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『D&I要件で不適格となった天才脚本家は、白人男性の汚名を着ながら、影で$500万ドルの傑作を書き上げる。』

作者: 品川太朗

ハリウッドの裏側へ、ようこそ。


表舞台に立つのは、D&I(多様性)の要件を完璧に満たした「理想の旗」。


だが、その影で脚本を書いているのは、 システムから「不適格」の烙印を押された、一人の「時代遅れの天才」。


報酬、500万ドル。 ただし、契約は――生涯にわたる「沈黙」。

ピィィ、と甲高い電子音が、停滞した部屋の空気を切り裂いた。

 電子レンジが吐き出した、プラスチック容器の歪む熱と、冷凍食品の人工的なソースの焦げ付く匂い。それが、ほこりと酸っぱいビールの残り香が混じり合う、このワンルームアパートの支配的な香りだった。

「……クソが」

 アダムは、床に転がる空のアルミ缶を、つま先で無造作に蹴った。カラン、と安っぽい音を立てて転がったそれは、壁際に積み上げられた「傑作」になるはずだった脚本の束にぶつかり、虚しく止まる。

 三年前。あの夜は、こんな音はしなかった。

 三年前のハリウッド。スワロフスキーのシャンデリアが放つ無数の光の破片が、シャンパンの泡の中で弾けていた。

『凍てつく国境線』。彼、アダム・ハリソンの名を業界に刻みつけたスパイサスペンスのプレミア試写会。そのアフターパーティー。

 熱に浮かされたような賞賛が、アダムを包んでいた。

「アダム・ハリソンこそ、現代のビリー・ワイルダーだ!」

 皺の深い大御所の批評家が、その手を握りしめてきた。

「構造の完璧さ! あの第二幕の転換点は教科書に載るぞ」

「伏線回収の芸術性だ。最初の一分で、最後の一分が仕込まれている」

「何より、登場人物の心理だ。悪役ですら、観客は愛してしまう」

 スポットライトの中心。冷えたグラスを傾けながら、アダムは、自分の才能が世界を動かせると本気で信じていた。その高揚感は、アルコールよりも強く彼を酔わせた。


 彼は使い古されたラップトップに向き直った。画面には、ここ数ヶ月の心血を注ぎ込んだ企画書――環境アクティビストを主人公にしたSFの、無慈悲な「お祈りメール」が映し出されている。

『拝啓 アダム・ハリソン様。

……地球環境への切実なメッセージは素晴らしい。しかし、商業的に観客を惹きつけるには、プロットが複雑すぎます。

また、率直に申し上げますと、このテーマの深みを、白人男性の視点で描き切れるとは、我々には判断できませんでした』

「不適格、か」

 アダムは嘲るように呟いた。三年前、「完璧」と賞賛された才能は、今や「不適格」という一つの属性で裁断される。

 彼はその企画書データを、ゴミ箱アイコンにドラッグ&ドロップした。クリック音は、まるで断頭台の刃が落ちる音のように、静かな部屋に響いた。


 コン、コン。

 乾いたノックの音が、淀んだ思考を遮った。

 借金取りか、家賃の催促か。

 アダムは舌打ちし、うんざりしながら重いドアを開ける。そこに立っていたのは、このゴミ溜めのようなアパートには場違いなほど、完璧に仕立てられたアルマーニのスーツを着こなした男だった。

 リチャード・ストーン。

 大手スタジオで最も冷徹と噂されるプロデューサー。かつて、三年前のあの夜、アダムの才能を誰よりも高く評価し、絶賛した男だ。

 リチャードは、アダムの荒廃した部屋を一瞥しても、眉一つ動かさない。その視線は、室内の汚物と、アダム自身とを、同等の「処理すべき対象」としてしか見ていなかった。

「アダム。君の才能がこんな場所で腐っているのは、業界にとって損失だ」

「……お前たちのシステムが、俺を腐らせたんだろう」

 アダムは、ドアノブを握ったまま、低い声で応じた。その声には、怒りよりも乾いた諦観が滲んでいた。

「その通り。そして、君の属性は今のシステムに受け入れられない。だが、我々は合理的な解決策を見つけた」

 リチャードは、アダムの返答を待たずに部屋に足を踏み入れる。ビールのシミがついたローテーブルの上に、高級な革のブリーフケースから取り出した二つのファイルを、音を立てて置いた。

