『暗紅』
寝相の悪いせいでずれたブランケットをかける。
薄目を開けると暗黒の世界は一瞬にして純白に輝く。
どこからともなく響くピアノの旋律がまだ電源の入ったばかりの鼓膜を揺らす。
パッヘルベルのカノンだ。
きっと下の階に住むあの家族の娘さんだろう。
なんだ、まだアラームは鳴っていないじゃないか。
まぁこんな日があってもいいだろう。
裸足でぺたぺた歩いて台所へ。
昨日から出しっぱなしのコップを軽くゆすいで水を飲む。
埃っぽいフローリングをぺたぺた歩く。
冷蔵庫から凍った食パンを出してトースターに叩き込む。
そしてさっきまでいた部屋にぺたぺた戻る。
リモコンが見つからないことに少しイラッとして足で直接テレビの電源を付ける。
『えー、これは正気の沙汰ではないでしょう』
なくなりかけた髪をてかてかの整髪料でぺしゃんこにした頭のおっさんがなにかしゃべっている。
『警視庁によると今朝見つかった女性の死体にも、全身に大量の蕁麻疹と右の鎖骨に切り付けられたような痕があったということです』
深刻な顔をして女性キャスターがテレビ越しに俺の顔を見る。
あぁ、またこの事件か。
ここ最近連日報道されている、女性を狙った殺人事件。
ちょうど俺と同い年くらいの。
物騒な世の中だ。
そんなことを考えていたらトースターがしょぼくれた音をたてた。
優雅な朝食の時間にしよう。
その時だった。
インターホンが鳴った。
誰だ、こんな時間から。
友人が尋ねてくる予定はない。
ネットショッピングをした覚えもない。
某放送局が受信料の取り立てにきたのか。
そんなことを考えている間も、不快なベルは鳴り止まない。
おかしい。
ただ事ではない予感がした。
安アパートのドアにはのぞき穴がついていない。
三日坊主になっていたスケートボードを左手に取りドアノブをまわす。
その刹那、黒い影が突っ込んできた。
後ろに倒れる俺。
なにがなんだかわからない。
思わず自分に覆いかぶさる物体をスケートボードで叩く。
「痛い!痛いよ!」
女の声、しかもどこかで聞いたことある声だ。
くるっと身体を返して声の正体を床に押さえ付ける。
幼なじみだった。
何年ぶりだろうこうして顔を見るのは。
「重いよ!離して!」
力を抜いて手をどける。
緊張の糸が切れた途端にどっと疲れが沸き上がった。
「いきなり人の家のインターホン連打して家主にタックルするなんてどう考えてもおかしいだろ、強盗かと思った」
いつものように冗談交じりに言うが反応はなかった。
幼なじみは泣いていた。
どうやらパジャマのようだった。
涙が服の襟に落ちる。
そうやって視線を下ろした俺はぎょっとした。
襟元に血がついている。
よく見るとズボンは薄汚れていて足の裏には無数の擦り傷もあった。
靴どころか靴下すら履いていなかったのだ。
「お前、なにがあった?」
「...殺されたの」
「え?」
戸惑う俺の顔をちらりと見て幼なじみは服のボタンに手をかける。
ひとつずつ、ひとつずつ、外されていくボタン。
それをすべて外し終わって幼なじみはパジャマを脱いだ。
そこには俺の想像していたような白い肌はなかった。
細い身体には蚊に刺されたかのような赤い点が無数に広がり、右の鎖骨から流れたのであろう血で下着が染まっていた。
「知ってるでしょ、例の事件」
話によると幼なじみは昨日の夜、ルームシェアしている友達と2人で晩酌をしてから眠りについたが数時間してから暑くて目が覚めたという。
冷房をつけたはずなのに暖房がついていて、喉が渇いた幼なじみはテーブルに置いてあったコップに入っていた水を飲んだ。
ふと気付くとトイレの電気がついていた、しかし物音ひとつしなかったので酔っ払った友達が寝てしまっているのかもしれないと思いトイレに向かった。
友達は案の定便器に突っ伏していたので起こそうと思い腕を持ったところ氷のように冷たく、米粒ほどの腫れ物が無数に広がり自分にまで乗り移ってきそうだったという。
抱きかかえてみると足元は赤く染まった海となった。
驚いて部屋にスマホを取りに行こうとしたら男が出てきて刃物で右の鎖骨を切り付けられた。
命からがら逃げ出してそのまま幼なじみの俺の家に来たというわけだ。
寝ぼけ眼で見たニュースが脳裏によみがえる。
「その蕁麻疹は」
「多分、あの時飲んだ水、置いた記憶ないもの」
「じゃあ全部あの男が用意していたのか、知っている人だった?」
「顔なんて見えるわけないじゃない真夜中よ」
「...とりあえずシャワー浴びてこい、Tシャツと短パンくらいならあるから」
すっかり固くなってしまった食パンを噛みちぎりながら状況を整理する。
まさか久しぶりの幼なじみとの再会がこんな形になるとは。
あいつとは幼稚園から高校まで同じだった、いわゆる腐れ縁ってやつだと思う。
