夜
黒い黒い闇夜が訪れていた。
天を見上げても、地上を仄かに照らす月は無く、暗い渦がのっぺりと広がっているだけであった。
幾重にも重なった深い深い夜の闇。
その下に、小さな野原が闇に隠されていた。
森の中にぽっかりと空いた小さな空間。
そこに存在するもの全てが闇に溶けるように輪郭を失い、ぼやけて映る。
深い闇が支配する世界。
全ての色を溶かして混ぜたような闇が、どこまでも広がっている。
世界は一色で作られ、静寂が重く腰を下ろしている。
その静寂を破るものはいない。
風も恐れをなしてか、吹くことを忘れている。
虚無の静寂。
長い沈黙の声が響き、そしてその静けさを纏うように一つの生命が現れた。
闇に掻き消されそうなほどの、小さな生命。
闇に潜む大きな存在。
それは音を生み出すもの。
生み出せるもの。
けれども音は響かない。
地を踏みつけて確かに歩みを進めているのにも関わらず、生まれるのは静寂。音はない。ただその者の周りの空気が揺れるだけ。
消えそうな、確かな存在。
生命にあるはずの音が聞こえない。
静寂は立ち去らない。
地を踏む足の動きが止まった。
変わらずの無音。
その人影は闇を見つめるだけ。
全てを覆い隠す闇に、その存在が消されていく。隠されていく。
闇に、呑み込まれていく。
けれども影は動かない。闇を眺めている。
そしてその者――奈緒は闇を拒絶するように、音を発した。
「何も、見えないのね」
静寂に亀裂が走り、崩れ始めた。
闇は奈緒の周りで揺れ動く。
「それとも何も無いの?」
静寂が粉々に崩れ、呟きが闇に轟く。
奈緒以外は沈黙を守ったまま、ただそこに在り続ける。
「何も無いのも、何も見えないのも同じだね」
闇に奈緒の声が混ざっていく。
「何も無ければ見えるはずもないし、何も見えなければ何も無いのと同じこと」
奈緒は黒に隠れ、まるで闇が声を発しているかのように感じる。
否、奈緒が闇に話し掛けているのかもしれない。
けれどもこれはただの奈緒の呟き。
「ここに存在したものに、価値はない」
無感情な声だけが響く。
「だから無くてもいいよね。無いほうがいい」
空気が柔らかに揺れる。風が吹いた。
「なぜこんなに無駄なものが多いの?」
悲しげに寂しげに風が木々をそっと撫で、奈緒を包み込んだ。
優しい抱擁。
奈緒の声が止まる。沈黙が降りた。
再び静寂が現れる。
声は、無い。
風は闇に溶け、黙り込む。
動く気配も、音が紡がれる気配もしない。
長い長い時が、閑静と流れる。
いつの間にか、奈緒は闇の中から消えていた。
生命の気配はもうしない。
そこにはただ、全てを隠す闇と、それに隠された木々や愛らしい花々だけが残されていた。




