お風呂事変
暇つぶしにどうぞ
大学2回生の足立は桶にバスタオルとシャンプー、石鹸を入れて持ち冬の寒さの中を銭湯に向かって速足で歩いていた。道は街灯の寂しげな白い光で照らされているが午後八時には真っ暗で人の通りも少なくあまり長くいたい場所ではない。
家から近いとはいえこの寒さの中ではこの道のりも楽ではない。やっとの事で銭湯が見えてくる。銭湯の暖色系の明かりが足立を迎えてくれているようだ。
「ゆ」と書かれた暖簾をめくり、中に入り慣れたもので靴を脱ぐ。大学生になり田舎から出てきた足立は一人暮らしをしておりそのアパートにはお風呂がなくこの銭湯をよく利用しているのだ。この時間帯は以外と人がおらず快適な事もよく分かっている。
番頭のおばちゃんにお金を渡して青色の暖簾をくぐると珍しい事に人がいた。
その人は学ランを生真面目に首のカラーまでしっかりと止めた少年だった。ロッカーを前にごちゃごちゃと何かをしている。最初は泥棒なのかと思ったがよく見ると彼はロッカーに何度硬貨を入れても帰ってきてしまうようだ。
少年は入ってきた足立に気づきその顔に満面の笑みを浮かべずんずん近づいてきた。
「すいません、ちょっと聞きたいんですがこれはロッカーで硬貨を入れたら鍵を閉めれる。そういった代物で間違いないですよね?」
足立は少年の物言いに違和感を覚えずにはいられなかったが無視するのも申し訳ないので。
「ええ、そうですよ。でも、お金を入れる前に服を脱いでロッカーにいれないと」
すると少年は指をパチンと鳴らして。
「そっか。そっか、そっか。お風呂に入るんだから服を脱がないとだめだよね」
当たり前の事なのにとても嬉しそうだ。彼は平凡な日常も鋭い感性で切り取れば輝くと信じている者の一人なのだろうか。
足立と少年は同時に服を脱ぎロッカーに詰め込んだ。足立は百円玉を古びたロッカーの硬貨投入口に入れ錆びた鍵を引き抜いた。
少年といえば
「たびたび、すいません。なんかだめみたいなんですけど」
やはり硬貨が帰ってきてしまうようだ。
「まあここは古い銭湯だからね。ロッカーも壊れてるのかも。って、あれ何それ」
足立は驚いて少年の手のひらに乗っている硬貨を見た。それは百円玉であったがまるで十円玉に見えるほど錆びていた。
「え、何か変ですか?」
少年は足立の驚いた声にかなり慌てているようだ。足立は思わずその硬貨を手に取った。硬貨は少年が握りしめていたようで少し生暖かい。その百円玉はなんとか読み取れた字によるとなんと最近作られた物であった。一体何があってこんなに錆びてしまったのだろうか。
「これかなり錆びてるね。たぶん、だから通らないんじゃないかな」
少年は顎に手をあていかにも悩んでますといった格好をとった。
そして、かっと目を見開き
「よし、もういいや。すいません、ご迷惑おかけしました。このまま行きます」
そういって、すたすたと歩いていってしまう。足立は慌てて呼び止めた。
「ちょっと待って、ここそんなに人こないけど全くってわけじゃないよ。ほら、お金貸してあげるから使って。いいよ、ここ鍵開けたらお金帰ってくるから」
少年は足立の言葉に信じられないほどの慈愛と不必要なほどの感謝を勝手に感じたらしい。いまにも、涙ぐみそうな顔で足立の百円玉を受け取った。
「そんな、見知らぬ人にお金を貸してくれるなんて。僕ここに来てよかったです。この感謝は忘れません」
少年は鍵を閉め古ぼけた鍵を親の形見かの様に大事に握った。足立は正直変なのにかまってしまったなと思っていた。
少年はくるりと足立の方を振り返ると
「僕は彗島寺|<すいとうじ>サンタって言います。サンタって呼んでください。お名前聞いてもよろしいですか?」
なんて変な名前だと思ったが初対面の相手にそれを言うのはあまりにも失礼だ。この明らかな偽名を聞いて足立は正直答えたくなかったがまあ仕方がないと口を開いた。
「僕は足立って言います。足立でいいよ」
「足立さんですか。シンプルでいい名前ですね。さあいきましょう」
足立は名字を褒められたのも初めてだったし、こんなに張り切って風呂に入ろうとする人にも初めて会った。足立は少年の声に引っ張られるように風呂場に向かった。
風呂場はいつもの様に空いていて誰もいない。少年は勢いよく湯船に飛び込もうとしたので足立は慌てて呼び止めなくてはならなかった。
「サンタ君まずはかけ湯をしなきゃだめだよ」
サンタは一瞬呆けた後、何かを思い出した様だ。
「そうだ、そうだ。かけ湯しなきゃ湯船が際限なく汚れてしまうんだった。ちゃんと調べてきたのに一杯のお湯をみたら我を忘れちゃいました」
てへへと照れたように笑うサンタ。やはり、不気味な物言いをする少年に困る足立。まあいいかと足立はお湯の蛇口をひねる。その時、またサンタは変なリアクションをした。
「うわー、それ蛇口ですよね。回すだけでお湯がでるなんて。夢みたいだ」
嬉々としてサンタは蛇口をひねる。白い湯気を出す透明な水にサンタははしゃいでいる。そして、何回も何回もお湯を自分の体にかける。
そのままだとずっとやっていそうだったので思わず足立は声をかけてしまう。
「サンタ君もういいよ。湯船に入ろう」
「はい。湯船か。なんかいい感じの言葉ですよね湯船って。昔の人はセンスが素晴らしい」