大学に進学してからもちょくちょく会ってはいたが、3年生になって就活も念頭に置きはじめた時期でお互い忙しく連絡すらとっていなかった。
しばらくかくまってあげなきゃだな。
机に散乱した成人向け雑誌をベッドの下に放り込む。
幼なじみはとてもモテた、昔からそうだったが高校時代は特にすごかった。
学年なんか関係なしに告られまくってた。
なのに全部断っていた。
モテ期なんて経験したことのない俺にとっては全くもって理解不能だった。
そんな奴と一緒にいるもんだから、彼氏だと勘違いされた。
幼なじみを好いた先輩たちに呼び出されて危うくリンチされそうになったこともある。
それでもあいつは涼しい顔して一緒に帰ろうと毎日誘ってきた。
それに腹をたてるどころか、むしろ俺はたまらなく嬉しかった。
幼なじみのことがずっと好きだった、もう昔の話だけど。
そんなこんなで俺もあいつも恋人ができたことはない。
今はどうなのか知らないけど、彼氏がいてもおかしくないだろう。
「はぁー、さっぱりした」
「お前さー、彼氏とかいるの?」
「...なにいきなり」
「別に、気になっただけ」
「いないよ、彼氏なんていらない」
「その考えはまだ健在だったか」
「なによ、悪い?」
「身長が伸びてなけりゃあ頭もそのままだもんな」
「喧嘩売ってるでしょ」
「いえいえ、滅相もございません、とりあえず食べるもんと下着買ってくるから」
「え、いいよ別に」
「ノーパンじゃ気持ち悪いだろ、それとも俺の履くか?」
「よくそうゆうこと平気で言えるね、だから彼女できないんだよ」
「とにかく、誰が来ても絶対に開けるなよ、すぐ戻るから」
近くのコンビニまで小走りで向かう、一人にしておくのは危険だ。
いつものように振る舞ってはいるけど本当は恐怖で精神的にかなりやられているはず。
あいつのことは誰よりもわかってるつもりだ。
だから今あいつを守れるのは俺しかいない。
おにぎりとカップラーメン、それから女性物の下着をカゴに放り込んで会計を済ませる。
レジの若い女の子に汚いものを見るような目で見られたが今はそんなこと気にしている余裕はない。
家に帰ると幼なじみは体育座りをしてテレビを見ていた。
相変わらずニュースの話題は今朝のことでもちきりだ。
コンビニのビニール袋を床に置いて幼なじみの横に座る。
「私も、こうなっちゃうのかな」
「大丈夫だよ、落ち着くまでここでゆっくりしていいから」
栄養的にかなり偏りのある食事を済ませると、幼なじみは俺のベッドで寝てしまった。
恐怖とつかの間の安心感でどっと眠気が襲ってきたのだろう。
薄いブランケットを幼なじみにかける。
幼なじみの横顔は相変わらず綺麗だった。
白く透き通るような首元、小さな身長に見合わないふくよかな胸。
男が寄ってくる理由がよくわかる。
「俺が、絶対守るからな」
眠りにつく顔が少し微笑んだような気がした。
ネットで例の事件のことを少し調べてみた。
犯行は夜の2時頃、20歳前後の女性を狙ったものであること。
発見された頃には既に死んでおり、死因は全て刃物による鎖骨下動脈の損傷による大量出血死だということ。
蕁麻疹は薬物によるものらしいが使用された薬物は特定できておらず、死因に関係しているかも不明だということ。
そして犯人はまだ捕まっていないということ。
ここからは俺の勝手な推測だが、幼なじみは傷口が浅く出血量が少なかったので生存できたと考えるのが妥当だろう。
しかし気になるのは蕁麻疹だ。
おそらく犯人の男の目的は殺すことよりも薬を飲ませること。
警察が調べても正体がわからない薬物を持っているということは科学者かなにかだろう。
薬を飲ませたあとに切り付けて出血させてその血液を採取すればそれはデータとして価値がつく。
どんな薬なのか、副作用や蕁麻疹の影響はあるのか。
未知数だらけだ、油断できない。
このまま病院に運んでいったところで治療法はおそらくないだろう、鎖骨からの出血も止まっている。
むしろ事件の被害者として初めての生存者なわけだから警察から取り調べを受けるはずだ。
犯人も血液の採取が目的なら追ってはこないだろう。
むしろ下手に動いてマスコミの餌食にでもなったら逆に危ない。
しばらくはここにいてもらうのがベストだ。
そんなこんなで俺たちは久しぶりの再会を楽しんだ。
幼なじみの体調にも目立った変化はなく、精神的にも安定したようだった。
大学もバイトも休んで極力幼なじみのそばにいれあげた。
けど、それも長くは続かなかった。
幼なじみが血を吐いた。
熱も出た、40度の高熱だ。
鎖骨を覆っていたかさぶたが真っ赤に腫れ上がり今にも溢れ出しそうだった。
蕁麻疹は顔にまで広がって俺の視界は紅色になった。
地獄に堕ちた気分だ。
俺の家に駆け込んできた翌日の夜のことだった。
なすすべもなく俺は幼なじみのそばにいた。
目は虚ろで、口を少し開けて苦しそうに呼吸をしていた。
