B-2
ぼくは冷静に考えてみればこの状況が僕にとって、とても恵まれているような気がしてきた。
時間は止まっても、戻ってもいない。そして、ぼくはこの図書館に来た理由など、前後のことの一切を忘れてしまっている。つまり、これは未来や過去における全ての物事からの責任を負っていないということであり、あらゆるものからの束縛を放れていて、ぼくは自由だった。完全な自由だった。例えば仮に、深夜に図書館の中にいることを後で誰かに咎められたとしても、ぼくは何も知らないというしかないし、そうなれば、それ以上責め立てることもできないだろう。
しかしそこで、ぼくの頭の中を何かが横切った。それは気味の悪いぬめぬめとした既視感のようなものだったが、意識に上っている時間があまりにも短すぎたため、捉えようとしたときにはもう影も形もなくなってしまった考えだった。しかしその正体不明の予感はいつまでも身体につきまとってきて、僕を底無しの井戸に引きずり込んだ。
ぼくはその予感を仕方なく保留し、図書館の中を歩いてみることにした。未だにこの場の雰囲気に馴染むことができず、気持ちが落ち着かなかった。恐怖を和らげるには、その源がなんであるかを知るか、あるいは慣れるしかない。
この図書館は、市内でも規模の小さな図書館で、入口近くには児童向けの本が置かれた土足厳禁のスペースがあり、奥へ行くにしたがって年をとるように、専門書や郷土史などの高度で難解な本へと変わっていく。月に一二度は読み聞かせ会のようなものもやっており、大人と子供がちょうど半分ずつの割合で利用している。夏休みの終わりに近づけば、小学生も自由研究のために本を探しに来る。ぼくも小学生の頃からこの図書館を利用しており、館内の配置や装飾は熟知していた。
しかし、夜の図書館というものは昼とはまったく装いが違っていた。
チェスの盤のように濃いグレーと薄いグレーが交互に敷き詰められた絨毯は、この暗闇の中では濃淡がわからず、雨水に濡れたコンクリートのような色をして床に広がっている。その絨毯の上では僕の靴音もくぐもった音をたてたが、真夜中の室内ではその音も森に響く肉食獣の寝息のように周りになにかを明示するには十分な音だった。どの棚も同じ形、同じ材質で同じ匂いをしていた。定規で測ったみたいにきっちりと並べられ、そこに収まる本も秩序をもって誇らしく背を向けていた。本と本の間に挟まれた作家名や五十音のガイドは幾分やつれた色をしている。
本棚でつくられた面白味のない迷路をゆっくりと時間をかけて一歩一歩踏みしめるように歩いた。なにかを急ぐ必要はないし、僕はまだ現状に対する気持ちの整理ができていない。足取りは重かった。
僕はもう一度、一つひとつを点検することにした。
配電盤が切られてしまっているのか、入口近くにある照明のスイッチは乾いた音を返すだけで何も起こらなかった。その音にはなにかが起こりそうな予感が微塵も含まれていなかった。それでもぼくは何度もスイッチを入れたり切ったりしないわけにはいかなかった。何度目かでいきなり明かりがつくとは思えないが、その音は束の間こっそりと僕を日常の世界に連れ戻してくれた。こんなことになるまでは、その音やスイッチを押すという行為に日常の匂いを感じたことはなかった。しかし、明かりが点かないことには、その日常性も次第に薄れてしまい、むしろ不穏さばかりが際立つようになった。ぼくは諦めて、館内を歩きだした。スイッチはオフの状態にしておいた。
館内にはそれぞれの場所に読書スペースとして椅子と机が置かれていた。それらはその近くにある本の対象年齢によって、大きさや材質や数が異なっている。そしてその乱雑さも異なっていた。図書館の奥にある椅子は、一部ちゃんと机の下に仕舞い込まれていないものの、ある程度の秩序を形成していた。しかし、入口近くの読書スペースでは、椅子は窓の方を向いていたり倒れていたりひっくり返っていたりした。机も窓の方に寄っていて、上には読み散らかした本や椅子が乗っていた。それはさながら、小鬼たちの宴会場のようだった。そして、それらが放置されたままでそこにあった。図書館員はこれらを直そうとは思わなかったのだろうか。まるで夜逃げでもしたみたいだった。あるいは、ぼくのために、この空間が急ごしらえで作られたような、そんな印象を受けた。
カウンターの中に回り込んで入ってみたが、新しく目に入るものはなにもなかった。とりわけ不思議なものはなかった。パソコンの電源を入れてみたが、なんの反応も示さなかった。ただ、そこからの風景は図書館の利用者としての風景とは若干違っていた。館内にあふれている埋め尽くさんばかりの本の山のすべてを理解できているような一種の優越感、いかなる未来においてもこの場所にいることが正しいのだと確信できるような高尚さのようなものがあった。ただし、それは例えば九月の心地よい昼下がりのような穏やかで退屈な時間に感じられるものだった。
カウンターの奥にはドアが一つあった。裏の事務所につながっているのかもしれない。ドアノブを回して、押してみたが動かない。引いても動かなかった。ドアノブは硬く冷たかった。ドアに覗き穴や装飾は一切無く、まるでただ壁に切れ込みを入れてノブを貼り付けただけのように見えた。ドアに耳を当て、その向こうにあるはずの空間の気配に耳を澄ませた。しかし、その向こうにあるのは沈黙であり暗闇であり、その深さは僕の想像をはるかに超えたものであるようだった。どうやらこのドアは開けるためというよりも閉めるために取り付けられたものらしい。
耳を当てている間に自然と閉じていた目を開けると、正面に鏡があった。なぜかはわからないが、入口近くに置かれていて、ぼくの身長ほどの高さがある鏡だった。背はそれほど高くないが細長く、野暮ったい髪をした無表情の男がドアに対して偏執的な愛情を抱いているかのように頬を寄せていて、薄暗い影のようになっていた。その男の像は言い様のない不穏さを滲ませていて、とても自分自身だとは思えなかった。それは独立した生命体として鏡面の向こう側に住んでいて、今、偶然それの前に姿を見せたのだと言われた方が納得するかもしれない。どちらにせよ、その像は、像だけでなく背後の風景も、違う世界のものだった。
館内のどこにも、誰も、何も、いなかった。活動という活動のすべてが停止していた。館内は完全な沈黙を保っていた。虫の一匹も見当たらない。その代わりに、ぼくだけが自由だった。まるでぼくが図書館の時間を止めたかのように。