皇太子
前回のあらすじ
大臣たちは、皇太子の座を巡って劉禅派と劉徳派に分かれ、激しい議論を交わした。
その中で、孫尚香が蜀漢に裏切り逃亡したことが引き合いに出される。しかし、劉禅の横暴な振る舞いもまた問題となり、両派は互いに誰がよりふさわしいのかを激しく論じ合った。
蜀の未来を左右する決断の瞬間が迫っている。果たして、誰が皇太子の地位に就くのか。
翌日、朝堂。
「さて、最終的に、皇太子には誰を立てるべきか」
「混乱を防ぐためにも、皇太子を早急に決めるべきですな」
劉禅を推す派閥の重臣が口を開く。
「昨日の丞相のお言葉を忘れたのか。皇太子を定めるのは、急を要するものではない。それに、我ら臣下のみで決められるようなことではないのだ」
劉徳派の者が静かに反論した。
「だが、議論の結果を見ても、長子である劉禅殿下を皇太子にすべきではないか」
「何を仰るのか」
両派の間に再び火花が散る。重々しい空気が、朝堂を包み込んだ。
――バタンッ。
唐突に扉が開く。
一同の視線が一斉にそちらへ向く。
「その議論、もうおやめなさい」
凛とした声が堂内に響いた。姿を現したのは、劉徳であった。
「議論の場に割って入るとは、非礼ですぞ」
「そうだ、この場にいる資格などないはずだ」
劉禅派の臣下たちが不満の声をあげる。
しかし、劉徳は臆することなく前へと進み出る。
「私は皇太子になりたいからここに来たのではありません」
静かに、けれど確かに、そう言い切った。
その場に、静寂が流れる。
「兄弟の争いで得た帝位など、私は要りません」
劉徳の声には、揺るぎのない決意が宿っていた。
その言葉に、文官武官を問わず、誰もが言葉を失った。
「兄上を皇太子にするよう、私から父上に申し上げます。ですから、もうこの議論は終わりにしましょう」
劉徳はそう言い残し、朝堂をあとにする。
その背中を、諸葛亮は静かに見送っていた。
(このような若者が、本当に帝位を望まぬというのか……)
内殿――劉備の間
「父上、皇太子の件について、お願いがございます」
劉徳は静かに頭を下げ、内殿に足を踏み入れた。
(……まさか、阿義まで皇位を望むつもりか)
そう思いつつ、劉備は息子の目を見つめ返す。
「何事か、阿義よ。思うところがあるなら申してみよ」
「どうか…兄上を皇太子にお選びください」
劉備は一瞬、言葉を失った。
「誰かにそう言えと命じられたのか?」
「いいえ、私の意志です」
「ならば、何故だ。お前が辞退する理由は?」
「歴史を見れば、皇位をめぐる争いが国を滅ぼしてきたことは明白です。蜀漢の未来のために、私はそれを避けたい。そして、私は兄上が皇帝に相応しいと信じております」
劉徳の言葉には裏にも表にも微塵の私心私欲はなかった。劉備は感服せざる負えなかった。
劉備はしばし沈黙し、静かに目を閉じた。
(この子は……ここまで考えていたのか。武官が味方についてもなお、自ら皇帝の位を譲る皇子がいるとは。そなたがそのような心を持つ息子に育ってくれて朕は幸せだ。やはり、そなたが一番朕に似ておる)
「朕の願いは、才ある者が後を継ぐことだ。だが、それがそなたの真意であるならば……阿斗を皇太子に据えよう」
「ありがとうございます、父上」
深く頭を下げ、劉徳は静かに去っていった。
残された劉備は、一人つぶやく。
「だが、あの阿斗が、国を背負える器かどうか……」
劉徳は内殿を後にし、夕日の差し込む回廊を歩いていた。
屋敷へと続く石畳を踏みしめる足取りは重く、しかし乱れてはいなかった。
(……私は正しい選択をできたのでしょうか、伊籍先生)
昨晩から、頭の中ではこの件が渦を巻いていた。兄に皇太子の座を譲る——それは臣としては潔いが、一人の皇子としては、もしかすると後悔を生む決断かもしれない。
それでも、劉徳の胸には一つの教えが残っていた。
「位は人を飾るものにあらず、人が位を飾るものなり」
かつて伊籍が口にした言葉だ。
若き日の劉徳が、軽率な功名心に駆られていた頃、師が静かに諭した教えである。
(私は……背いてはいないはずだ。むしろ、この道こそが師の教えにかなう)
そう自らに言い聞かせると、胸の奥にあったざらついた迷いが、少しずつ消えていった。
兄が皇帝となるなら、己はその背を支え、蜀漢の柱石となればよい。
たとえ名が史書に残らずとも、己の尽力が国の礎となれば、それでよいのだ。
「伊籍先生……これで良かったのですね」
夜空を仰ぎ、月に向かって劉徳は小さく呟いた。
そして、静かに誓う。
「これからは、どんな状況に置かれても、この身を蜀漢のために捧げる」
その瞳は迷いなく、まっすぐであった。
* * *
その日の夕刻、劉禅は屋敷の一角にある広間で、側近数名と軽く酒を酌み交わしていた。
卓の周囲には、董允をはじめ数名の文官が集まり、先ほど朝堂であった一部始終を喜々とした表情で語り合っている。
「阿義のあの行動には心底驚いたなあ。みな唖然としていた」
「これからは間違いなく殿下のお世になられますぞ」
「これは慶事にござりまする!」
皆、まだ正式な沙汰も下っていないというのに、すでに祝賀の空気に包まれていた。
劉禅は、杯を指で弄びながら彼らの浮ついた声を聞き流していた。
その時、殿の扉が開き、裾をさばいた近習が静かに歩み入る。彼の表情は熱気を帯びた文官たちとは対照的に、張り詰めた冷静さを湛えていた。
近習は御前まで進み出ると、立ったまま、龍紋の軸を持つ巻物の紐を解いた。
「――勅命を申し上げます」
その声に、殿内のざわめきがすっと消える。
劉禅は近習の前まで進み出ると、恭しく片膝をつき、深く頭を垂れた。
近習は恭しく巻物を広げ、厳かに読み上げた。
「陛下の大命により、劉禅殿下を皇太子に冊立せらる」
言葉は短く、しかし重く響いた。
文官たちは歓喜の声を押し殺しきれず、互いに顔を見合わせて笑みを浮かべる。
劉禅も笑顔を見せた――しかし胸の奥で、何かが引っかかっていた。
確かに、これは望んでいた地位だ。だが、その道を開いたのは、自分ではなく劉徳だった。しかも、あの場であんな芝居がかった“潔さ”を見せつけ、皆の心を掴んでのけた。
(……勝ったのは俺のはずなのに、何故だ。まるで舞台の主役を奪われたようじゃないか)
感謝よりも先に、じわりとした苛立ちが胸を満たしていく。
祝杯を上げる手元は静かに、しかし指先にはかすかな力がこもっていた。
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