プロローグ
ウェルナリア王国の南部に位置する辺境の田舎村デール。気候は温暖で野花の香りが乗った気持ちの良い風が吹く、長閑な日常がここにあった。
陽光の照らす小さな村の小さな家屋に、ひとつの家族が住んでいた。父親は畑を耕し母親は家事の切り盛りをしていた。蓄えは少なかったが、その日その日を幸せに暮らしていた。
そんなある日の太陽が頂点に達するより少し前、少年の高らかな声が飛んだ。
「父さん! 母さん! マルクとサラと木の実取りにいってくるね!」
「はいはい。暗くなる前に帰ってくるのよ~」
少年の名はジーク。出発したい気持ちが抑えられないとばかりに表情は輝くように明るい。そんな少年を明るく送り出す母の顔は優しさに満ちていた。
「ずるうい! お兄ちゃんばっかり! リリィもいきたいっ!」
「おう、ジークいってこい。リリィは父さんのお仕事してるところ見に来る約束だろー?」
「むーー。うん! 父さんのお仕事してるところみる!」
駄々をこねている可愛い天使は少年の妹であるリリィ。それを父親の約束を盾にした引き留め作戦によって、リリィの好奇心は軽やかに捌かれていた。
そんな光景を尻目に少年ジークは玄関から弾む足取りで飛び出した。
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村から少し離れたところにある切り株広場。そこに誰かを待つ少年と少女がいた。
「もーー! ジークったら遅いわ! まだこないわよ。もうお昼になっちゃうじゃない」
「そうかっかすんなよサラ。今日も例の特別教育ってやつで村長さんに怒られたのか?」
「うっさいわねマルク。お父さんの教え方が悪いのよ。せっかく魔導の才能が私にあっても、あんなにガミガミ言われたら分かるものも分からないわよ!」
サラはデールの村長の一人娘で魔導の才能を伸ばすために同年代の子たちから離れて、行商人に仕入れてもらった高価な魔導の教材で“特別教育”を受けていた。
「マルクはいいよね、次男坊だから。好きなことに時間を使えて羨ましいわ」
「まあな、鍛冶家は兄貴が継いでくれるだろうし親父もその気で俺に狩人の道を許してくれたっぽいしな」
マルクの家はデールの村唯一の鍛冶屋である。村の金物系刃物系の生産・修復を一手に引き受けている。その家業はマルクの兄マイクが継ぐようにと鍛えられているらしい。そのおかげかマルクは自分が興味を持った狩人になるための修業を行っている。得物は弓矢でいまも背中に担いでいる。
「でもマルク、あんたまだひとつも獲物に矢を当てられたことないじゃない! くすっ」
「まだ練習中だからだっ! 今に当たるさ、きっとな!」
「どうだかね~~?」
そんな談笑に発展してきた頃、切り株広場にジークが笑顔で額に珠の汗をつけて肩で息をしながらあらわれた。その両手には果実が3つほど抱えられていた。
「ハァ、二人とも遅れてごめん! 途中で近所のおばさんに手伝いを頼まれて、ハァ、どうしても断れなくてさ!」
「んもーー! ジークってば人が好すぎ! 私たち待ちくたびれちゃったわよ!」
「まあいいじゃないかサラ。ところでジーク、そのリンゴは近所のおばさんの駄賃替わりか?」
「ああ、そうなんだよ。ハァ、みんなで食べろっておばさんが」
そういってジークはリンゴをひとつずつサラとマルクに配って、三人はその場でリンゴにかじりつく。拳大のそれは瞬く間に芯だけとなっていった。
「やっぱリンゴって酸っぱいわね、私はもっと甘いモモとかが良かったわ」
「まあそう言うなって。ジークありがとな」
「二人を待たせちゃったからね、気にしないでよ」
「それじゃ、ジークも来たことだし。木の実を取りに行きましょ!」
そうして三人は切り株広場を後にして、森の奥へと繰り出していった。
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一方そのころジークの家では、父親とリリィが外出しているので母親が一人で小さな上着を裁縫していた。
「ふふふ、ジークったらすぐ汚すんだから。成長期だし早めに予備を作っておかないと」
息子の成長とわんぱくさに微笑む母親の顔は幸福感に満たされていた。スルスルと流れるように生地を縫い合わせて、立派な上着を作っていた。
そんなとき、母親が唐突に咳き込んだ。咄嗟に口元を覆った手のひらに何かが付着した感覚を覚え、確認してみると少なくない量の血が付いていた。
「えっ………?」
母親はしばらくの間呆然としたままだった――。