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青河ミズキは魔女とともに夜行バスに乗った

 その夜、青河ミズキは暗闇におびえて電気をつけたまま眠っていたが、わずかな尿意を覚えて夜中にふと目を覚ました。


 家族はほかの部屋ですっかり寝静まっていた。


 自分の部屋だけに明かりがついていて、なぜかいつもとどこかが違って見えた。


 ミズキは、駅からも学校からも十分ほどの、快適なベージュタイルのマンションの六階に、いじわるな祖父母とともに住んでいた。窓から外を見下ろすと、車だけがほとんど音もなく行き来していた。


 街には、心地よい雪が降っていた。舗道にはわずかに積もりはじめていた。


 窓から顔を出したミズキは、駅に向かう路線が通るバス停の近くに、真っ黒なローブに身を包んだ女性が立っているのを目に止めた。


 ミズキは、なぜだか心が高ぶるのを感じた。そして自分の頬についた生々しい傷跡を指でなぞった。同級生たちにつけられた傷だった。


 同級生たちはミズキのことをいじめの標的にしていた。


 ミズキは、静かな夜になると、時おり、同級生たちをうんと後悔させるような妄想をすることがあった。自殺する妄想もそのひとつだったが、失踪する妄想もそのひとつだった。


 ミズキはだぶだぶのフランネルのパジャマのうえにジャンパーを羽織り、靴紐を結んで、こっそりと家を出た。


 ほんとうに失踪する計画をたてたわけではなかった。けれど、バス停の前の女性がどうしても気になった。エレベーターで一階までおり、マンションを出た。バス停までは交差点をひとつ渡るだけだった。


 気品のある顔立ち、艶のある黒い髪、そして白い肌。バス停の前の女性は、まるで月の精霊のように神秘的な佇まいでそこに立っていた。


「夜中なのに、うまく出てこれたわね?」まるでミズキが家から出てくるのを待っていたかのように、女性はミズキに話しかけてきた。


「えっと、あの……」見ず知らずの女性との会話に物怖じしつつも、ミズキは、頬を上気させながら声を返した。「こんな夜中に、こんなところで、何をしているのですか?」


「『何をしているのですか?』」女性は微笑んで返した。「これは意外な質問ね。ええ、意外。珍しい質問だわ」


「だって、こんな夜中に――」


「夜中なのは分かるわ。暗いものね。それに私、魔女だもの。夜中にしか行動しないわ」


「……魔女なんですか?」


「魔女なのよ。ほら、この真っ黒なローブ、見れば分かるでしょう」


 彼女はそう言って、ローブの袖を振ってみせた。


「魔女はあなたを迎えに来たのよ」


「ええと……私を?」


「他に誰がいるのよ。あなたしかいないでしょ」


「……人違いではないでしょうか……」


「青河ミズキ。中学三年生。学校ではいじめられていて居場所がない。同居しているのはいじわるな祖父母で家にも居場所がない。あとは何を言えばいいかしら? ええと、男性経験はまだなくて……」


「人違いじゃないことはわかりました!」


 思わずミズキは大声で会話をさえぎった。


「うるさいわねえ。夜中なのよ。近所の人が目を覚ましちゃうじゃない」


「すみません……」


 よくわからないままミズキは謝った。


 あれ、わたしが悪いのだっけ……。


「とりあえず私はあなたを迎えに来たのよ。さ、逃げましょう?」


「逃げる?」


「そうよ。逃走するの。あなたを蝕むこの日常から。それともここに残る?」


 気が付くと、目の前にその『バス』がやってきていた。普通のバスとは違う――真っ黒だ。車体には何もかかれていない。ただ全体が真っ黒に塗られていた。運転席の方はよくみえなかったが、中には誰も乗っていないように見えた。


 魔女は言った。


「このバスは、あなたのために手配したバスよ」


「わたしのために……?」


「ねえ、あなたは、中学校を卒業して、高校を卒業して、大学や専門学校にいって、どこかに就職して、誰かと結婚して、あなたはその一生を終えたいと思っているのしら? 自分の人生は、他の誰とも違って特別であり、何かが起こると信じてはいないの?」


「ええと……、それは……。あ、でも、私、高校生になったら変わろうと思っているのです」


「あら。どうやって?」


「それはその……。高校に行けば、中学のときのクラスメイトとはほとんど違う学校になりそうだから……。今よりはもうちょっとうまくやれるのではないかと……」


「あら。それってあなたは何も変わっていないんじゃないの? 周りの環境が変わったにすぎないわ」


「それは……そうなんですけど」


「そう。でもね。環境が変わるのは大切なことよ。人は環境が変わらなければ変わることは出来ないもの。環境が変わることで人が変わる、私はそういう魔法を信じているの」


「魔法……ですか」


「そう。でもね、残念ながら、環境が変わることに対して、前向きに考えられる人とと後ろ向きに考えてしまう人がいるわ。あなたは、そうね、そういう意味ではとっても合格点だわ」


 その言葉は、ミズキの心を強く揺さぶった。

 いつか誰かが、そのように言ってくれるのだと信じていたような気がした。


「ねえ、あなたが見ているこの世界は本ものなのかしら? いったいそこから何が見えるの?」


 魔女は言った。


「あなたは知らないだけ。この世界の本とうの仕組みをね。このバスはあなたのために私が手配したものよ。面識のないあなたのために、ねえ、私ってとっても親切じゃない?」


「ええと……疑問が多すぎて困ってしまうのですけど、このバスに乗ると、わたしはどこへ行くことになるのでしょうか……?」


「そんなことはバスに乗ってから考えればいいことよ。ひとまずひとつだけは約束してあげるから、あなたは粛々とバスに乗車しなさい」


「約束?」


「あなたも魔女になれるわ。それもとびっきりの!」


「私が魔女に?」


「このバスに乗ればね! そしてもうあなたには考えている時間がない。バスも出発の時間だから」


 言うやいなや、魔女はミズキを引っ張ってバスに乗せた。


 疑問はたくさんあったが、抵抗する気持ちにはなれなかった。それは衝動のようなものだった。むしろ、ミズキはこのバスで遠くに逃げてやろうと考えはじめていた。この不思議な魔女に導かれるままに。


 そしてミズキは考えていた。

 いじわるな祖父母のことを。

 自分をいじめる同級生たちのことを。

 私がいなくなってうんと後悔、するだろうか。

 それを見届けることが出来ないことだけが、心残りだった。

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