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今年もたくさんの人間が収穫できました

作者: U木槌

 今年もたくさんの人間が収穫できました。上出来です。畑の土を指で掬い、その匂いを確かめる農夫のように私は満ち足りた気分で硝子の壁にそっと触れました。


 壁の向こう、青白い光に満たされた広大な(むろ)には出荷を待つ「果実」たちが静かに並んでいます。ひとつひとつが瑞々しく生命力に溢れている。今年の天候は特に良かったのでしょう。どれも形が良く色艶も申し分ありません。


 私の仕事はこの農園の管理人です。父から、そしてそのまた父から受け継いできた、誇り高い仕事。私たちはこの星で唯一、人間を栽培できる一族なのです。


「ご苦労だったね」


 背後から柔らかくも芯のある声がしました。振り返らずともわかります。妻です。彼女はいつも収穫が終わったこの時期に温かい茶を持ってきてくれるのです。受け取ったカップからは湯気とともに甘い香りが広がりました。この農園でしか採れない花から淹れた特別なお茶です。


「ああ。今年は特に良い出来だ」


「本当? よかったわ。あの子たちも、きっと喜びます」


 妻の言う「あの子たち」とは私たちの子供のことではありません。私たちには子供がいませんから。彼女が指しているのは、はるか上層で暮らす「購入者」の方々のことです。彼らは私たちの育てる人間を食料とし、またある時は玩具とし、ある時は労働力として消費します。そうすることで、この閉じた世界の生態系は、完璧な調和を保っているのです。


「そうだね。きっと、ご満足いただけるだろう」


 私たちは言葉少なに茶をすすりながら、硝子越しの収穫物を眺めました。ほとんどの果実は、ただ静かにされるがままになっています。それが良い果実の証。自我が芽生える前に収穫し新鮮なうちに出荷する。それが私たちの鉄則です。


 彼らは痛みも感じません。恐怖も知りません。ただ、最も熟した最高の瞬間にその役割を終えるのです。それは幸福なことだと父はいつも言っていました。私もそう信じています。この静かで完璧な世界。守るべき、私たちの日常。


 すべてが、いつも通りでした。あの「ひとつ」に気づくまでは。




 それはほんの些細な違和感でした。ずらりと並んだ果実たちの中で、ひとつだけ。ほんの僅かにその指先が動いたように見えたのです。


 気のせいかと思いました。収穫後の果実が動くことなどありえません。適切な処理を施し機能は完全に停止させているはずですから。しかし私の目はそれを確かに捉えていました。もう一度じっと目を凝らします。区画番号7-11。今年のロットの中でも特に評価の高かった個体です。


 ぴく、と。また、指が痙攣したように動きました。


 私の心臓が、きゅう、と小さく音を立てます。これはなんだ。不良品でしょうか。あるいは未知の病気か。どちらにせよ看過できない事態です。もし他の個体に影響が及べば今年の収穫すべてが台無しになりかねません。


 私は妻に一言断り、管理通路を通って7-11の区画へと向かいました。近づくにつれて他の個体との違いがより鮮明になります。肌の色艶は最高です。体格も申し分ない。しかし、その瞳には他の個体にはない「光」が宿っているように見えました。空虚であるべきはずの瞳の奥に、何かを問いかけるような揺らめきがあるのです。


「……おい」


 私は自分でも驚くほど乾いた声で硝子壁を叩きながら呼びかけました。もちろん返事などあるはずがありません。彼らは言葉を理解しません。そもそも声を発する機能自体、とうに摘み取っているのですから。


 しかし、その個体は私の声に反応したかのように、ゆっくりと、本当にゆっくりと、顔をこちらに向けたのです。そして、その唇が声にならない形で何かの形を紡ぎました。


 呼吸を忘れました。背筋を冷たい汗が流れます。

 今まで、何千、何万という人間を収穫してきましたが、こんなことは初めてでした。


 これは、ただの不良品ではない。


 規定ではこのような異常個体は即座に「処分」しなければなりません。それがこの農園の世界の秩序を守るための絶対のルールです。頭ではわかっていました。すぐに焼却炉へ移送し痕跡すら残さぬように消し去るべきだと。


 ですが私の足は動きませんでした。その個体の瞳から目が離せなかったのです。その瞳は私に何かを訴えかけているように見えました。それは恐怖でも怒りでもない。もっと根源的な純粋な「問い」のような何か。


 お前は、誰だ?

