知り合った男が家の借金を肩代わりする代償に、自分を妻にと望んだらしい。


 要するに、リネットは借金の形に父親に売られたのだ。


 小さく舌打ちして、リネットは鏡から目を背けた。朝から随分と嫌なことを思い出した。鏡を見るといつもこうだ。せめて髪と瞳のどちらかだけでも、母親と同じ色だったら良かったのに。


 身支度もそこそこに、リネットはキッチンに向かった。

 戸棚からパンを取り出すと、注いだミルクと一緒に黙々と一人で食べる。この家のパンはフワフワで柔らかくてとても美味しい。リネットが今まで食べていたパサパサで固いパンとは大違いだ。この時ばかりはキツくつりあがったリネットの目元も緩む。


 ふと何気なく、空いた向かいの席を見る。椅子の背には男物の上着が無造作に掛けられていた。未だ寝室でスヤスヤと寝ているあの男のものである。

 シワになるから止めて欲しいと再三伝えているのに、聞き入れてくれた試しが無い。それどころかリネットにそうやって注意されるのを待っている節がある。どうやらリネットに世話を焼かれたり、かまってもらったりするのが嬉しいらしい。大変気持ちが悪い。


 朝食を食べ終えたリネットは、立ち上がると上着を手に取った。先に述べた理由から、最近の彼女は何も言わずに男の上着を衣装棚にしまっておくことにしている。それでも男は気にしないのか、衣装棚をわざわざ開けて、掛けられた自分の上着をニヤニヤしながら眺めていることもある。やっぱり気持ち悪い。


 キッチンに戻ったリネットは食器を片付けると、男の朝食を用意し始めた。

 金で買われた妻であるリネットだが、夫である男に衣食住の面倒を見てもらっている分、せめて掃除や食事の用意など自分にできることはしようと決めていた。

 男は別にそういった役割を求めてリネットを買ったわけでは無いらしいが、何もせずにただ男に養われるというのがリネットには我慢ならなかった。


 この家に来たばかりの頃、一度だけリネットは男に尋ねてみたことがある。「なぜ自分を買ったのか」と。

 その時から二年ほど経った今でも愚かなことを聞いたなと思う。心のどこかで期待していたのかもしれない。容姿も整っていて、年齢もリネットと七つしか変わらない、金持ちの男が借金まみれで不出来な自分を選んだことに特別な何かがあるのを。


 そんなリネットに対して、男はこう言った。


「うーん? 別に、何となく。奥さんとか、居たらいいなー、癒されるかなーと思って」


 ……理由らしい理由なんてものはそもそも無かった。

 まるで愛玩用のペットを飼うかのように、ただ男の気まぐれでリネットの人生は買われたらしかった。


 その返答を聞いた時、リネットは直ぐに己を恥じた。何処かで悲劇のヒロインめいた自惚れが自分にはあったようだ。目の前の男に何かを期待すること自体間違っている。借金の形に娘を売る父親もろくでもないが、それを買う奴もろくでもないということをすっかり失念していたのだ。


 まったく腹が立つ。自分にも男にも。リネットの眉間に自然と皺がよる。今日は何かと嫌なことを思い出す日だ。腹いせに男の朝食のサラダに苦手なトマトをこれでもかと入れてやった。


「あー! ちょっとちょっと! そんなにトマト入れないでほしいな」


 突如として背後から聞こえた声に、リネットの肩は大きく跳ねた。いつの間に起きたのだ。振り返る間もなく、後ろからふわりと抱きしめられる。


「いくら俺の健康を考えてくれてるからって、これはさすがに入れすぎじゃない?」

「…………」


 いいから黙って文句を言わずに食べろ。横から視界に入り込んでくる赤毛をリネットは睨みつけた。

 が、そんなことを気にも留めない男は上機嫌に彼女に頰を寄せる。剃る前の髭がチクチクとして非常に不快である。

 お腹の前にゆるく回っていた男の腕が、ゆっくりと腰回りに移動し始めたので、リネットはそれを容赦無くはたき落とした。


「あいてっ」と言った男の声は無視して、リネットは食卓に出来上がった料理を並べた。


「今日も美味しそうだ」


 リネットの後ろをノコノコついて来た男は、嬉しそうに席につく。もちろん背もたれにあったはずの上着が片付けられているのを見てニヤつくのも忘れない。


「上着、しまってくれたんだ。ありがとう」


 男の素直な感謝にリネットも静かに頷く。礼を言われるのは悪い気はしない。椅子にかけなければもっと良いのだが。


「あ、ちょっと待ってリネット」


 洗い物でもしようかと食卓を離れかけたリネットを男が引き留める。

 それから、どこから取り出したのかペンとノートを差し出して来た。

 ペンは藍色の持ち手の部分に金の意匠が施されていて、リネットの好みのものだった。ノートも書きやすそうで上質な紙が丁寧に綴じられている。どちらも一目で高価なものだと分かる。