 一つは企画書。もう一つは、法務部が作成した分厚い契約書。

「『コードネーム:アリア』。スタジオが最重要ハイ・プライオリティに指定したプロジェクトだ」

 リチャードは、契約書の表紙を、磨かれた爪先でトン、と叩いた。

「報酬は、前金で100万ドル。成功報酬を含めれば、最大で500万ドルだ」

 アダムは息を呑んだ。

 100万ドル。その数字が持つ質量が、一瞬、部屋の埃っぽい空気を歪ませた気がした。

「……なぜ、俺に?」

 アダムの声は、乾燥した喉のせいで掠れていた。この三年、スタジオは彼を「時代遅れの才能」として徹底的に排除してきたはずだ。

「この企画の『フラッグ』は、君ではないからだ」

 リチャードは冷ややかに企画書を開いた。そこには、情熱的な瞳をした若い女性の写真。

「イザベル・ロドリゲス。ラテン系移民のコミュニティ出身。社会の不平等と闘う、情熱的な若手だ。D&I(多様性と包括性)要件は完璧。スタジオの上層部は、彼女の『声』に惚れ込んでいる。彼女は、我々にとって『理想の旗』だ」

 リチャードは、もう一つの薄いファイル――イザベルが書いたという初期稿を、アダムに押しやった。

 アダムは、疑念を抱きながらページをめくる。数ページ読んだだけで、リチャードが自分を呼んだ理由を、胃の腑に落ちるように理解した。

 イザベルの脚本は、熱量に満ちていた。人種差別や貧困の描写は、それを経験した者でなければ決して書けない、生々しい怒りに溢れている。

 だが、物語としては、完全に破綻していた。

 プロット構造は崩壊し、登場人物の動機は一貫せず、クライマックスはただ主人公が叫んでいるだけで、何の解決もカタルシスも生み出していない。

「……ひどいな。これじゃ誰も最後まで見ない」

「その通り」とリチャードは頷いた。

「彼女の『声』は必要だ。政治的にも、マーケティング的にも。だが、このままでは間違いなく失敗する。そこで、君の『骨格』が要る」

 リチャードは、アダムの目を真っ直ぐに見据えた。

「君は、彼女の情熱を殺さずに、大衆が熱狂する完璧な骨格を、この脚本に埋め込むんだ。ゴーストライターとして」

 ゴーストライター。

 その言葉は、熱湯を浴びせられたかのような激しい屈辱をアダムの全身に走らせた。

 自分を追いやったシステム。そのシステムが掲げる「新しい才能」の影武者になれというのか。

 しかし、同時に、アダムの指先は疼いていた。

 イザベルの初期稿は、確かにひどい。だが、その「熱量」は本物だ。

(この熱量を、俺の『骨格』で支えたら? 最高の物語が創れる……)

 創作への、飢えにも似た渇望。そして、来週には差し押さえられるかもしれない、このアパートの家賃という、冷たい現実。

「……イザベルは、自分がゴーストを使われていると知っているのか?」

「まさか」リチャードは鼻で笑った。

「彼女には、君が『構成のプロのコンサルタント』として入る、と説明する。彼女のプライドと、何よりスタジオの『理想の旗』というイメージを傷つけないために、君の存在はあくまで『影』だ」