俺にはなにもできないのか。
俺は守ってあげられなかったのか。
自分の不甲斐無さに涙が零れそうで部屋を出た。
なにげなくテレビをつけると1日をまとめるニュース番組がやっていた。
あれからというものの例の事件は起きてない。
世間は政治家の汚職事件に首ったけだった。
自然とあのことは忘れ去られていた。
なんて残酷なんだろう。
ここに苦しんでいる被害者がいるのに。
気付いたら眠ってしまっていたようだ。
夜中の2時、つけっぱなしのテレビはお笑い芸人たちが下品な話で盛り上がっていた。
冷蔵庫から冷えすぎたビールを取り出して電気を消す。
テレビの明かりをつまみに遅めの晩酌。
すると奥の部屋のドアが開いた。
幼なじみが立っていた。
部屋に戻って寝るように言っても幼なじみは聞かない。
「ねえ、好きだよ」
「寝ぼけてんのか、ベッドに戻れ」
「寝ぼけてなんかない!」
あまりの剣幕にビールが気管に入った。
「彼氏がいらないなんて嘘、全部嘘、物事ついた時から私たちは一緒、それがたまらなく幸せだった、あなたは誰かのものになってほしくなかったの、だから私も誰のものにもならずにいた」
むせる俺にいきなり告白する彼女。
「でもね、今は私はあなたのもの」
「なに言ってるんだよ」
「だって言ったよね、絶対守るからなって」
「...聞いてたのか」
「だからあなたも私のもの、だよ」
こいつ、本気だ。
彼女には大きくてサイズの合ってない俺のTシャツをおもむろに脱ぎはじめる。
光量の安定しないバックライトに照らされてシルエットが浮かび上がる。
そのまま彼女は俺の手をとって手の甲にキスをした。
目を見つめる彼女。
もうここから動けないと悟った。
「明日には私、もういないかもしれないんだよ、死んじゃってるかもしれないんだよ」
そう言って彼女は俺のTシャツを脱がせる。
「ずっと我慢してきた」
テレビを消して彼女は俺を押し倒した。
もう欲望に任せるしかなかった。
薄いカーペットの上でお互いの身体をまさぐる。
こんなにも人の身につけるものが邪魔に感じたことはない。
彼女に優しくキスをする。
懐かしい顔で微笑む彼女。
理性なんてもうどこにもない。
二人で生まれたままの姿になる。
真っ赤な彼女の身体を抱いた。
この色は流れる鮮血か、それとも燃える愛か。
欲望のままに愛し合った。
この十数年間お互いを覆っていた仮面は、もうない。
高校時代に何度も頭に思い浮かべたことを今、俺はしている。
幼なじみを犯すなんてどうかしてるだろう。
その背徳感が全身の産毛を逆立てる。
敏感に反応する身体。
身体だけは素直だった。
これが最初で最後かもしれない。
なのに不思議と恐くなかった。
彼女の奥の奥、一番奥まで伝わる体温。
叫びともとれる彼女の喘ぎ声を俺は一生忘れないだろう。
ただがむしゃらに腰を振った。
何度も二人は最高の快楽を得た。
満足そうな彼女の唇にそっとキスをする。
疲れきった俺たちは死んだように眠った。
寝相の悪いせいでずれたブランケットをかける。
薄目を開けると暗黒の世界は一瞬にして純白に輝く。
どこからともなく響くピアノの旋律がまだ電源の入ったばかりの鼓膜を揺らす。
パッヘルベルのカノンだ。
きっと下の階に住むあの家族の娘さんだろう。
もうアラームの鳴る時間はとっくに過ぎていた。
ずいぶん遅くまで眠っていたようだ。
朝起きると幼なじみはもう息をしていなかった。
全身に広がっていた蕁麻疹は消えていて、白く透き通るような身体には治りかけた鎖骨の傷だけが残っていた。
俺は泣いた、それはもう今までにないくらい泣いた。
ここ何日かがまるで夢のように思えた。
昨日のことが現実であることを示すようにカーペットには赤黒いシミが広がっていた。
一体どれほど時間が経ったのだろう。
体中の水分がすべてなくなってしまったのではないだろうか。
いつまでもこうしてはいられない。
飲みかけのビールの缶を片手にテレビをつける。
『連続薬物殺害事件の犯人が逮捕されました、犯人によりますと使用された薬物は体内に取り込んでから80時間以内に死に至らしめるものであったようです、また、鎖骨の傷や犯行の対象については事件に共通性を持たせる目的であった可能性が高いとして警察が動機を調べています』
結局俺がなにをしたところで結果は変わらなかったわけだ。
ビールを捨てて潰した缶をゴミ場に入れようとしたときだった。
手の甲になにか赤いものがある。
シャツをめくるとぽつぽつとまばらに赤い点が見えた。
『なお、使用された薬物は感染性のウイルスで粘膜の接触で感染することが犯人からの取り調べからわかっています、いずれにしても感染者は確認されておらず問題はないとみられます、では次のニュースです』
end.
※この作品は2016年執筆です。
この度公開するにあたって、表現を一部変更しました。