タイトル一文字。 同音異字から連想する物語、あいうえお順に書いてみた。
「す」 -素・巣・棲-
さ行
眠れない夜と起きれない朝を繰り返して、この部屋から出なくなって3ヶ月、
体内時計は一周してある意味健康的な日常がここにはあった。
トイレや更衣室で豹変する女性職員になじめなくて、入社して3ヶ月で会社を辞めた。怖いお局に個人攻撃されていたわけでもない。一般的な女の世界、交わされる愚痴や自慢話も軽いストレス解消程度で憂鬱になるほど恐ろしいものではなかった。多分、どこでもこんなもんなんだろうと頭では分かっていた。
だけど、私はダメだった。
学生時代に下手に築いた信頼と正義感が邪魔をした。
建前と本音は決して腹黒く嘘をついていることではなないと頭では分かっていても、そういう人を前に身体が受付けなかった。しかたがないと思えば楽なのに。それが社会人なんだよと言い聞かせてもダメだった。
そんなことしたら、あたしらしくない。
そんなことしたら、負けだ。
そう頑なに同じ場所から出られない自分がいた。そこで相手のいない勝負に負けることを恐れたあまり、あたしはすべてに負けて部屋からでられなくなった。
軽いウツだと診断され、わたしは部屋にいることをゆるされた。
生真面目な性格を知っている親も無理強いしなかった。
最近、近所で痴漢が出たせいか、気晴らしにどこかに出掛けたらなどとも勧めてこない。
似たようなマンションが立ち並ぶ自宅周辺、日が短くなる季節は痴漢は働きやすそうだ。
見飽きた天井をぼんやり見ていると、誰かが部屋の戸をノックした。
「素子、起きてる?」
「うん」
母親が戸を開けて入ってきた。
「なに?」
「具合はどう?」
「別に」
改まって状況を聞いてくる母に、”いいかげん、外にでなさい”といわれるのではないかと恐れ、わたしは不機嫌そうに返した。
「そんなに調子悪くないなら、頼みがあるんだけど」
「頼み?」
母は廊下にいる誰かに声を掛けた。
ドアと母の間から申し訳なさそうに小学生の女の子が顔をのぞかせた。
本音と建前に悩まされた私だが、自分を直視する幼い瞳にはどこか年上の女性としての威厳を保ちたい気分になって背筋をのばした。
「下の階の須藤さんちのマリエちゃん」
学生時代はマンションの下やエレベーターで何度か見かけたことがあった子だ。人見知りするのか、わたしを見つつも黙っていた。
「その子の頼み?」
「家庭教師頼まれたのよ。今6年生で中学受験するんだって」
「家庭教師……」
「大学の時やってたでしょ」
「そりゃ」
「家庭教師って行っても、うちに通ってもらって、あんたの部屋でやってほしいのよ」
「はぁ?」
「今まで頼んでた塾の先生やめちゃったらしくてね。新しい先生とウマが合わなくていい先生探してたところなのよ。痴漢騒ぎでこの変も物騒だし、遅くまで遠くの塾に通わせるのも心配だから家庭教師雇おうかしらって。あんたもずっと部屋にいるわけだし、いいリハビリになると思って」
「リハビリって」
「……お願いします」
母親に反論する一呼吸の間に、か細い声でマリエがつぶやいた。
あたしとはウマが合うと思ったのだろうか。
週3日マリエの都合のいい時、いつでもうちに来ていいということになった。
引きこもりに予定など無いのでカスタマイズマンツーマン教師だ。お手当てを多少もらうことになったので、予習は少ししておいた。
テキトウなお愛想をふりまけないあたしは、子供だからと言って容赦なく無駄な上辺の無駄なコミュニケーションを取ろうとしなかった。
漢字の書き取り。もくもくと解いてあたしが採点する。真面目に取り組む姿にこんな作業に教師をつける意味があるのかと思えてくる。
マリエはなかなか優秀だった。
「おしい、一箇所間違えてた。『ステキ』は『素適』じゃなくて『素敵』 素に適するんじゃなくて、素が敵なんだよ」
「あ、ほんとだ」
「こりゃ、間違えやすいね」
「ステキなことって素じゃダメってことなのかな」
「え?」
「素顔とか本来ステキじゃないものなの?」
マリエは、何かひっかかる違う問題に結び付けているかのか、険しい表情で聞いてきた。
「いや、そんなことないでしょ。素がダメとか言ったら、お姉ちゃんの名前どうすんのよ。素子だよ。失礼しちゃうじゃない!」
「あは、そうか、素の子なんだ」
素直な感想だが、気の聞いたフォローになったのかマリエは笑った。
「素子さんはお化粧とかしないの」
「え?」
暫く化粧水と乳液以上のものを肌においていない。無駄な外的ストレスがなくて肌の調子はいいが、もともとパーツのはっきりしない顔だ。化粧をしていないと言われると、素顔がキレイとかではなく何かを怠っているような気にさせられる。
「最近はね。どうして?」
「友達がみんなしてて、私、あんまり興味なくて」
「友達って学校の?」
「うん」
何かを怠っている感がさらに倍増したのと同時に、ジェネレーションギャップを感じた。
「休み時間の話もコスメのことばっかりで。私おこずかいは文房具とか買いたいから」
「へぇ」
マリエの発言は、あたしの幼少時代とのギャップは大きいが今の私とは近かった。
馴染めなかった女性職員の自慢話の定番は、旅行とブランドとコスメの話。
それらは、すべて自分を高く大きくよりセレブっぽく見せるアイテムだ。謙遜して仲間意識をもたせながら、腹のそこで比較して見下しているのが分かる。そういう装飾品の話は苦手だった。
なんとなく同じ悩みをもっているようで、距離が狭まったようにも感じた。
しかし逆に言えば、あたしの正義感は幼稚なことだったと痛感させられる。本音でぶつかり合えば解決すると思っていた青い考えを、自分の信念だと履き違えていたひきこもりの戯言。
自分が一生懸命作った巣の中で世界を終わらせていた。居心地のいい学生の巣に棲みついてた。飛び立つべき日が来たのに。飛び立ったふりしてもまだ巣の中にいた。未練がましい学生時代のあたし。それが、あたしの「素」の姿だったら、本当に全然ステキじゃない。まさに敵だ。
「そんな青いこといつまで言っているの」と言われた周りの言葉は、今までは粗雑な化粧品のように上辺だけ通過して蒸発していった。マリエを通して自分で導いたその言葉は、低分子の高級美容液のようにあたしの中に沁みこんで来る。
「そうか、でも、『素晴らしい』は晴れた素だよ」
自分の名前の由来をたどるかのように、字に書きながら肯定的な単語を引用してみた。
「え?」
「漢字って難しいね」
「面白い。ねぇ、素が言葉いろいろ調べたい」
「よーし、じゃあ、5つ見つけて、意味も調べるの宿題!」
予想外のマリエの好奇の目を見て、この部屋からも巣立てそうな気がした。