 それは、完璧に用意された欺瞞だった。

 アダムは、500万ドルの契約書を手に取った。

 彼の視線は、ある条項に釘付けになる。

『生涯にわたる守秘義務(NDA)』

 違反した場合、前金100万ドルを含むすべての報酬の即時返還。および、違約金として、500万ドルを支払う。

 それは、才能を売る契約であると同時に、才能を封印する「檻」の契約だった。

 アダムは、ペンを握りしめた。

 震える指で、契約書の最終ページに、自分の名前を書き殴った。インクが紙に染み込んでいく様は、まるで自分の魂が吸い取られていくようだった。

 リチャードは満足そうに契約書を回収し、ブリーフケースに収めると、一言も発さずにアパートを出ていった。

 一人残されたアダムは、荒れた部屋の真ん中で、イザベル・ロドリゲスの初期稿を睨みつける。

 その熱量だけの原石に、アダムは静かにペンを入れた。

 屈辱と、500万ドルへの安堵と、そして何よりも、物語を構築することへの抑えきれない歓喜とともに。

 そこに生まれ落ちたのは、完璧な構成美を宿した、誰も知らない「天才の筆致」だった。



アダムの生活は、再び「創作」という名の高熱に支配された。

彼は荒れたアパートのドアに鍵をかけ、世界との間に物理的な境界線を引いた。イザベルの初期稿と向き合う。それは、激情的な、しかし制御されていない心臓の鼓動だけが響く原稿だった。

 アダムは、メスを入れる外科医のように、そのテキストを解体し始めた。

 イザベルが描いた「社会への怒り」という生の感情。それは物語の「心臓」であり、彼はその唯一の真実を決して消さなかった。

 彼がしたのは、その心臓から熱い血を送り出すための、強靭な「動脈」と、全体重を支える「骨格」を、ゼロから組み上げることだった。

 イザベルが単なる「被害者」として描いていた主人公に、アダムは「過去のトラウマからくる致命的な欠陥キャラクター・フロー」を与えた。その欠陥こそが、観客の共感を呼ぶ人間的な弱さだと知っていたからだ。

 散発的で、ただ叫ぶだけだった差別のシーンは、すべて主人公のその「欠陥」を抉り、成長を促すための試練として再配置された。クライマックス前、絶望の淵に立たされた主人公が、怒りによってではなく、皮肉にも自分を差別していた人物の(アダムが仕込んだ)ある言葉によって救われるという、「感情的なクリフハンガー」を挿入した。

 深夜、改稿したファイルをリチャードだけに送る。

 PCの青い光が、アダムの疲弊した、しかし満足げな顔を照らした。

(これは僕の物語ではない。だが、僕の血と肉だ。名誉が無くても、僕は最高の物語を生み出すことしかできない)

 数日後、リチャードから返信が来た。

『完璧だ。ただし、D&Iの観点から修正が要る』

 指示は、いつものように冷徹だった。

『クライマックスの白人男性の役割が大きすぎる。彼の救済を、イザベルのアイデンティティ(ラテン系)に関わる人物に置き換えろ。商業的に「分かりやすい」方がいい』

 アダムは無言で、そのシーンを修正した。芸術的なカタルシスは薄れ、政治的な正しさが挿入される。

 彼の才能は、システムに最適化された「部品」として、恐ろしいほどの精度で機能していた。


 数週間後。製作スタジオの豪華な会議室。磨き上げられたマホガニーのテーブルが、重役たちの高価なスーツを鈍く反射している。

 イザベル・ロドリゲスは、興奮を隠せずにいた。

「この物語は、私のコミュニティの叫びです。そして、この改稿版は、私のビジョンを完璧に形にしてくれました!」

 彼女が誇らしげに掲げているのは、アダムが血肉を注ぎ込んだ脚本だ。彼女は、自分の初期稿が、プロの「コンサルタント」の手によって劇的に良くなったことを、純粋に喜んでいた。

 監督が、あるページを指差して唸る。

「特に、この第二幕の転換点……主人公が自分の信念を曲げて、敵と手を組むシーンだ。ここの動機付けは天才的だ。イザベル、君はすごいな」

「あ……」

 イザベルの頬が一瞬、こわばった。

 そのシーンは、彼女の初期稿にはなく、アダムが丸ごと加筆した部分だった。

(この動機は、私が設定した主人公とは少し違う……でも、こっちの方が圧倒的に優れている)