「これ、プレゼント。また筆談の時に使って欲しいな」

「…………」


 リネットは珍しく眉を下げて、困ったような顔をした。男が彼女にペンやノートを贈るのは今月で三度目だ。

 筆談のため、男が初めてペンやノートを贈った時、らしくもなくリネットは随分と喜んだ。そのせいなのか、それからも男は出先で珍しいペンやノートを見つけるたび、こうして買ってくるようになってしまった。既にリネットの机の引き出しは以前贈られたペンやノートでいっぱいだ。


 それでも男はこうして買ってくる。当分筆談には困らないほどの量をリネットが持て余していると知っていてもなお、ペンとノートをリネットに贈るのだ。


「もういらない」と一言、貰ったノートに書いて伝えれば良いだけの話かもしれない。そうすればきっと男はまた違うものを自分に渡すだろう。

 リネットは受け取ったノートにペンを走らせる。


 サッと書いたその言葉を男に向けた。


『ありがとう、アラン』

「うん、どういたしましてリネット」


 けれど、この言葉を書くと嬉しそうに微笑む男を見ると、まぁ伝えるのは次でいいかとリネットはいつも思い直すのだ。



 ◇



 リネットは口がきけない。正確には、()()()()()()()

 十四歳の時に母が亡くなった後、ある日突然声が出なくなった。無理矢理出そうとしても(かす)れた、しゃがれた声しかでない。

 声帯に異常はなく、当時の医者は恐らく心因的なものだろうと言った。親しい人の死など、ショックなことがあった時、声が出なくなる人がいるそうだ。母の死の直後ということもあり、リネットもそう診断された。明確な治療法はなく、自然と治るのを待つしかないらしい。


 他の人は一体どのくらいで治るのかリネットの知ったことではないが、八年経った今でも声はまったく出ない。


 おかげで父の借金を返すため、仕事を探した時には苦労した。幸いなことに読み書きはできるので筆談で意思疎通が可能なのだが、普通に会話するより時間がかかるため、喋れないと分かった時点で大抵弾かれた。


 だから、父親に結婚しろと言われたときには「嫌だ」「なんで私が」みたいな悲観的な気持ちより、「何故わざわざ私なんかを?」という純粋な疑問が勝った。

 リネットは特別美人でもないし、頭が特別良いわけでもない。加えて借金まみれで声も出ない。客観的に見ても、自分が誰かに求められるような人間ではないと分かっていた。

 まあ、だからこそアランにあんな馬鹿な質問をしたのかもしれないが。









「……もしかしたら、声が出ない原因はもうお母様が亡くなられたことではないかもしれませんね」


 そう告げた白衣の男性は、眺めていた記録(カルテ)から此方に視線を移した。彼はリネットのかかりつけの医者だ。

 朝食を終えたアランが仕事に行くのを見送った後、現在リネットは町の小さな医院に居た。

 彼女は声の治療のために此処に通院している。治療といっても、大体は喉に異常がないかの検査と簡単な問診で終わるのだが。


 医者の先程の言葉に、リネットはペンを走らせた。


『心因的なものではない?』

「いえ、声が出ないのは心因的なもので間違いありません。声帯も正常ですし。私が言いたいのは、はじめ発症の原因であったお母様の死はもう克服されたのでは、ということです」

「…………」


 医者の言葉にリネットは固まる。

 ……言われてみれば心当たりはあった。実はリネットは母の死の前後のことが今はもう殆ど思い出せなくなっていた。その代わり、幼い頃の楽しかった母との記憶や、彼女が口ずさんでいた歌、その時の嬉しそうな母の顔は今でも鮮明に思い出せる。

 悲しくて辛い記憶は頭の中からどんどん抜け落ちていって、楽しくて美しい記憶だけが残されていく。これが医者の言う克服であるのなら、そうなのかもしれない。


 少し考えた後、リネットは再びペンを走らせる。


『原因、母の死違う。では、何故声出ない?』

「……それ以外の別の心理的な要因がまた生じたと考えられます。例えば……そうですね、人間関係のもつれや過度な環境の変化で発症する方もいますよ」


 人間関係のもつれ、過度な環境の変化……リネットの脳裏に父親の顔と馬車馬のように働いた六年が過ぎていく。確かにそれもあるかもしれない。また嫌なことを思い出した。舌打ちしかけたが、医者の手前だったので我慢した。

