弔い合戦
前回のあらすじ
朝堂で皇太子選定を巡る派閥争いが起きる中、劉徳は自ら皇位を辞退し、兄・劉禅を選ぶように父に頼んだ。
劉備は劉徳の志を称え、劉禅を皇太子に冊立する勅命を下す。
劉禅は、弟の潔い行動に苛立ちを覚え、素直に喜べずにいた。
劉備が即位して一月ほど経った頃。
正殿に文武の臣が居並ぶ中、劉備は玉座に腰掛け、厳かに言葉を放った。
「朕は呉を討つ」
大広間は静まり返った。誰一人として口を開かず、重い沈黙が支配する。
やがて、列の端から一人、銀甲をまとった趙雲が一歩進み出る。
「陛下、それはなりませぬ。関羽将軍の御死去は誠に痛恨に堪えませぬが、この戦は御私情にございます。蜀漢の繁栄と将来のためにも、どうかお控え下され」
その諫言は、場の空気を鋭く裂いた。
劉備はその切長いまなじりで彼を睨んだ。
「子龍……朕の私情だと? 国辱を雪ぐことが、私情だと申すか。呉は朕の義弟を討ったばかりでなく、朕の麾下を脱した裏切り者が皆こぞって棲息しておる国ではないか。その肉を喰らい、九族を滅ぼし、悪逆の末路を世に示さなければ、朕が皇帝として立った意義がない」
叱責の声に、趙雲は黙して頭を垂れた。他の群臣もなお沈黙を守り、誰も劉備の決意を揺るがす言葉を発しなかった。
関羽が討たれて以来、劉備は毎日のように練兵場へ赴き、自ら兵を閲し、軍馬を訓練し、ただ復讐の日を待っていた。しかし、孔明をはじめ、国家の将来を思う文武の官は、
(陛下が帝位についてまだ日浅い今、大戦を起こすべきではない)
と密かに反対の色を示していたため、劉備も仕方なく出兵を延期していた。
そんな折、張飛が成都に駆けつけた。
その日も劉備は朝議を終えると、練兵場の演舞堂に姿を見せていた。張飛は禁門にも入らずに、真っすぐそこへ向かい、帝の前にひれ伏した。そして玉座の下で、いきなり帝の御足を抱いた。
「陛下……どうか、どうか呉を討ってください! 義兄貴の仇を、今こそ……!」
嗚咽に混じる声は震え、涙が床に散った。
劉備もまた泣きながら、張飛の背中を撫でて、慰めた。
「よく参った。関羽はすでに世を去り、桃園で誓った義兄弟も、今はそちとただ二人ぞ……必ずや、そなたと共に呉へ攻め行こう」
こうして劉備は決断し、張飛の出陣を許した。
その夜、劉禅の邸宅には、いつもの文官たちに加え、老将・趙雲の姿があった。
「呉は今、討つべきではありません。魏を先に討てば、呉は自ずと滅びましょう。しかし、魏を後回しにして呉を討てば、必ずや魏と呉は手を結び、我が蜀は苦難に立たされるに違いない。陛下は、御身の恨みを優先し、国の行く末を見誤っておられるのです」
趙雲は低く、しかし一言ごとに力を込めて訴えた。劉備の意志にただ一人反対したこの男の顔には、深い焦燥が刻まれている。
「確かに……趙雲殿の言はもっともだ」
文官たちも静かに頷く。
趙雲は劉禅に向き直った。
「殿下、お願いがございます。陛下は私の諫言に耳を貸されません。どうか、殿下からお諌めください。これは蜀漢の命運を左右することなのです」
「趙雲殿の頼みとあれば、喜んでお受けいたしましょう」
「感謝する」
趙雲は立ち去った。
翌朝、劉禅は皇太子として朝堂に出向いた。
「張飛にはすでに命を下した。朕は、ただちに呉を討つ」
玉座から放たれた劉備の声は、広間に響き渡った。
「我が蜀漢の軍備は関羽の仇を討つために邁進してきたといっても過言ではない。朕、いま傾国の兵をあげ、桃園の結びを果たさん」
突然の勅命に、列立する群臣の間がざわめく。
「お待ちください、父上!」
劉禅が一歩前に出た。その声にはわずかな震えがあったが、目はまっすぐ父を見据えている。
「今はその時ではありません。国のため、民のため……どうか御思いとどまりください」
劉備の目が細まり、声が鋭くなった。
「普段は何も意見を言わぬのに今日はどうした?誰かにそう言えと命じられたのか」
予想していなかった答えに、劉禅は一瞬動揺した。
「い、いえ、これは私の本心です」
「朕と関羽とは一体である!今やその関羽なく、呉は驕り、我らを侮っておる。これ以上、朕を阻む者は――たとえ皇太子であろうと、獄に下し、首を刎ねる!」
朝堂の空気が一瞬で凍りついた。群臣は息を呑み、誰一人声を発せなかった。
その日、朝廷の儀が終わると、劉禅は自室に入った。
椅子に腰を下ろすでもなく、窓際を行ったり来たり。
「趙雲殿は、俺の命の恩人だ。それは疑いようもない」
静かにそう呟くと、拳を膝の上で握りしめた。
「……だが、そのゆえに父上の叱責をこうむるとは……まったく、釈然とせぬ」
劉禅は深く息を吐き、そのまま窓辺に寄りかかる。外からは庭の蝉しぐれが聞こえるばかりで、その背中の奥にある葛藤を、誰も知る者はいなかった。
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晩年の劉備は、もともとの温和で保守的な性格からいえば、まったく別人のような印象を受けますね。