 ここは、どこだ?


 声なき声が私の脳に直接響いてくるような錯覚。私は知らず一歩、後ずさっていました。


 この日から私の完璧だった日常に小さな、しかし消すことのできない亀裂が入ったのです。私は規則を破りこの異常個体を密かに観察し始めました。誰もいない深夜、管理室のモニターで7-11の区画だけを拡大し、その一挙手一投足を見守る日々。


 彼はただそこにいるだけでした。しかし時折、思い出したかのように指を動かし、硝子壁に何かを描くような仕草を見せるのです。最初は意味のない線にしか見えませんでしたが、毎日見続けるうちに、それが特定の形を、記号のようなものを、繰り返し描いていることに気づいてしまいました。


 それはまるで。

 星の形のように見えました。


 この世界には星などありません。あるのは青白い光を放つ天井とどこまでも続く農園の区画だけです。星という概念自体、古い記録の中にしか存在しないおとぎ話のはずでした。


 こいつは一体、何を知っているというのでしょう。

 私の知らない、世界の何を。


 好奇心と恐怖が入り混じった、初めての感情。私はその個体からますます目が離せなくなっていきました。そして、ある嵐の夜。農園全体が風の音に揺れていた、その時です。いつもはただ静かに記号を描くだけだった7-11が、初めて、明確な意思を持ったかのようにゆっくりと硝子壁を、その拳で叩いたのです。


 コン、と。


 静かな室内に響いたその小さな音は、私の世界の終わりを告げる、鐘の音のように聞こえました。



 コン、コン。その日から、7-11は壁を叩き続けました。最初はか細く躊躇うような音でした。しかし日を追うごとにその音は力を増し、今では私の頭蓋に直接響くような、鈍い、しかし明確な意思を持った打撃音へと変わっていました。それはまるで、硬い殻を内側からつつき続ける、雛鳥のようでもありました。


 私はもう後戻りのできない場所に踏み込んでしまったことを自覚していました。処分命令を無視し、異常報告を偽装し、来る日も来る日もモニターの前で孵化を待つ親鳥のように、7-11を見守り続けていました。その個体の存在は私の完璧だった世界を蝕む甘い毒でした。


 他の区画でも、ごく稀にですが指先が痙攣したり、瞼が震えたりする個体が出始めました。もちろん、それらはすべて許容範囲内の誤差として処理されましたが、私にはわかりました。7-11の奏でる音が、この農園全体に見えない波紋となって広がっているのです。


「あなた」


 ある晩、冷たく澄んだ声が私の背中に突き刺さりました。妻です。いつからそこに立っていたのでしょう。モニターに映る7-11の姿を、彼女は氷のような目で見つめていました。


「最近、ずっと様子がおかしいと思っていました。……それは、何ですの?」


「……なんでもない。少し調子の悪い個体がいるだけだ」


「調子が悪い? いいえ、違うでしょう。それは異常個体です。規則では即刻処分のはず。なぜ生かしているのですか」


 妻の言葉はどこまでも正しく、そして冷徹でした。それがこの世界を守る者のあるべき姿なのです。かつての私と同じ。しかし、今の私にはその正しさがひどく息苦しいものに感じられました。


