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第1章:澱(おり)の沈殿


ステンレスのシンクは、曇りひとつなく鏡のように阿久津聖の顔を映していた。

彼女は丁寧に、しかし機械的な正確さで、白い調理服の袖を捲り上げる。これから行うのは「料理」ではない。「片付け」だ。30年かけて築き上げた自分の城から、泥棒を一人つまみ出すための清掃作業。

「先生、わざわざお越しいただけるなんて光栄です。SNS用の写真、一枚いいですか?」

弟子の小早川澪こばやかわ みおは、阿久津の秘蔵のソースを「自分の新作」として発表するためのパーティー準備に追われていた。彼女のスタジオは、機能性よりも見栄えを重視した最新のキッチン家電で溢れている。阿久津には、それがひどく浅ましく思えた。

「いいわよ、澪さん。今日はあなたのお祝いですもの。私に手伝えることがあれば言ってちょうだい」

阿久津は、持参したワインボトルをカウンターに置いた。ヴィンテージの赤。そのコルクを抜く手元は、寸分の狂いもない。

「まあ、嬉しい! ちょうど喉が渇いてたんです。あ、その前にいつものサプリだけ飲んじゃいますね。美容は戦いですから」

澪が慣れた手つきで、カウンターにあるピルケースからカプセルを一つ取り出す。阿久津の口角が、ほんの数ミリだけ上がった。

昨夜、このスタジオに忍び込み、そのカプセルの中身を入れ替えたのは自分だ。

阿久津はワイングラスを二つ並べ、トクトクと琥珀色の液体を注ぐ。

「ねえ、澪さん。料理で一番大切なのは何だと思う?」

「え? ……センス、ですかね?」

澪はサプリを口に放り込み、阿久津が差し出したワインでそれを流し込んだ。

「いいえ、**『火加減』**よ。高すぎれば焦げ付き、低すぎれば生臭さが残る。そして、引き際を間違えれば、すべてが台無しになる……。ちょうど、今のあなたのように」

数秒後、澪の顔から血の気が引いた。彼女は喉をかきむしり、信じられないという表情で阿久津を見つめる。

「……せ、んせ……これ、な……っ」

ガシャリ、と音を立ててワイングラスが床に砕けた。澪はそのまま、まるで糸の切れた人形のように、磨き上げられたタイルの上に崩れ落ちた。

阿久津は、倒れた元弟子の脈を測ることもせず、静かに時計を見た。

午後6時15分。

死神が仕事を終えるまで、あと数分。

「さあ、掃除を始めましょうか」

阿久津はバッグから予備の布巾と、使い慣れた自分の包丁を取り出した。彼女は倒れている澪を避けるようにして、まな板の前に立つ。

これから、この現場を「小早川澪が調理中に不慮の事故で亡くなった」という、美しくも悲劇的な物語に書き換えなければならない。

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