 戸惑いが顔に出そうになった瞬間、リチャードが滑らかに介入する。

「イザベルの情熱的な『声』と、我々が用意した構成のプロの『技術』が、見事に融合した結果だ。素晴らしい化学反応だよ」

 会議の後、リチャードはイザベルを個別に呼び止めた。

「イザベル、素晴らしい会議だった。スタジオは君のビジョンを信じている」

 彼は、あくまでイザベルを「旗」として立てる。

「ただ、例の『コンサルタント』から、君のビジョンを現場でより明確にするための提案が来ている」

 リチャードが渡したのは、アダムからの指示書だった。それは、イザベルが現場で監督やキャストに伝えるための、完璧にロジカルな「台本」だ。

 イザベルは、その完璧だがどこか冷たい文章に、得体の知れない圧力を感じ始めていた。


 撮影は、驚くほど順調に進んだ。

 アダムの脚本は、キャストの演技を最大限に引き出し、監督の意図を完璧に具現化した。イザベルの初期稿にあった「熱量」と、アダムが与えた「完璧な骨格」は、撮影現場で奇跡的な化学反応を起こしていた。

完成した映画のラッシュ(未編集版)を見たスタジオ上層部は、熱狂した。

「信じられない……」

「D&I要件を満たしながら、ここまでエンターテイメントとして面白いとは!」

「今年の最有力候補だ。イザベル・ロドリゲスは本物の天才だ!」

 イザベルは、一躍、業界の寵児となった。「多様な視点」を持つ、次世代の才能として、あらゆるメディアが彼女を取り上げ始めた。

 この成功を冷徹に見届けたリチャードは、スタジオ内での評価を確固たるものにした。彼にとって、アダムの才能という「道具」は完璧に機能し、システムは円滑に作動した。



 映画『コードネーム:アリア』のプロモーションが始まった。

 街中のバス停やビルの壁面に、華やかなポスターが貼られる。

 そこには、監督、主要キャスト、そして脚本家として【イザベル・ロドリゲス】の名前だけが、大きく記載されていた。

 アダムは、500万ドルの前金で借り直した、清潔だが殺風景な高層アパートのテレビで、そのニュースを見ていた。

 インタビューに答えるイザベルが、誇らしげに語っている。

『この物語は、私の生い立ちと経験の全てです。私の声を信じてくれたスタジオに感謝します』

 アダムの心に、報酬では埋められない疼きが走った。

 自分の「血と肉」が、他人の「声」として世に出ていく。

 名誉を奪われた痛みと、最高の物語を世に送り出せたという歪んだ満足感が、彼の内部で激しくぶつかり合っていた。

 一方、イザベルもまた、成功の光の中で苦しんでいた。

 彼女は、ハリウッドの丘に買ったばかりの豪華な新居で、自分の初期稿と、アダムが改稿した完成稿を並べていた。

(私は、本当にこれを書いたのか?)

 自分の「声」が、知らないうちに、もっと巧みで、もっと冷徹な「何か」に書き換えられている。

 しかし、世間はその「何か」をこそ絶賛している。

 自己欺瞞の苦しみが、彼女を苛み始めていた。

(真実を知りたい。あの『コンサルタント』は、一体何者なの?)