サンタはやはり何事にも感動しなければならない呪いを受けているのだろう。もはや、そうとしか思えなかった。
自然な流れとして二人は一緒に湯船に入った。お湯の温度は丁度良く冬の寒さに冷やされた体に染み込むように熱が伝わってくる。サンタもここは天国なのかというように幸せを表情全てを使って表現していた。
サンタは出会ってから初めて喋るのをやめた。まあ、お湯だけであんなに喜んでいたのだお風呂につかったら言葉もでないのだろう。二人は心地よい静寂と暖かさにしばらく身を任せた。
足立は体の芯まで温まったのを感じて体と頭を洗いに湯船から出た。サンタは目をつぶってまだお風呂を堪能しているようだ。
まず、足立は髪を洗う。シャンプーを使って髪を泡で包み洗浄する。ふと視線を感じ後ろを向くとサンタが立っていた。
「それってシャンプーですよね。結構泡立つんですね」
そう言って足立の真似をするように頭を洗った。泡を流してついでに体も石鹸で洗う。
「ははは、何だこれ泡だらけだ」
何がおかしいのか石鹸の泡に包まれた自分の体を見てけらけらと笑っている。足立はなんとなくこの少年はおかしな所があるがどこか憎めなさを感じていた。サンタはとにもかくにもお風呂を純粋に楽しんでいるようだ。まるで、初めてお風呂に入ったかのように。
そして、また二人は湯船につかる。
「サンタ君は高校生?ここら辺の学校に通ってるの?」
「いえ、高校生じゃないですよ」
「あれ、じゃあ中学生なんだ」
「いえ、僕は学生じゃないです」
足立は奇妙に思えた。学生服を着ていたのに学生じゃないとはつまりコスプレということだろうか銭湯にわざわざそんな服装で来る理由が分からなかった。サンタもなぜか少し不安そうな顔をみせる。
「じゃあ、何で学ラン着てたの?趣味?」
「え、僕の服装おかしいですか?」
「いや、別に何着てもいいんだけど学ラン着てたから学生なのかと思っただけ」
「ああ、なるほどそうゆう事ですか。実は似合う服装があれしかなかったんです。あれは学生服なんですね」
一体彼は何ものなのだろうか。それは詮索すべきではないのかもしれない。少なくともこの平和な銭湯で考えを巡らせるのも変な話だ。それに彼は悪い奴ではなさそうだ。
「そろそろ帰らないとなー、あーあやだな」
サンタが思い出したかのように呟く、そういえば結構長湯をしてしまっているなと足立も思った。サンタは名残惜しそうにしているが何か用事でもあるのだろうか。お風呂ぐらい好きなだけ入っていればいいのに。
二人はお湯からあがり風呂場の扉を開け脱衣所に入る。その瞬間火照った体を外気が心地よく冷ましてくれる。
サンタはかなり急いで学生服を着込んでいる。何か急ぐ理由でもあるのか、サンタは何かに追われる様だ。
「そんない急いでどうしたの?」
サンタは少し悲しげに微笑んだ。
「少し長湯しすぎました。望まれないお客さんが来ちゃいます」
なんだそれは、なにか意味深な事を言っているがさっきの様にふざけているだけであろう。サンタは慣れていない様子で学生服の沢山のボタンと格闘していた。サンタの方がさっさと着替え始めたのにだいたい同時に服を着る事になった。
サンタはじっと手の中を眺めている。足立も一緒に覗く。
そこには。
足立が貸した百円玉が握られてあった。
一体何を見ているのだろう。普通の百円玉であったがサンタは一心に視線を注いでいる。その一種異様な姿に足立は何も言うことができなかった。深い沈黙が脱衣所を支配していた。
ふと、サンタが顔を上げる。
「すいません。無理なお願いをしてもいいですか。この百円玉僕に頂けませんか?」
足立は思わずえっと声が出た。それはいたって普通の百円である、別に生産が少なかった頃のプレミアがついているわけでもない。しかし、そうは言っても百円である、見知らぬ人にあげる理由はない。
ただ、普通の百円に聖職者然とした澄んだ目線を注いでいるサンタに百円をあげないのはなんだかひどく悪人めいた行為に思えた。
気付けば足立は自然に口が開いて
「いいですよ、あげます、それ」
そう、答えていた。
サンタは無邪気な笑みを顔中に表した。
「ありがとうございます。大切にしますね。その変わりと言ってはなんですが、これあげます」
サンタはもう一方の手から何か取り出した。それは綺麗なのだが無機質な質感を持つ硬貨の様な物であった。百円と書いているのでまあそうなのだろう。
本来ならこんな交換は成り立たないだろうが足立は何だか今日のこの何でもない銭湯の中は説明しきれない不思議なルールに縛られているかの様に感じた。
サンタの手からひょいと硬貨をもらった。
「ありがとう。もらうよ」
今度は二人で笑いあった。
その時ふと気づいた。この硬貨少し製造年月日がおかしいということに。しかし、そんな事は些細な事である。
サンタと足立は二人で銭湯をでた。外の冷気は急激に二人の体温を奪っていった。生乾きの髪はぺったりと頭に張り付いて体を冷えさせるのに一役買っている。
「では、百円ありがとうございました。また、会いましょう」
サンタの声は白い息として吐き出されすぐに消えた。
サンタはこれからどこに行くのだろうか、まあ、そんな事はどうでもいいのだけれど。
あっさり別れの言葉を終えた彼は街灯のない暗い細い路地へ闇に溶ける様に去って行ってしまった。