里山の祈り(後編)
「いや、お願いというか、何、ちょっと知り合いのことを思って祈っているだけだよ。その人が幸せにいられますように、って。ただそれだけだよ」
「ふ~ん、それだけねぇ。真面目すぎる奴だとは思っていたけど、そこまでしようとは… 女か?」
「まあ、ね。もう随分と前にフラれたけどね」
皆で茂みに隠れて二人の会話を注意深く聞いていた花子は、顔を背けてフルフルと震え出す。
「ああ、前に働いていたところにいたっていう女の話か? お前、じきに一年近く経つんじゃないのか? まだ想っているのか? 恋人も作ろうとしないし、見合いだって断って… しかもその女とは別に付き合っていたわけでもないんだろ? 不思議でならないなぁ。どういう恋の領域なんだか、俺には理解できない話だね」
大方その「女」が花子であると形づく。花子は溜る涙を零さず耐える。
「付き合ってもいないし、手だってろくに触ったこともない相手だよ。ハハハ… ほんと、不思議な話だろ? そんな相手をどうして何ヶ月も想っていられるのかって。どれだけ乙女チックなんだって。でもね、ほんと、乙女チックな話をさせてもらうと、だからこそなんだよ。その子の俺に対する動きや態度の一つ一つが俺に対する『恋』だったんだよ。これは自惚れじゃなくて、気持ちが痛いほど伝わるんだ。でも、決して器用な子じゃなかったから、こちらから近づこうとすると、急に毛嫌いしたような態度をとるんだ。それもひっくるめて『恋』だと感じていたけど、俺もまた器用じゃないから、そういう相手にどう接していいのか正しい答えを結局最後まで見つけられなくて、ときどき彼女のことも傷つけてしまうような冷たい態度をとったりもしたんだ。罪の意識もあるし、何より、そんな彼女のことを好きになってしまった自分もいてね。それまでに付き合ったり見てきたどの女性よりも強烈だったんだよ。体は重なっていないのに、それを凌駕するくらい気持ちが重なって絡み合って、二人だけの世界ができていたんだと思う。駆け引きばかりの世界だったけど」
「う~ん、まあ、二人してどれだけ純粋なんだとツッコんでやりたくなる話だな。やっぱり俺には理解に苦しむね。そんな相手のことを地蔵さんに祈って、何の意味があるって言うんだか」
「まあ、これは、俺が前の会社を辞めるとき、最後に彼女の会社のパソコンのメールに『遠くで祈っています』という言葉を残したんだ。もうフラれた後だったけどね。返信も一度もなかったけど。それでも、その通り、律儀に祈っているだけだよ。あの『恋』がただの勘違いだったって、そんなふうに割り切りたくなかったからね」
隠れる一同は揃って花子を見ると、彼女も小さく頷く。
「まったく、面倒くさい二人だな。不器用すぎる。もっとストレートに告白すればよかったものを」
「ハハハ、まあ、確かにそうだけどね。告白できるほど近づけなかったんだね。もしかしたら本当に嫌われていたのかもしれないしね。俺もガキだったね。まあ、少しずつだけど、忘れるようにはしているからね。そのうち、いつかきっと、忘れるよ」
花子はいよいよ涙を零す。後悔もある。でも、それ以上に嬉しさが、彼女の数年の苦しみを流しだす。感受性の強い弥生や美奈子はもらい泣きをする。滋も泣いてやりたくなる。ただその中、彼は頭を冷静にしてふと思う。彼女を「縛って」いたものは、里山の「祈り」だったのではないかと。
続きます