 アダムのPCに、リチャードからメールが届く。

『最終報酬(400万ドル)の支払準備が整った。NDAの再確認を』

 無機質な通知だった。

 同じ頃、イザベルはリチャードに電話をかけていた。

「リチャード。素晴らしい脚本をありがとう。……ところで、例の『構成のコンサルタント』に、直接お礼が言いたいの。彼に会わせてくれない?」

 影の才能と、公の旗。

 二人の運命を分ける秘密が、今、表面化しようとしていた。



イザベルの「コンサルタントに会いたい」という申し出を、リチャードは「彼は多忙な人物で、匿名性を重んじている」と、巧みにはぐらかし続けていた。

 だが、映画の公開が近づくにつれ、イザベルの胸を占める違和感は、とげのように鋭い疑念に変わっていった。

 決定打は、最終的な編集会議でのリチャードの失言だった。

 あるシーンのカットを巡って監督とイザベルが揉めた時、リチャードが冷静に仲裁に入った。

「待て。そのシーンは観客の感情移入のピークだ。アダムが――」

 コンマ数秒。リチャードの表情が凍りついた。彼の冷徹な仮面にごくわずかな亀裂が入り、焦燥が覗いたのを、イザベルは見逃さなかった。

「……いや、『コンサルタント』が言っていた。この構成こそが、君のメッセージを最大化すると」

 会議室の全員が、その一瞬のよどみに気づいた。だが、イザベルだけが、その「アダム」という名前の響きを、心臓に突き刺さる破片のように受け止めていた。

 会議後、イザベルはあらゆる手段を使って調査を開始した。スタジオの内部データベース、リチャードの過去の担当作品、そして「アダム」という名前。

 数日後、彼女は一つの名前にたどり着く。

「アダム・ハリソン」

 数年前に天才と騒がれ、そして今や「時代遅れの白人男性」として業界から消えた脚本家。

 イザベルは震える手で、アダムの過去の脚本『凍てつく国境線』のデータを入手し、読み始めた。

 読み終えた時、彼女は愕然とした。買ったばかりのモダンな家具が並ぶオフィスが、足元から崩れ落ちていくような、激しい眩暈めまいに襲われた。

「……同じだ」

 完璧なプロット構成。緻密に計算された伏線。登場人物の心理を抉る、あの冷徹なまでの筆致。

 それは、自分が書いた『アリア』の、あの見違えるように生まれ変わった「骨格」と、完全に一致していた。

 彼女の「声」は、アダム・ハリソンの「才能」によって乗っ取られていたのだ。

 自分の成功が、他人の才能の犠牲の上に成り立っていたという事実に、彼女は絶望的なショックを受けた。同時に、この才能を影に追いやったシステムそのものへの、激しい怒りが込み上げてきた。


 イザベルは、アダムの新しいアパートの住所を突き止め、アポなしで押しかけた。

 インターホンを鳴らし、ドアが開く。

 アダムは、そこに立つイザベルの顔を見て、すべてを察した。彼女の瞳は、怒りと、裏切られた者の痛みで燃えていた。

「……何の用だ」

「あなたが、アダム・ハリソンね」

 イザベルは、アダムの返事を待たず、荒々しく部屋に踏み込んだ。そして、持ってきたタブレットを彼のラップトップの前に叩きつけた。画面には、二つの脚本データ(アダムの過去作と『アリア』の改稿版)が表示されている。

「どうして私の名前を奪ったの!?」

 イザベルの叫びが、静かで清潔なアパートの部屋に響く。

「どうして私のメッセージを、あなたの才能で歪めたの! これは私の物語だった!」

 アダムは、しばし黙って彼女の激情を受け止めていたが、やがて静かに口を開いた。その声は、怒りではなく、すべてを諦めたかのような深い疲労を帯びていた。

「歪めてなどいない。君の情熱を、大衆に届く形に『最適化』しただけだ」

「何様なの、あなたが!」

「僕は、」とアダムは自嘲気味に続けた。「僕は『伝える力』だけを持っていた。だが、この業界は、僕が『声』を持つことを許さなかった」

 アダムは、白人男性であるという理由だけで「不適格」とされ、才能を腐らせていたこと、借金に追われる生活、そして500万ドルの屈辱的な契約……そのすべてを、淡々と告白した。

 イザベルは、目の前の男を憎むと同時に、彼もまた自分と同じく、あるいはそれ以上に、リチャードが支配する「システム」の犠牲者であるという、複雑な現実に打ちのめされていた。


