表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/14

皇太子

前回のあらすじ

大臣たちは、皇太子の座を巡って劉禅派と劉徳派に分かれ、激しい議論を交わした。

その中で、孫尚香が蜀漢に裏切り逃亡したことが引き合いに出される。しかし、劉禅の横暴な振る舞いもまた問題となり、両派は互いに誰がよりふさわしいのかを激しく論じ合った。

蜀の未来を左右する決断の瞬間が迫っている。果たして、誰が皇太子の地位に就くのか。

 翌日、朝堂。

「さて、最終的に、皇太子には誰を立てるべきか」

「混乱を防ぐためにも、皇太子を早急に決めるべきですな」

 劉禅を推す派閥の重臣が口を開く。

「昨日の丞相のお言葉を忘れたのか。皇太子を定めるのは、急を要するものではない。それに、我ら臣下のみで決められるようなことではないのだ」

 劉徳派の者が静かに反論した。

「だが、議論の結果を見ても、長子である劉禅殿下を皇太子にすべきではないか」

「何を仰るのか」

 両派の間に再び火花が散る。重々しい空気が、朝堂を包み込んだ。

 ――バタンッ。

 唐突に扉が開く。

 一同の視線が一斉にそちらへ向く。

「その議論、もうおやめなさい」

 凛とした声が堂内に響いた。姿を現したのは、劉徳であった。

「議論の場に割って入るとは、非礼ですぞ」

「そうだ、この場にいる資格などないはずだ」

 劉禅派の臣下たちが不満の声をあげる。

 しかし、劉徳は臆することなく前へと進み出る。

「私は皇太子になりたいからここに来たのではありません」

 静かに、けれど確かに、そう言い切った。

 その場に、静寂が流れる。

「兄弟の争いで得た帝位など、私は要りません」

 劉徳の声には、揺るぎのない決意が宿っていた。

 その言葉に、文官武官を問わず、誰もが言葉を失った。

「兄上を皇太子にするよう、私から父上に申し上げます。ですから、もうこの議論は終わりにしましょう」

 劉徳はそう言い残し、朝堂をあとにする。

 その背中を、諸葛亮は静かに見送っていた。

(このような若者が、本当に帝位を望まぬというのか……)


 内殿――劉備の間

「父上、皇太子の件について、お願いがございます」

 劉徳は静かに頭を下げ、内殿に足を踏み入れた。

(……まさか、阿義まで皇位を望むつもりか)

 そう思いつつ、劉備は息子の目を見つめ返す。

「何事か、阿義よ。思うところがあるなら申してみよ」

「どうか…兄上を皇太子にお選びください」

 劉備は一瞬、言葉を失った。

「誰かにそう言えと命じられたのか?」

「いいえ、私の意志です」

「ならば、何故だ。お前が辞退する理由(わけ)は?」

「歴史を見れば、皇位をめぐる争いが国を滅ぼしてきたことは明白です。蜀漢の未来のために、私はそれを避けたい。そして、私は兄上が皇帝に相応しいと信じております」

 劉徳の言葉には裏にも表にも微塵の私心私欲はなかった。劉備は感服せざる負えなかった。

 劉備はしばし沈黙し、静かに目を閉じた。

(この子は……ここまで考えていたのか。武官が味方についてもなお、自ら皇帝の位を譲る皇子がいるとは。そなたがそのような心を持つ息子に育ってくれて朕は幸せだ。やはり、そなたが一番朕に似ておる)

「朕の願いは、才ある者が後を継ぐことだ。だが、それがそなたの真意であるならば……阿斗を皇太子に据えよう」

「ありがとうございます、父上」

 深く頭を下げ、劉徳は静かに去っていった。

 残された劉備は、一人つぶやく。

「だが、あの阿斗が、国を背負える器かどうか……」


 劉徳は内殿を後にし、夕日の差し込む回廊を歩いていた。

 屋敷へと続く石畳を踏みしめる足取りは重く、しかし乱れてはいなかった。

(……私は正しい選択をできたのでしょうか、伊籍先生)

 昨晩から、頭の中ではこの件が渦を巻いていた。兄に皇太子の座を譲る——それは臣としては潔いが、一人の皇子としては、もしかすると後悔を生む決断かもしれない。

 それでも、劉徳の胸には一つの教えが残っていた。

「位は人を飾るものにあらず、人が位を飾るものなり」

 かつて伊籍が口にした言葉だ。

 若き日の劉徳が、軽率な功名心に駆られていた頃、師が静かに諭した教えである。

(私は……背いてはいないはずだ。むしろ、この道こそが師の教えにかなう)

 そう自らに言い聞かせると、胸の奥にあったざらついた迷いが、少しずつ消えていった。

 兄が皇帝となるなら、己はその背を支え、蜀漢の柱石となればよい。

 たとえ名が史書に残らずとも、己の尽力が国の礎となれば、それでよいのだ。

「伊籍先生……これで良かったのですね」

 夜空を仰ぎ、月に向かって劉徳は小さく呟いた。

 そして、静かに誓う。

「これからは、どんな状況に置かれても、この身を蜀漢のために捧げる」

 その瞳は迷いなく、まっすぐであった。


 *   *   *


 その日の夕刻、劉禅は屋敷の一角にある広間で、側近数名と軽く酒を酌み交わしていた。

 卓の周囲には、董允をはじめ数名の文官が集まり、先ほど朝堂であった一部始終を喜々とした表情で語り合っている。

「阿義のあの行動には心底驚いたなあ。みな唖然としていた」

「これからは間違いなく殿下のお世になられますぞ」

「これは慶事にござりまする!」

 皆、まだ正式な沙汰も下っていないというのに、すでに祝賀の空気に包まれていた。


 劉禅は、杯を指で弄びながら彼らの浮ついた声を聞き流していた。

 その時、殿の扉が開き、裾をさばいた近習が静かに歩み入る。彼の表情は熱気を帯びた文官たちとは対照的に、張り詰めた冷静さを湛えていた。

 近習は御前まで進み出ると、立ったまま、龍紋の軸を持つ巻物の紐を解いた。

「――勅命を申し上げます」

 その声に、殿内のざわめきがすっと消える。

 劉禅は近習の前まで進み出ると、恭しく片膝をつき、深く頭を垂れた。

 近習は恭しく巻物を広げ、厳かに読み上げた。

「陛下の大命により、劉禅殿下を皇太子に冊立せらる」

 言葉は短く、しかし重く響いた。


 文官たちは歓喜の声を押し殺しきれず、互いに顔を見合わせて笑みを浮かべる。

 劉禅も笑顔を見せた――しかし胸の奥で、何かが引っかかっていた。

 確かに、これは望んでいた地位だ。だが、その道を開いたのは、自分ではなく劉徳だった。しかも、あの場であんな芝居がかった“潔さ”を見せつけ、皆の心を掴んでのけた。

(……勝ったのは俺のはずなのに、何故だ。まるで舞台の主役を奪われたようじゃないか)

 感謝よりも先に、じわりとした苛立ちが胸を満たしていく。

 祝杯を上げる手元は静かに、しかし指先にはかすかな力がこもっていた。

読んでくださりありがとうございます。評価とブックマーク、感想をぜひよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
たがいをライバルとして認めあう兄弟の複雑な胸のうち。 これにからむ重臣たちの思惑······好きです、大好物です。 宮中の重厚で雅な雰囲気もすごくつたわってきて、とくに最後の、劉禅派の酒宴の場面は画が…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