 途端に顔を歪めたリネットに医者は苦笑した後、言葉を続けた。


「治療に熱心な旦那様もいらっしゃいますし、奥様の場合は違うかなぁと思っていたんですが……」

「…………」


 そうなのだ。実はリネットが通院し始めたのは夫のアランと結婚してからであった。

 それまでのリネットはとにかく働いて少しでも借金を返すのに必死で、医者にかかるだなんて、微塵も考えてもいなかった。そもそもいずれは自然に治るだろうと言われたものなのだ。放っておけばいつかは声も出ると思っていた。


 そんな彼女に対して、アランは通院することを強く勧めた。一度きちんと医者に診てもらった方がいいと。この国では珍しい心に関する病を扱う医者がいるこの医院も、アランが伝手を使って見つけてくれたところだ。


 当時のリネットは「気まぐれで買ったくせに随分と金をかける。まさかもう別の所に売るのか?」と(いぶか)った見方しかできなかったが、医者には妻に献身的な夫として映ったようだ。


「ご夫婦の間で何か悩み事などはありますか?」

「…………」


 リネットの声が出ないのは、どうやらアランとの夫婦関係が原因ではないかと疑われているらしい。

 確かに毎朝リネットの胸を枕代わりにするのは腹が立つし、リネットが彼にした些細なことでニヤニヤするのも気持ちが悪い。それにアランが優しくリネットの名を呼んだだけで、勝手に早まる自分の心臓も鬱陶しかった。


「夫がいつも腹立たしくて気持ち悪いです」そう医者に伝えればいいのだろうか。そうすれば、リネットの声は戻るのか。少なくとも、医者は何らかの対策は取ってくれるだろう。もしかしたら、アランと離れることだってあり得るかもしれない。

 そこまで考えて、リネットは目蓋を閉じた。真っ暗なはずの視界に、朝の嬉しそうなアランの顔が浮かぶ。これは、リネットがお礼を伝えた時の顔だ。たった今、彼女が使っている藍色のペンと上質なノートの。


「……奥様?」

「…………」


 心配そうな医者の声には答えずに、リネットは無言でペンを走らせる。


『特にないです。夫は大切にしてくれます。とっても』


 最後の「とっても」は書いている途中で恥ずかしくなってきて、他よりずっと小さい文字になった。



 ◇



 診察室から出たリネットはホッと小さく息をついた。

 形の良い眉は例の如く(しか)められているが、下ろした金髪に隠れた両耳はひどく赤い。


 まったく、大変な目にあった。リネットは誤解されては困るからと、そう思って書いただけなのに。あの医者の何かくすぐったいものを見るような目ときたら!

 居た堪れなくてその場から今すぐ消えたくなった。これも全部あの男のせいだ。今度大きな生のトマトを食事に出してやる。

 そんな恨み言をつらつら心の中で吐き出しながら、リネットは出口に向かう。


 その時ふと、出口の近くにある椅子に座っている女と目が合った。リネットと同じ金髪だが、瞳の色は紫だった。綺麗な色だな、と純粋に思う。

 女の顔色は随分と悪そうだった。まあ医院にいるのだから体調が悪いのも当たり前と言われればそうなのだが。それにしたって、女はどこか不安げな、切羽詰まった顔をしていた。


 見て見ぬ振りもできなくて、リネットはペンとノートを取り出した。


『大丈夫ですか?』

「あ…え…?」


 突然始まった筆談に、女は事態が飲み込めていないようだった。

 リネットは自分の喉を指差して、顔を横に振って、それから腕でバツ印を作った。それで分かったらしい。女の顔から困惑が消えた。


『体調悪そうです。看護師さん呼ぶ?』

「あ……良いんです良いんです、そんな……もうすぐ順番も来て呼ばれるはずですし……」


 女は下がり気味の眉をより一層下げてそう言った。リネットとは全く逆の、穏やかで優しそうな顔立ちだった。


「……ネットさーん。マリネットさん、いらっしゃいませんか?」


 看護師が呼ぶ声がする。目の前の女がハッと顔を上げて立ちがった。察するに、彼女が「マリネットさん」らしい。


「……あ、あの、呼ばれたので……失礼します。ご心配いただきありがとうございます」


 遠慮がちな女の言葉に、リネットも頷いた。そのまま去っていく小さな背中をしばらく見送って、出口に向かう。


「…………」


 彼女にはかえって気を遣わせてしまったかもしれない。突然知らない女に紙越しとはいえ話しかけられて、きっと驚いただろう。なんだか申し訳ないことをしたなと思いながらリネットは帰路に着いた。