「……許せない」

 イザベルは震えていた。「あなたも、リチャードも、このシステムも。全部許せない」

 彼女の瞳に、再び情熱の火が宿った。それは初期稿にあった無軌道な怒りとは違う、真実を求める強い意志の光だった。

「私は、私の名誉を捨ててでも、この欺瞞を公表する。あなたが真の脚本家であることも、スタジオがD&Iを食い物にしていることも、全部」

 その足で、イザベルはリチャードのオフィスに乗り込んだ。

「リチャード。私は知っている。アダム・ハリソンが、本当の脚本家だということを。全てを公表する」

 リチャードは、その告発を聞いても、一瞬の動揺も見せなかった。

 彼はデスクの上の『アリア』のポスター(イザベルの顔が大きく写っている)を眺め、冷徹に笑った。

「イザベル。君は賢いと思っていたが、残念だ。君が公表して、誰が喜ぶ? 君のコミュニティか? いや、彼らは『理想の旗』が折れたことに失望するだけだ」

「……何ですって?」

「システムは、真実よりも『美しい虚構』を必要としている。君が公表した瞬間、君はスタジオを裏切った『感情的で不安定な女』になる。そしてアダム・ハリソンは、契約違反で全てを失う。それが現実だ」


 イザベルがオフィスを飛び出した直後、リチャードは行動を開始した。

 その夜。アダムのアパートのチャイムが鳴った。

 ドアの外に立っていたのはリチャード。そして、彼の後ろには、スタジオの弁護士と、屈強な警備員が二人控えていた。

「イザベルが動いた」

 リチャードは部屋に入るなり、冷ややかに告げた。

「彼女は、全てを公表するつもりだ。君の存在も、この契約も」

 アダムは、ゴクリと唾を飲んだ。

「アダム。君に、最終的な選択を迫るために来た」

 リチャードは、弁護士が差し出した新たな書類をテーブルに置いた。NDA(守秘義務契約)の補強文書だ。

「選択肢は二つだ。一つは、イザベルと共に真実を公表する。その場合、君はこのNDA違反で500万ドルの違約金と、前金の返還を求められる。君の全財産と、君の脚本家としての人生、その全てを失う」

 リチャードは、アダムの目を射抜いた。

「もう一つは、この虚構を最後まで演じきることだ。イザベルを『不安定な嘘つき』として切り捨てる。そうすれば、君は残りの報酬と、生涯にわたる創作の自由(我々の影で書き続ける権利)を得る」

 沈黙が部屋を支配する。

 名誉か、創作か。

 アダムは、数時間にも感じられる長い葛藤の末、震える手でペンを取った。

 彼は、人前に出られなくても、名前を奪われても、「最高の物語を創り続ける」という、ただ一点の渇望を選んだ。

 アダムは、補強文書にサインした。

 インクが紙に染み込む。彼の才能は、その瞬間、名誉と完全に切り離され、500万ドルの金と沈黙という名の檻に、永久に封印された。

 数日後。イザベル・ロドリゲスが一部のメディアに「真実」をリークしようとしたが、スタジオは即座に「彼女の精神的な不安定さ」と「過度なプレッシャーによる虚偽の発言」という声明を発表した。

 同時に、アダム・ハリソンが「コンサルタントとしてイザベルの才能を心からサポートした」という内容の(リチャードが書いた)宣誓書が提出された。

 イザベルの「声」は、システムの脅威として、完全に封殺された。

リチャードは、この「トラブル」を完璧に処理した手腕を評価され、スタジオの幹部へと昇進した。

 映画『アリア』は、記録的な大ヒットとなった。

 批評家は「D&I(多様性)と商業エンターテイメントの奇跡的な両立」と絶賛し、イザベル・ロドリゲス(の名前)は、業界の最高名誉である脚本賞の最有力候補として世界に報じられた。

 真実を知る者は、誰一人、その光の当たる場所にはいなかった。




【数年後】

 リチャード・ストーンは、スタジオの最高幹部エグゼクティブ・プロデューサーの席に座っていた。

 彼の広大なオフィスの壁、その一等地に、あの大ヒット作『アリア』が受賞した数々の黄金の像が並んでいる。そして、その隣。同じくらい高価な額縁に収められているのは、最新の「D&I(多様性と包括性)進捗報告書」だった。

