花子の涙(前編)
里山と連れの男は地蔵様の前から歩き出して、神社の前で別れた。近道なのか里山はそのまま境内を突っ切って、社の前でも合掌して一礼し、祈りを込める。彼の心中をガイドするものはいないが、滋たちは大体を理解する。花子はまた涙を拭う。と思いきや、急に顔を上げて、颯爽と背を伸ばし、誰に何を言うでもなく里山のほうへと向かって進み、その背後に立つ。幽霊故に足音もない、息遣いもない。今にも触れようとする近い距離にいても里山は彼女に気づかない。花子も思い切って背後に立ったはいいが、従来の恥ずかしがり屋が後一歩を拒んで、声も発せられず、俯いたまま唇を噛み締める。滋たちは隠れながら祈る。
「男も気づけ!」
声が届いてしまったか、念が通じたか、里山は、ハッと何かに気づいて振り返る。丁度顔を上げた花子と目が合う。しばしの静寂。
「神山さん…?」
「…はい」
滋たちは今更ながら花子の苗字を知る。
「どうしてここに… いつの間に… というか、何か感じが違うような… いや、神山さんに間違いはないはずなのに、幻でも見ているような…」
「ハハハ…」
花子は恥ずかしさに顔を紅潮させて弱々しく笑う。彼女なりの挨拶のつもりであったが、里山にとってはその意味が異なる。
「初めて… 神山さんが初めて、俺に向かって、笑ってくれた気がする…」
こちらも頼りなく笑う。共に戸惑いはある。されど何故か安堵もある。花子は嬉しさ、恥ずかしさにまた俯いてしまう。
里山が喜んでくれることは素直に嬉しい。嬉しさはしかし、後悔を呼び覚ます。むかしの自分の態度の初心さや不器用さを猛省するのだ。好きが裏返って嫌いと思い、その嫌いばかりを態度で示したこと。嫌いにさせた理由を相手に考えさせ焦らせて、自分を気にかけさせたこと。それしかできなかったこと。時に愛想を尽かされて、その度に自分の方が焦って取り乱したこと。自分なりのアプローチでフォローしようとして、気が付けば体当たりをしていたこと… 里山へ笑顔を見せなかったのは、彼を親しい友人、親しい先輩として見ることができなかった証。恋仲になるか、それが叶わないなら嫌いな先輩と、両極端しか望めなかった。笑顔はおそらく、恋仲になるまで取っておこうとしていたに違いない。それも無意識で。
「私… 一度も… そんなに、笑いませんでした?」
はにかみながら聞く。陰気なものが一切失せて、顔には愛嬌もある。
「他の友だちや同僚と喋っているときは普通に楽しそうに笑っていたけど、俺に対しては、思い出す限り、一度も… こうやって自分のことを話すこともほとんどなかったし、話してくれても、何故かいつも仏頂面だったから…」
里山も、彼女の不器用を知りながら、いじめるようなことを聞く。試していると言えば格好はつくが、彼とてその実、その心の中身は花子と大差ない。上手くもないのに男女の間に駆け引きを始めて、そしてすぐに後悔する。それでも彼自身本当に誠実な男だから嘘はない。それを分かっているから、圧し掛かる自責の念に花子は再び項垂れてしまう。笑顔を作っていいのか、悪いのか、迷いは結局一年前と同じように不機嫌を顔に浮かばせる。