桃園落花
前回のあらすじ
劉備は呉討伐を強硬に決意し、諫める趙雲の言を退け、張飛の嘆願に応じて出陣を許す。
趙雲は劉禅に説得を託し、劉禅は朝堂で必死に父を止めようとするが、逆に劉備の激しい叱責を受けてしまう。
その後、劉禅は恩人・趙雲の頼みを果たしたことで父に叱られたやるせなさに苦悩し、胸の内で葛藤を抱える。
章武元年七月、蜀軍五万は成都を発した。
劉備は自ら大軍を率い、馮習を大将軍に任じ、張南・廖化・趙融・黄権ら歴戦の将を配下につけた。さらに蛮族の兵をも従え、総勢五万――蜀漢としては過去にない大規模な親征であった。
成都を発するにあたり、劉備は二人の皇子を呼び寄せ、厳かに言い渡した。
「阿斗、お前は、都の留守を任せた。阿義は、朕が指揮を執る親征軍に加われ」
「承知いたしました!」
二人は返事し、準備に取り掛かった。
劉禅は、内心この取り決めを良く思っていなかったが、自分とは直接関係のない弔い合戦で死ぬのも嫌なので、命令に従い、おとなしく留守番をすることにした。
一方、劉徳は、関羽の息子・関興、張飛の息子・張苞、趙雲の息子・趙統などと共に、都を出発した。
劉徳は胸の奥に抑えがたい昂ぶりを覚えていた。彼にとって三年ぶりの都外であり、しかも戦地に赴く道中で、故郷の近くを通るからであった。自由奔放に育った劉徳にとって、宮中での暮らしは窮屈でならなかった。成都を出た瞬間、劉徳は大きく背を伸ばし、馬上で深呼吸をした。
劉備は長江を沿って進軍し、ついに荊州に入った。
軍の先頭には劉備が馬に乗っており、劉徳はその傍らにいた。劉徳は、不慣れながらも馬に乗り、荊州の景色を眺めていた。隣には身長7尺、緑の戦袍をまとい強靭な体つきの関興と身長8尺、赤い兜を被り鍛え抜かれた筋肉を誇る張苞が立っている。彼らは、初めて戦場に赴くが、鎧を付け、武器を携えていた。
その光景はまるで、かつて黄巾党を討つために挙兵した劉備・関羽・張飛のようだった。
蜀軍は進軍の途中、野営を張って、陣を敷いていた。
その折、蒼白な顔をした張飛の部下・呉班が血相を変えて駆け込んできた。
「張将軍が……張飛将軍が部下の張達と范彊に討たれました!」
その報告に、幕舎の空気が凍りついた。
「なに……?張飛が!」
瞬間、頭の芯に鋭い痛みが走った。目の前が揺らぎ、めまいに襲われる。あまりの衝撃に膝が折れ、その場に手をついた。
「ああ、羽に続いて、飛が死んだ」
劉備の声は、嗚咽のように震えていた。
「同年同月同日に生まれることを得ずとも、同年同月同日に死せん事を願わん――」
桃園の誓いを思い出し、胸を掻き毟られるような苦しみが押し寄せる。
「残されたのは、朕のみか」
幕舎にいた諸将も皆、沈痛な面持ちで地に額を擦りつけた。誰一人として涙を堪えることはできなかった。
その夜、臨時の壇が築かれた。
黒布を垂らした祭壇には、供物が並べられた。遺体はなくとも、兵たちは皆、甲を脱いで地に伏し、慟哭が響いた。
劉備は白衣に身を改め、壇の前で声を詰まらせた。
「飛よ……お前がいなければ今日の蜀は、今の朕はない……」
額から冷たい汗を流しながら、白くなった唇で話した。
翌朝
劉備はまだ壇の前に座り込んでいた。そこへ、一歩下がった列の中から一人の若い大将が進み出る。
白い戦袍を身に纏い、白銀の兜をつけた鍛えられた長身。張苞である。
「父上の跡は……私が継ぎます」
張苞の声は冷静で、涙はなかった。劉備はその姿に顔を上げ、思わず口元をほころばせる。
「苞よ……よくぞ参った。父の面影を映す、堂々たる若者よ。呉班とともに先陣に立つ気はあるか」
悲しみの中にも光を見いだした劉備は、声を張り直した。
張苞は深く頷いて答える。
「どうぞ先手の端にお加えください。そして、父に代わって、父に勝る手柄を立てなければ、父も黄泉の国で浮かばれまいと思います」
ところが、同日、午後。
さらに劉備の前へ駆け寄る影があった。緑の戦袍、厳しい目つき。しかしその口元には熱がある。
「父上の無念、必ず晴らしてみせる!」
関興は高らかに叫び、拳を突き上げた。劉備は再び涙を流した。
* * *
いよいよ戦場となるであろう秭帰へと向かう途中、劉徳が歩み寄り、二人を見た。
「関興、張苞……これからは私と共に頼もしく戦ってくれ」
劉徳の言葉に関興は勢いよく返した。
「もちろんだ、阿義!」
すると張苞がすぐに眉をひそめた。
「おい、いくら許されたからって皇子を呼び捨ては軽すぎるだろ」
「え、でも子どもの頃、関平兄さんと家に行ったときは“阿義”って呼んでたし!」
「それは昔の話だ」
「じゃあ、“阿義殿”でどうだ?」
「……殿をつけても軽いんだよ。普通は殿下だ」
二人のやり取りに劉徳は吹き出してしまった。
「ははは、いいじゃないか。堅苦しい呼び方より、私にはそちらが似合っている」
張苞は少し肩をすくめ、「まったく……」と呟いた。
関興は嬉しそうに張苞の背を叩く。
「なあ、張兄貴。俺たち三人で桃園の誓いを継ごうぜ!」
「……兄貴って呼ぶな。我はお前より年上だが、そんな気安さは困る」
「え、でも二つしか違わないだろ? それに昔から阿義殿とは一緒に遊んでたんだぜ?」
「……我はその輪に入ってなかったんだがな」
張苞は小さく苦笑した。
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当時の1尺は約23cmだそうです