「こいつは何かを知っている。何かを伝えようとしているんだ」


「何を、ですって? あなたどうかしています。それは果実です。私たちの食料であり商品です。それ以上でもそれ以下でもありません」


 彼女の瞳から私への信頼が消えていくのがわかりました。守るべき日常、愛する妻との間に修復不可能な亀裂が生じていく音を聞きました。


 私は衝動的に席を立ち地下の書庫へと向かいました。一族に代々伝わる禁じられた記録が眠る場所です。父から決して足を踏み入れてはならないと固く戒められていた場所。埃とカビの匂いが立ち込める中、古びた電子記録媒体を起動させると、そこには私の知らない言葉の洪水が溢れていました。


 『空』『海』『太陽』『月』


 そして、あの形。7-11が描き続けていた、あの記号。


 『星』


 記録には信じがたい事実が断片的に綴られていました。かつて人間はこの農園の外で生きていたこと。言葉を操り思考し空を見上げていたこと。私たちの世界が遥か昔に失われた世界の残骸の上に作られた、歪な箱庭に過ぎない可能性。


 頭が割れるようでした。私が信じてきたすべてが足元から崩れ落ちていく。その時でした。農園の全区画にけたたましい警報音が鳴り響いたのは。


 モニターに映し出された映像に私は息を呑みました。

7-11の区画です。彼が叩き続けた硝子の壁に蜘蛛の巣のような大きなヒビが入っていたのです。


 私は警報を緊急停止させ故障としてデータを偽装しました。しかし書庫から駆けつけた私を待っていたのは絶望に顔を歪ませた妻の姿でした。彼女はヒビの入った硝子壁と私を交互に見て震える声で言いました。


「……あなた、なんてことを。もう許しません」


 彼女は踵を返し上層へ報告するための通信室へ向かおうとします。世界の秩序を自身の夫の狂気から守るために。私はその細い腕を掴んでいました。


「待ってくれ! わからないのか? 俺たちが信じてきた世界は――」


「離して! あなたは狂ってしまったのよ!」


 彼女の瞳には、かつての愛情の代わりに恐怖と憐憫が浮かんでいました。私たちの間にあった安定した関係は完全に砕け散りました。私は彼女を部屋に押し込み外から鍵をかけました。ドアを叩き、私を罵る声が聞こえます。それを背に私は7-11の区画へと走りました。もはや確かめずにはいられなかったのです。この個体は一体何者なのか。その答えを。


 しかしそこに彼の姿はありませんでした。

 硝子壁には人が一人通れるくらいの大きな穴が空いていました。そしてその穴の向こうから私の知らない匂いを孕んだひやりと湿った風が吹き込んできていました。


 通路ではない。その向こうは通路などではなかったのです。

 恐る恐る穴を潜り抜けると、そこは「外」でした。剥き出しの土と湿った岩肌。そして見上げると、そこには青白い天井はありませんでした。どこまでも高くどこまでも暗い、底の知れない『闇』が広がっているだけ。


 そしてその闇の中に。

 無数の白い光の粒が瞬いていました。


 星。

 7-11が教えてくれようとしていたもの。


 ああ、と声にならない声が漏れました。私たちの農園はこの星の地下深くにあったのです。私たちが信じていた完璧な世界は巨大な檻の中に作られたただの栽培室に過ぎなかった。


 遠くから複数の足音が聞こえてきます。妻が閉じ込められた部屋のドアを叩く音もいつの間にか止んでいました。きっと上層の警備隊を呼んだのでしょう。


 私は、ゆっくりと自分の手のひらを見つめました。父から受け継いだ誇り高き農夫の手。たくさんの人間を収穫してきた、この手。しかし今、この手で何を育て何を収穫すればいいというのでしょう。


 全てがわからなくなりました。

 7-11はどこへ? 彼は何を伝えたかったのか? この世界の本当の姿とは?

 何もかもがあまりにも大きな謎のまま、私の中に放り込まれました。


 足音がすぐそこまで迫ってきています。

 私は生まれて初めて見る、本物の星空を見上げました。そして、なぜか、とても穏やかな気持ちで静かに微笑んでいました。


「ああ、そうか」


 私の口から呟きが漏れます。


「――今年もたくさんの人間が収穫できました。たった、ひとつだけ」


(完)

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