 ◇



 その日の夜遅く、物音でリネットは目を覚ました。

 時計を確認をするとアランが帰ってくるいつもの時間だった。


 この家にはアランとリネットの二人しか住んでいない。

 金持ちならば使用人の一人や二人いてもおかしくないのだが、結婚当初から使用人は誰もいなかった。

 アランは「俺、そういうのにあんまり頓着しないんだ」と誤魔化していたが、結婚前に雇っていた家政婦が盗みを働いたというのがその理由ではないかとリネットは思っている。前に弁当を届けに行った時、夫の部下から聞いた。町の情報通である。


 そんなことをつらつらと考えていると、寝室に向かってくる足音がした。いつもならこのまま気にせず再び眠るのだが、今日は何故だかすっかり目が覚めてしまって寝られそうもない。

 医院に行ってから、今日の自分の調子が少しおかしいことをリネットは自覚していた。家に帰ってからもずっと、どうして医者にあんな小っ恥ずかしいことを伝えたのかと後悔に苛まれている。もっと良い表現があったはずだ。「夫婦関係は良好です」とか。


 どんどん近づいてくる足音に、だんだん心臓もバクバクし出して、思わずリネットはきつく目を閉じた。それから入り口に背を向けて、狸寝入りを決め込む。


 ガチャッと扉の開く音がした。先程とは打って変わって、足音がほとんど聞こえなくなる。どうやら部屋に入ってからはリネットを起こさないように気遣っているらしい。何だかむず痒くなって、リネットは唇にもきつく力を込めた。


 そのままゆっくりとアランが近づいてくる気配がする。……まさか、寝たフリがバレた? いや、バレたところでどうということはないはずだ。それなら何故、こんなに緊張しているのだろうか。リネットは自分でもよく分からなかった。


 こんなことなら、さっさと身体を起こして「おかえり」と出迎えてあげれば良かったかもしれない。……いや、何故そんなことをリネットがしなければならないのだ。する義理がない。そう思い直す。


「……今日もちゃんと居る」


 ふと、そんな言葉がリネットの耳に届いた。

 少し気の抜けた、ホッとしたような、そんな声だった。


 目を閉じたまま固まるリネットに気付いていないのか、アランはそのまま寝台に上がってきて後ろからリネットを抱き込んだ。それから彼女の細い肩に顔を埋めて、押し付けるようにぐりぐりと動かす。地味に痛い。

 しばらく経って満足したのか、深く息を吐いたアランは、数秒後には規則正しい寝息を立て始めた。随分と寝入りの良い男である。


 そんなことよりも、先程の「今日もちゃんと居る」とはどういう意味だ。結婚してから今までの約二年間、リネットがアランを置いて夜に抜け出したことなんてない。()()()()()()()()()事などないのだ。たまにこうしてアランが帰ってくる物音で目を覚ますこともあったが、それも一瞬のことで、いつもこの寝室で爆睡していたはずだ。


 まさか、いつもこうして確認していたのだろうか。リネットがちゃんと家に居て、自分の帰りを待っているのか、…………逃げ出してはいないか。

 先程の安堵するアランの声が、耳にこびりついて消えない。


 そんなはずはない。リネットは己の爪が食い込むほど拳を握った。

 そんなの、そんなのまるでアランがリネットを失うのを恐れているみたいじゃないか。リネットをかけがえのない存在だと、想ってるみたいだ。


 ……今までも、可愛がられて、大切にされていることは嫌でも理解していた。こうして何不自由ない生活をさせてくれて、声が出ないリネットを医者にまでかからせてくれた。それくらい分かる。

 けれど、それは幼子がお気に入りの玩具を大事にするのと同じことだと思っていた。いくら気に入っても、いつかは飽きて捨てられるのだと。だからこの二年間、馬鹿みたいに虚勢を張って生きてきたのに。


 ふざけるのも大概にしろ。忌々しい男だ。どれだけリネットを馬鹿にしたら気が済むのだ。

「何となく」と言ったくせに。気まぐれでリネットの人生を買ったくせに。必死に働いて借金をいつか返し終えたら、母に立派なお墓を作るという、ささやかなリネットの夢も台無しにしたくせに。

 今更そんな風に想われたって嬉しくなどはない。そうなるなら、そんな風に想ってくれるなら、最初からそうして欲しかった。嘘でも良いから、「気の毒だったから」とか、「一目惚れだったから」とか、そんなどうでもいい、馬鹿みたいな理由にしてくれたら良かったのに。


 そしたら、単純なリネットはもっと素直にアランを愛せたのに。


「……ぁ、ぅっ、ゔ……!」


 必死に声をあげようとしても、喉からは唸るような掠れた音とヒューヒューと渇いた空気しか出ない。

 腹が立っても、どれだけ怒りに震えても、相手に罵声の一つも浴びせることができないことが、リネットは悔しくて、忌まわしくて、情けなくてたまらなかった。


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