 リチャードにとって、その二つは完全に同価値だった。

 彼は、今や業界の権威だった。「D&I要件を完璧に満たしながら、興行的な成功を収める『ハイブリッド企画』の立役者」として。

 彼にとって、アダム・ハリソンの才能は、もはや「脅威」でも「天才」でもない。それは、システムを円滑に動かすための「調整可能でコスト効率の良いインフラ(社会基盤)」だった。今日も、彼は新しい「旗」を見つけては、そのインフラに接続し、傑作をライン生産している。

 同じ頃。

 とある独立系映画祭の、小さな会場の片隅。

 イザベル・ロドリゲスは、質疑応答のパネルに立っていた。

 彼女は、自身の純粋なメッセージを込めた低予算のインディーズ作品を制作し続けていた。彼女の「声」は、あの頃よりも鋭く、切実だった。

 しかし、彼女の脚本は、相変わらず「構成力」に致命的な弱さを抱えており、商業的な注目を浴びることは二度となかった。

 観客の一人が、無邪気に質問を投げかける。

「ロドリゲス監督にとって、デビュー作『アリア』はどんな作品ですか?」

 イザベルは、マイクを握りしめた。指先が白くなる。

 彼女は今も、あの傑作を「自分の作品ではない」と感じながら、真実を語れない地獄を生きている。

「……あれは……」

 喉が張り付く。

「私の、原点です」

 そう答えるのが、精一杯だった。


 アダム・ハリソンは、都心の高級高層アパートの一室にいた。

 かつての荒んだアパートとは比較にならない、清潔で、機能的な空間。

 彼はここを「影のオフィス」と呼んでいた。

 500万ドルの報酬と、その後もリチャードから途切れなく発注される改稿作業によって、彼の生活は完全に安定していた。

 床にビール缶が転がることも、家賃に怯えることもない。

 彼は、もう「名誉」を求めていなかった。

 業界の賞賛も、スポットライトも、自分のものではないととっくに諦めている。

 彼は、純粋な「プロフェッショナル」へと変貌していた。

 自分の才能を、高額な報酬と引き換えに、完璧な「製品」として納品する職人。

 彼が今求めているのは、ただ二つ。

 生活の糧としての「金」と、最高の物語を完璧な形に組み上げる「創作の喜び」だけだった。

 深夜。影のオフィス。

 アダムは、リチャードに送るための改稿ファイルの最終確認をしていた。

 それは、また別の「旗」が書いた、情熱的だが構造が破綻した初期稿を、アダムが完璧な構成美を持つ傑作へと書き換えたものだった。

 彼は、送信ボタンを押す前に、静かに目を閉じた。

(世界は僕を『不適格な白人男性』と規定した)

(システムは僕から『名前』を奪った)

(だが、僕から『最高の物語を紡ぐ才能』を奪うことは、誰にもできなかった)

(この傑作は、誰の名前で世に出ようと、僕の血と肉だ)

 カチッ、とエンターキーを押す。

 ファイルは送信され、これで一日の仕事は終わった。

 アダムは椅子から立ち上がり、窓の外に広がるハリウッドの街の光を見つめた。

 それは、彼が浴びることを許されない、まばゆいばかりの「虚構の栄光」の光だった。

 彼はその光に背を向け、デスクに戻る。

 そこには、リチャードから届いたばかりの、次の仕事が置かれていた。

 また別の、新しい「旗」が書いた、熱量だけの初期稿。

 アダムはそれを手に取る。

 その表情は、疲弊でも、屈辱でもなかった。

 ただ、「まだ最高の物語を創れる」という、プロの職人だけが宿す、静かな情熱に満ちていた。

 名誉を放棄し、巨額の報酬と引き換えに影に隠れた天才は、今日も、世界が熱狂する「虚構の正義」の物語を、ただ一人、紡ぎ続けている。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。


才能、名誉、システム、そして報酬。 主人公アダム・ハリソンが最後に手にしたものが、彼にとっての「正解」だったのか。


華やかなハリウッドの光と影の中で、彼ら(アダム、イザベル、リチャード)が選んだ「プロフェッショナリズム」の形を、少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。


面白かった、あるいは何かを感じていただけましたら、 ぜひブックマークや、下の☆で評価をいただけますと、 次の創作の励みになります。



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