義 -Hey,bro!-
「義兄さん」
とある夜、都内の居酒屋。カウンターの隣に並んだ彼から思いもよらぬ言が届き、高遠英一は驚いた。そうして次の瞬間には、眉間に見事なシワが数本寄ったのを自覚する。
「なんだよその心底嫌そうな顔」
すぐさま心中を暴かれる。至極当然の反応だろうと、軽く鼻を鳴らしてから接いだ。
「何の嫌がらせだ」
「だって、事実じゃないか」
それはそうだが、と内心呟く。そう、隣に座る親友――国枝浩隆は、紛うことなき我が義弟、実妹である香奈の夫だ。
「だからって、なんで今」
二人が結婚したのは数年前。この間『義兄』と呼ぶ機会などいくらでもあったろうに、学生時代からの習いを急に改めるなどどんな心境の変化かと、手にした猪口を弄んだ。
「いやその……お前もカナちゃんから話を聞いたんだろ?」
直後、自らも手にしていた猪口を一口にあおった彼は、少し落ち着かない素振りで小さくうそぶいた。
「ああ、例の『報告』のことか。急で驚いたが、なにはともあれめでたいことだ」
「正直、不安なんだよ」
「ん?」
「だって仕方ないだろ、その……は、初めてなんだから」
そういう表情がいつになく、いや、これまでに見たことがないほどに弱気でおろおろと所在なげで。
だから、気づいた。
「なるほどな。それで突然『先輩』を敬おうって気になったわけか」
身近でしかも直近のロールモデルだからなとひとりごち、はぁぁぁぁと長く深いため息をつく。にわかに湧いたもやもやを、ホッケ焼きをつつきながら打ち付けた。
「冗談にも程がある。いいから黙って書店に行って育児雑誌を買え。イクメン沼の洗礼を甘んじて受けろ。そうじゃなきゃ正攻法で保健師の個別指導を受けることだ。本職だからな、それはそれは懇切丁寧に教えてくれるだろうよ」
「いや、それは」
「第一、お前の不安の解消のために、俺の心の安寧を脅かされてたまるか。よりにもよってお前から『義兄』呼ばわりされようなんて、この先一生かかったって慣れることもないだろうし、申し訳ないがそんな気にも一切なれない」
「うわ……なんだよその言い草、人が折角殊勝に……」
ふと途切れた言葉。少々突き放し過ぎただろうかと覗って三度驚いた。
「酒の力を借りてまで、勇気を振り絞ってやっと言ったっていうのに」
酒のせいではなく顔を真っ赤にして、ぼそっとこぼれ出た本音。珍しくいじけたふうの表情にそっと苦笑する。
それほどまでに、か。
無理もないと思い直す。確かに自分にも覚えがある。未経験の遭遇、誰かに頼りたい気持ちは理解できるし、実際に頼ってくれたって構わない。家族ならきっと協力してくれるだろうし、自分だってそのつもりでいる。
だから、なおのこと。
「馬鹿が。今更改まった関係になる必要なんてないだろ」
言いながら、左拳で彼のこめかみを小突いて諭す。
「なぁ、義弟くん?」
わざとからかい混じりに放つと、ぽかんとしていた彼の眉間に、またたく間に深いシワが寄った。
「確かに、まったく慣れる気がしないな」
心底げんなりした様子が見えて、むしろこちらがほっとした。
いいじゃないか、このままで。
いや、正確にはクラスチェンジか。
「そうだろ? な、『戦友』」
大切な唯一無二であることには変わりない。
けれどこと自分たちは、結局そのスタンスのままでいる方がしっくりくる気がするのだ。
変わってゆく環境、けれど変わらない関係。
親しくも適度な抜け感。心地よい距離感がこれからも続くことを切に願って。
「おめでとう、ヒロ」
英一は心からの祝福と激励を込めて、手にした猪口を眼前に掲げた。